レンチン
仕事から疲れて帰り、料理をする気力のない独り身の僕はいつもコンビニ弁当をレンジで温めて食べていた。無駄に濃い味つけで、添加物たっぷりの体に悪そうなそれが、僕の全てだった。
「三○五号室に越してきた××です」
そんなとき、彼女が隣りに越してきたのは僕にとってひとつの転機となった。
彼女が越してきた日、ふとしたきっかけから趣味の読書の話になり、さらに好きな作家が同じだということが発覚した。ひどくマイナーな作家で、会社に同世代のファンがいなかったので、僕にとって彼女は唯一の趣味を共有できる友人になった。
彼の作家の新作が発表されたのはそれからほどなくのことだった。
ある休日、彼女はひどく興奮した様子で僕の家のインターホンを連打した。
「新作、もう読みました?」
ドアを開けるなり彼女は僕にハードカバーを見せびらかした。
「実は、まだなんだ」
仕事が忙しくて本屋に行く暇もなく、インターネットで買う気にもなれなかった僕は、次の連休にでも買いに行こうと思っていた。
「それじゃあ、これ貸してあげます」
「え、いいの?」
「はい。家にあと三冊ありますから」
そのとき、僕と彼女はメールアドレスを交換した。
「読み終わったら、語り合いましょう」
彼女は目を輝かせて笑った。その顔があまりにも可愛かったので僕は目をそらした。
頻繁にメールのやり取りをするようになると、彼女はコンビニ弁当ばかりの僕を気遣って、よくタッパーを持っておすそ分けに来てくれるようになった。
「肉じゃが、作りすぎちゃったので」
「あ、ありがとう。いただきます」
彼女のおすそ分けの中でも、僕はとりわけ肉じゃがが好きだった。母の作る肉じゃがとは違う、でも、僕の好きな味だった。今でも肉じゃがを食べると彼女の作ってくれた肉じゃがの味が恋しくなるほどだ。
彼女は作家になるのが夢だった。夢の話をするとき、夢を語る彼女の目はとても真剣で、僕は彼女の横顔をただ見つめているだけだった。
「いつかあの人みたいな素敵な小説を書きたいんだ」
しかし、その夢はついに叶わなかった。
二〇一三年六月七日、彼女の二十一年の人生は幕を閉じた。
交通事故だった。
スーパーからの帰り道だったそうだ。彼女の亡骸は、死してなお、じゃがいも、牛肉、玉ねぎの入ったレジ袋を固く握りしめていたらしい。
専ら彼女の料理を温めていた電子レンジは、再びコンビニ弁当を温めはじめた。
彼女のメールの着信音だったものは、もう二度と僕の耳には聞こえない。
彼女が作ってくれるはずだった肉じゃがを夢想する。もう、それは幻想に過ぎない。
チン。どうやら温め終わったようだ。
仕事から疲れて帰り、料理をする気力のない独り身の僕はいつもコンビニ弁当をレンジで温めて食べている。無駄に濃い味つけで、添加物たっぷりの体に悪そうなそれが、僕の全てだ。
〈了〉