4章 宿の一夜、仮初の家族
身内には甘いヴァルヘムと、愛に飢えたフェオミア。
「何なんだ、この人は……」
先程は抜け目ないと思った少女は、ベッドの上で無邪気に、スヤスヤと寝息を立てていた。
「一日二食で100リオってちょっと高かったかな?」
階段を上りながら、ヴェノストはそんなことを言う。
「あんだけ値切っておいて、まだ言うか……」
呆れた様子のフェオミアに、ヴェノストは本当に驚いたらしい。
「ええ? あれでも手加減したんだよ?」
「嘘だろ⁈」
「本当だよ! 本当なら80リオまで値切りたかったんだけど……当分ここに泊まりたいし、あんまり印象、悪くしたくないしね」
(いや、もう十分悪いと思うけど……)
フェオミアはそんなことを思うが、口には出さなかった。
階段を上がりきって、それから10歩ほどで、目的の部屋につく。
鍵なんて使わなくとも、蹴れば開いてしまうようなドアを開けると、ベッドが二つとシェルフがあるだけ。
(思ってたほどひどくはないな)
窓はヒビが入っているがちゃんと閉まるし、ベッドもサイズが小さいとかいうこともない。
少し埃っぽかったが、それはヴァルヘムの魔術によって解決された。
「うんうん、なかなかいいよね!」
ヴェノストは、本当にこんなオンボロ宿で満足したらしい。
フェオミアはそんな彼女にため息をつき——もう一つの問題を思い出した。
「おい」
「うん?」
「あんた、女だろ。男と同室っつーのはまずくないのか」
え、まずいの? と彼女は自分の内側に問うたようだった。
が、返事は芳しくなかったらしい、え〜もう一部屋でとっちゃったよ、と困ったような顔をした。
しかしすぐに一転して笑顔になると、
「まあ、いいじゃん。フェオはもう、弟みたいなものなんだし」
「は?」
いきなり略称だった。しかも勝手に弟と同じ扱いに決定したらしい。
それに、と、ヴェノストは眠いのかモゴモゴ、付け加えるように言う。
「これから当分——18まではまず一緒なんだし」
「はぁあ!?」
そんなの聞いてない、と愕然としているフェオミアに、
「だって言ってないもん」
キョトンとした顔である。
(言 っ て な い も ん じ ゃ ね ぇ !!)
怒鳴りあげようとしたが、ヴェノストはズイズイとベッドに潜っていく。
あ、思ったよりいい感じ、とぼそりと呟いたかと思うと、ヴェノストは眠りに落ちていた。
「え、ちょ、ちょっと、おい、ね、寝たの?」
フェオミアは、それからも、おーい、な、なぁ、などと声をかけていたが、ヴェノストに起きる様子はない。
(嘘、本当に寝た……⁉)
だってほら、俺スリだったし、眠ったら金とられるとか、普通思わねぇか?
フェオミアはそんなふうに考えたが、そもそもヴェノストが普通のくくりに入るかどうかが微妙なところである。
もしかしたら、と彼は思考を少しさかのぼらせた。
(市場での警戒心のなさも、罠じゃなくてただの素なんじゃ……)
何ともありうる話だ。
ちらり、と寝顔を伺ってみる。
スースーと寝息を立てて、気持ち良さそうに寝ている。
なんとなく。
本当になんとなく、そっと顔を覗き込んでいると、
パチリ。
目が開いた。
「うわああああ!」
思わず飛び退く。
その大声で隣の部屋のやつが壁を叩いてきたので、すみません! とだけ言って、ヴェノストの方へ向き直る。
ヴェノストは、んあ? などと言いながら起き上がった。
しかし目に眠気はなく、むしろ普段の半眼気味なのよりもはっきりした目つきをしている。
(寝てたんじゃないのか? いや、これは……)
「ヴァ、ヴァルヘム、さん?」
「ん? なんだよ?」
弟の方だった。
(ああなるほど、警戒心がないんじゃない、警戒する必要がないんだ)
寝てる時でも、人の気配があれば、弟の方が気づく。
気づけば、もうそれだけで敵なしだ。
起きてきたヴァルヘムは、フェオミアのそばに座り込む。
怯えるフェオミアを覗き込むように顔を近づけて、
「どうした? フェオ」
「え?」
にっこりと、笑った。
(⁉ え? 何⁉ ど、どうなってんの⁉)
正直、突然の笑顔の方が睨まれるよりずっと怖い。
寝ぼけてるのか、とも思ったが、顔から見てもそんなことはなさそうだ。
「フェオ、大丈夫か? なんか困ったことがありゃあ、兄ちゃんが聞いてやるぞ?」
「に、兄ちゃんっ⁉」
一種のパニックに陥りかけたが、そこでふと思い出す。
「もしかして——ヴェノストさんが、俺のこと“弟みたいなもの”って言ったから……?」
ああ、と素直にヴァルヘムは肯定した。
(それだけで、こんなに態度が違うのか?)
