【第二四三節/ペヌエルの輝き 二】
ペヌエルで生じた奇跡は、ほとんど時間差を作らずに世界中へと伝播していった。人々は崩れた家屋の下で、崩れかけの城壁の裏で、あるいは当所も無く彷徨いながら、空の真実の色を目の当たりにした。
そこに身分の上下も性別の差異も、あるいは歳も関係無い。人間の創った価値観や区分など、世界の大きさの前では何の意味も持ち得ないのだから。
故に、ラヴェンナの女王であるマリオンもまた、他の人々と等しくその奇跡を目撃することとなった。
とはいえ、天幕の中で授乳の準備をしていた彼女は、当初そのことに気が付かなかった。鐘の音が聞こえたような気もしたが、今はそれ以上の重大事が目前に迫っていて、そのことだけで頭がいっぱいになっていたのだ。木々が鬱蒼としていて光が届き難かったせいでもある。
本来なら王族の子供には乳母がつくのが当然だ。女王や王女が自ら子供に乳を飲ませることは少ない。だが、この緊急事態には一人でも多くの働き手が必要だし、何事にもてきぱきと動く乳母と、座っている以外に能の無い自分とならば、前者を解放するのは当然の考え方だとマリオンは言ったのだった。
それ自体は確かに理に適った発現かもしれないが、そもそもあのマリオンの口から発された言葉だとは、当初誰も信じられなかったほどである。今までが今までだから仕方が無いか、とマリオンは肩を竦め、やり方だけ教えてあとは外の手伝いに行くように女官や乳母たちに命じたのだった。
もちろん素人がいきなり授乳をしようとしても上手くいくはずがなく、またマリオン自身手際の良い女性ではないと知り渡っているため、結局は周囲に侍る女官たちを引き剥がすことは出来なかった。
だが、その女官や乳母たちもまた、マリオンから王子を引き離そうとはしなかった。
これは何か、良いことの前触れに思えていたからだ。
あの穢婆たちの一群が立ち去ってから、女王はまるで憑き物が落ちたかのように穏やかに、冷静になった。あまりに劇的な変化であったため、当初は毒でも盛られたのではないかと訝しむ者もいたほどだが、そもそもその時点ではまだマリオンは継火手である。毒は効かない。
だから、自ら子供に乳を飲ませるという主張は、彼女自身の望みから出たもので間違いないのだ。
それで何がどう良くなるのか、分かる者などいない。
だが、絶望の只中にあって、何か一つでも良い方向に行きそうなことがあるなら、それを守るのも従僕の使命だと考えたのだ。
そして、マリオンがぎこちない手つきで衣を脱ごうとしたところ、炊事場に行かせていたはずの乳母が転がるように天幕の中へ飛び込んできた。
いざ参上したは良いものの、乳母はろくに呂律も回っておらず、支離滅裂を極めた。だが、辛うじて「外に!」という悲鳴じみた声は聞こえたし、それも閲して悲壮なものではなかった。むしろ驚いて仕方が無い、という類のものだった。
腹が空いたとばかりに愚図る王子を抱きかかえながら、マリオンは女官たちを引き連れて外に出た。そして、一歩踏み出した途端、世界がもう、今までとは全く別の姿をしていることに気付いた。
木々は頭上を覆っていて、空の様子は依然良く分からない。だが、枝葉の覆い切れなかった箇所からは、まるで砂時計の中で零れ落ちる珪砂のように、淡い光が降り注いでいる。
マリオンは、その水溜まりのような光を一つ一つ、あたかも川の中に浮かんだ飛び石を飛ぶような心地で渡って行った。供の者たちやギヌエット大臣までもが、女王の後に付き従う。
やがて彼女は森の木々の途切れるところまでたどり着いた。そして、そこから広がる新しい世界の姿と、東の空に浮かぶ大いなる光球を目にした。
「何と……これは……」
背後でギヌエットが呆然と呟くのが聞こえた。言葉になったのはそれくらいだ。マリオンも、他の者たちも、すっかり言葉を失って立ち竦むほか無かった。
マリオンは腕の中の我が子を意識して強く抱き締めた。そうしないと、呆けて取り落としてしまいそうだったから。そして、触れた箇所から伝わってくる生々しいほどの温かさが、彼女に自分から出てきたもう一つの命のことを強く認識させた。
「グィド」
誰にも聞こえないよう、マリオンはぽつりと夫の名前を呼んだ。彼を心底夫だと思ったことは一度として無かった。陥落するラヴェンナから逃れた時でさえ。
