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闇渡りのイスラと蒼炎の御子  作者: 井上数樹
第三部/戴冠編

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【第百五九節/ユディトの宣戦布告】

 イスラが腰を上げたのと同じ頃、カナンもまた、椅子に腰掛けて一息ついていた。エマヌエルの服が妙に重く感じる。動き易さを考慮して作られているはずなのに、今は濡らした紙のように彼女の身体にまとわりついた。


 普段はピンと伸ばした背中が、少しだけ丸まっている。カナン自身もそれを自覚していた。


 傍のテーブルには、贅を凝らした料理が並んでいるが、カナンは手をつける気にならなかった。微かに空腹を覚えているのに、食道に紐が巻かれているような気分がして、食欲が湧かない。


(疲れた……)


 気がつくと、溜息を漏らしていた。カナンはそうすることを自分に許した。


 歓迎会という名の顔合わせが始まって二時間ほどだろうか。その間、カナンは休む間も無く、ひたすら挨拶に明け暮れた。次から次へと現れる要人の顔、名前を持ち前の記憶力で憶えつつ、常に完璧な所作と表情で応対した。疲れないわけがない。


 昔からこういう場所が苦手だった。


 骨の髄まで叩き込まれた上流階級としての仕草は、最早カナンにとって日常動作の一つだ。だから誰に対しても敬語で話す癖がついている。


 しかし、そんな自分に「嘘をついている」と囁く部分があることも、カナンは自覚していた。本当は闇渡りたちのように、ざっくばらんとしたやり取りをしたいと望んでいるところがある。彼らの気安いやり取りを、内心で羨ましく思ったこともある。


 自分の気質は、上流階級の人間として決して適したものではない。それを自覚すればこそカナンは、自分は煌都にいられなかったのだな、と思わずにはいられなかった。



「まるで、世界の全ての悩みを引き受けたような顔ね」



 ハッと顔を上げると、テーブルの反対側に自分と瓜二つの顔があった。だが、優に肩を覆うほど伸ばされた髪であったり、きりりと引きしまった横顔は、自分が持とうと思っても持てないものだ。


 ユディトはカナンと目を合わさず、真っ直ぐに正面を見据えていた。


 すぐ近くに双子の姉がいるという事実を、カナンはしばらくの間受け止められなかった。嬉しいとか嬉しくないという感情以前に、彼女がここにいるという事実を、現実として消化しきれなかったからだ。


 話したいと思うこと、話さなければならないこと……それらは数えきれないほど沢山ある。いつもは簡単に順序付けが出来るのに、今は何と切りだすか考えることさえ出来なかった。辛うじて口をついて出た単語は、「姉様……」という呟きだけだった。


「久しぶりね、カナン」


 ユディトは顔の向きを変えない。口調にも抑揚が無く、感情が出ていない。だがカナンは、ユディトがこういう態度の意味を、よく心得ていた。


 怒っている時だ。


「まさか本当にここまで来るなんてね。昔から言い続けていたこと、実現してしまうなんて思ってなかったわ」


「私は昔から、やると言ったことはやる女でしたよ」


「そうね。やらないって決めた時には徹底的に渋ってたものね」


 そう言われると何も返せない。


「あんたの頑固さは良く分かっているつもりだったわ。それに、決めたことをやり通す力があることも。

 でも、今度だけは認めるわけにはいかないわ」


 ユディトが顔を向ける。自分と同じ色の、しかしいくらか釣りあがった目が、射抜くように向けられていた。カナンは無意識のうちに、少しだけ身体を反らしていた。


「姉様、エデンに行くのは私一人の夢じゃなくなったんです。だから……」


「そんなこと関係無いわ。

 カナン、決闘よ。今までずっとあんたに追いつけないでいた。でも今度は違う。齧りついてでも止めてみせるわ」


 彼女の口調は静かながらも、突き刺すような力が込められていた。それに圧倒されて、カナンは言い返すことさえ出来ない。ユディトも、カナンが疲れきっている状態なら、決して強く出られないことを見抜いていた。


 生まれてからずっと双子として育ってきただけに、ユディトはカナンのことを誰よりも理解し尽くしている。カナンが何を好むのか、逆に何を嫌うのか、全て把握済みだ。


 妹を置き去りにしたまま、ユディトは席を立って人ごみの中へと戻って行った。一方的な宣戦布告を受けたカナンは、呆然としたまま姉の背中を眺めることしか出来なかった。彼女の口から、ぽつりとつぶやきが漏れた。


「…………違うよ、姉様。そうじゃないんだよ……」

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