そんな疑問を見てとったかのように、だってさぁ、と、彼は言う。
「だってさぁ、俺には本物の家族なんていねぇもん」
ガツンと音がなった。
フェオミアは、心臓が跳ねるのを感じる。
本物の家族。
それは、ひどくフェオミアにも響いた。
「姉ちゃんには当然、親はいるけどよ。でも、俺が生まれたのは、姉ちゃんが生まれたずっと後。俺を生んだのは、その親たちじゃねぇ」
ヴァルヘムの瞳は窓の外、遠くを見つめていた。
「でも、俺には姉ちゃんがいる。その姉ちゃんがここに来て、他に母さんと父さんができた。二人とも本物の親じゃないけど、だからこそ、本物じゃない俺の親にもなれるだろ?」
フェオミアにそれらの言葉の意味はよく分からなかったが……けれど一言も聞き漏らさないように、真剣に聞いていた。
誰にともなく語っていたヴァルヘムは、ようやくフェオミアに視線を戻す。
だからさ、そう言って続ける。
「姉ちゃんがフェオを弟って言った。それなら、俺の弟ってことだろ?」
ヴァルヘムはまた、ニッコリ笑う。
そして、まるでフェオミアを救い上げるように、手を差し伸べる。
そこには、彼が姉に向けるのと同じ優しさが宿っていた。
(違うだろ)
とは、声に出せなかった。
その手を握りたいと思うからこそ、言えなかった。
きっとヴェノストは、そんなつもりで言ってない。
フェオミアを家族だなんて、思ってはない。
そんなこと、フェオミアだって分かっている。
それでも。
そうなれたらいいな、と思ってしまう。
黙ったままのフェオミアに、ヴァルヘムは焦れたように言葉を続けた。
「俺もお前も、本物の家族じゃねぇけど、仮初の家族にゃあ、なれるんじゃねぇか?」
本物の家族。仮初の家族。
そんな言葉に、フェオミアは、ヴァルヘムが自分の事情すべてを知っているような錯覚をした。
そんなはずはない、とすぐさま否定する。
彼の境遇を、存在を、知っているのは、ほんの一握り。
それこそ彼の父と、その周りの数人のみ。
フェオミアにとって、父は最低の男だ。
憎みこそすれ、懐かしむことなどない。
本物の家族には、温もりも優しさもなかったのだから。
けれどこの仮初の家族は……。
(温かくて、優しい)
フェオミアは、ヴァルヘムの手をとった。
体温の高い、子供のような手だった。
「なぁ、その……」
「なんだ?」
フェオミアが口を開けば、ヴァルヘムはきちんと応えてくれる。
それだけで、フェオミアは胸が詰まった。
「ヴァル兄って……呼んでもいいか」
ヴァルヘムは一瞬キョトンとして、それから思い切り口をつりあげ、やんちゃに笑う。
「ああ、いいぞ!」
フェオミアは一層、その手をギュッと握った。
フェオミア「おはよう、ヴェノ姉!」
ヴェノスト「一夜で何があった」