そんな自分が、今になって彼の名前を思い出し、呟いている。滑稽で、身勝手なことかもしれない。だが、あの愚かでお人好しの坊ちゃんに、この輝かしい光景を見せられなかったことが、今はひどく悔やまれた。
彼なら、これを見る権利があっただろうに。
そう思ったところで、もうグィドには二度と会えない。遺体が見つかるかも怪しい。弔ったとて、墓石に名前を刻むのが関の山だろう。
何一つ愛してあげることが出来なかった。彼から向けられる思いに悉く背を向け続けた。傷つけ、罵倒し、彼の望むものを何一つ与えなかった。
そんな自分が、一切を赦し祝福するかのような、陽の光を浴びている。
「……でも、謝らないわよ」
腕の中で赤子がもぞもぞと動いた。我慢の限界とばかりに愚図りだすと、固まっていた従僕たちもおろおろと動き始めた。
自分はこれからも、生きていかなければならない。生き延びなければならない。
世界に光は戻ったが、それで全ての問題が解決するとは思えない。
あるいはこれまでの世界には今までの世界では無かったような障害が、いくつも立ち塞がることだろう。
自分はラヴェンナの王として、その一つ一つに足りない頭で立ち向かっていかなければならない。幼い子供を育てながら。
それはグィドが経験した戦いとも、姉であるエマヌエルが散っていった戦いとも異なるものだ。そしてきっと、終わってしまった彼らのそれより、一層辛く激しい闘争を戦うことになるだろう。
だから、謝らない。
精一杯に生き延びて見せる。
そして、いつ終わるともしれないこの戦いを、遮二無二駆け抜けてやろう。
――――何とならば、真に成熟した人間とは、不在の神や希望を信じて歩み続けることの出来る者を指すのですから。
「……お腹が空いたのね?」
愚図るのを通り越して泣き出した我が子をあやしながら、マリオンは踵を返した。
「皆も、食事の準備をなさい。何をするにしても、まずはそこからよ!」
食べなければ始まらない。人間にとって基本的で大切なことを、この子は誰にも教えられずに分かっている。もしかすると、自分たちのような不出来な両親より、ずっと頭の出来が良いのかもしれない……そんな風に考えてしまったことを、後々になってマリオンは、つくづく子煩悩なことだと苦笑することになる。
「ダメよ? 私たちなんかに似たりしちゃ」
こうして、マリオン・ゴートの新しい戦いが始まった。
◇◇◇
ラヴェンナのとある平地で、戦いが続いていた。人と夜魔とではない。人と人の戦いだった。
夜魔の軍勢によって守るべき町や村々を追われた兵士や騎士たちは連合し、襲い来る闇渡りを相手に死闘を続けていた。その目は血走り、武器も防具も傷だらけになりながらも、ただひたすらに戦闘を継続する。
そうしなければ略奪者たちに全てを持って行かれる。物的なものだけではなく、誇りや名誉でさえも。いや、最早それらさえ奪われてしまった後なのかもしれない。
マニフィカ辺境伯領の騎士だったジル・モルドランも、その戦列の中にいた。九死に一生を得た彼は、身体が十分に癒えるのも待たずに戦場へと飛び込み、そしてただひたすらに剣を振るい続けていた。
彼の念頭には、呪いと憎悪以外に最早何も存在しなかった。ただ頭の中に響き続ける、胡桃の殻の割れる音を打ち消すためだけに戦っていた。
一体あと、どれだけの闇渡りの首を刎ねれば、その音は消えるのだろう?
死を厭わない彼の剣捌きは、腕前で優るはずの闇渡りたちを慄かせた。無論、彼自身も無傷とはいかなかった。だが、歩く死体のようになりながら、それでも剣撃の激しさは一切衰えない。
そんな彼にとっては、天に光が昇ったことも、大した意味を持たなかった。それはしばし彼の目を焼いたが、光に慣れていない闇渡りたちにはさらに覿面に効いた。ほとんど身動きもとれないほどであり、そうした連中の首を刎ねていくのは鶏を絞めるよりも簡単だった。
大いなる奇跡も、彼のようになってしまった人間には救いをもたらさなかった。故に、ジル・モルドランの晦冥は、まだ終わらない。
そして、白昼の只中で血に塗れながら剣を振るい続ける悲惨さを教えてくれる者も、誰もいない。




