1章 始まりの日、市場の喧騒
ここは、異世界センテルシア。
この物語は、西大陸の王国、キュレイア王都セーマの、とある市場から始まる——
市場の喧騒の中を、一人の子供が歩いていく。
異国の歌でも歌ってるのか、何ともつかぬ言葉を口にしながら、時折、楽しそうに笑う。
匂いにつられたのか、フラフラっと屋台に寄っていった。
「それなあに?」
肉屋の女将に話しかけたようだ。
あの女将は元冒険者で、豪腕が売りである。
後ろについて行っていた影は、慌てて姿を隠した。
「肉刺し串だ、どうだい?」
「何の肉?」
「塩牛さ! 美味いよぉ!」
影は、隠れながら子供の様子を伺う。
腰の装備は高級で、服装もなかなかいい。背負った剣は飾りだな、子供にゃ大きすぎる。女とも男ともつかないが……まあ、この感じは女だろ。
警戒心が薄い、いいカモだ。
「いくらかな?」
「10ネオ、きっかりだ」
「いただくよ」
少女は腰につけた荷物の中から布袋を取り出し、そこからピッタリの金を払った。
袋はなかなか膨らんでる。
よしよし、奪えるだけの金は持ってるな。
「ありがと、おばさん!」
「こちらこそ!」
肉屋と気軽そうに挨拶すると、買ったばかりの肉刺し串を頬張る。
(クッソ、美味そうだな。)
口の周りについた肉汁を拭う様子は、何とも幸せそうである。
「……行くか」
肉を食べている今が狙い目だ。
影は、誰にともなく言った。
するりと人ごみを抜けて、影は少女に近寄る。
あと五歩、四歩、三、二、一……!
影は、少女の荷物の口に手を入れる。
手が先程の布袋に触れると、思わず口元が緩んだ。
(これで何日食いつなげるだろう!)
ニヤニヤ、と笑みが漏れる。
それを盗ろうとした瞬間——その手を掴まれる。
「なっ⁉」
「なにしてんだよ? ガキが」
警戒心がない、なんてとんでもない。
鋭い目つき、この表情。
(しまった、男か!)
影はすぐさま離脱を開始する。
掴まれた手をうまく抜くと、少女——いや、少年は驚いた声を上げた。
(こういうことにゃあ、慣れてんだよっと!)
人ごみをくぐり抜け、姿を眩まそうとした時、
「水、敵を捕縛せよ」
詠唱が聞こえた。
(な、何⁉)
まさか、と思ったが、否定する暇もなく、水の縄が影を縛り付ける。
もがくが、全くもって抜けられそうにない。
(まさか、そんな馬鹿な、こいつ——)
突然放たれた魔術に、市場は一時騒然となる。
その間にも、少年は影に近寄ってくる。
(魔術師!)
影が思い切り睨みつけると、少年は、凶悪そうな表情をくるりと反転させ、少女らしい微笑みを浮かべた。
「初めまして、コソドロくん。私はヴェノストっていうんだけど、君は?」
「おばさん、肉刺し串、もう一つ頂戴な! 弟が食べたいんだって!」
少女——ヴェノストは、先程と一転して静まり返った市場で、また肉屋の女将に声をかけた。
「あ、ああ……その子、弟だったのかい?」
「え?」
ヴェノストは目線の先をたどった。
例のスリの少年。
「ううん、この子じゃないよ。あ、でもこの子の分もお願い」
「そう……さっきの術、凄かったね。あんた、魔術師?」
「違うよう、魔術師は弟。私はただの剣士だよ」
ほら、と背中の剣を見せる。
(飾りじゃなかったのか……。いや、それより弟とは?)
スリの少年は、依然縛られたままである。
しかしその拘束は腕と足に限定されたが。
「はい、20ネオね」
「……まいどあり」
女将の声にも、釈然としないような色が残っている。それは、市場にいる全員にも当てはまることだった。
「俺を、どうする気だ?」
「何?」
「警吏にでも突き出す気か」
少年の声は低い。
警戒しているのだ、とヴェノストは気づいて、自身はむしろ警戒を解いた。
「なんで突き出す子に、肉刺し串を買ってあげなきゃいけないの?」
「それは……」
言葉につまる少年に、ヴェノストは弟と似通ったところを見つけてニコニコと笑った。
警戒心が強い、というよりは、人を信用するのが苦手なのだろう。
しかしこういうタイプは、一旦信用すると、疑わず裏切らない。そして命をかけてでも、その人を守ろうとする。
(そこまでされると、ちょっと、重いんだけどね)
ヴェノストは苦笑した。
彼女には、弟の、
「そりゃひどいだろ〜、姉ちゃん」
という声が聞こえている。
「まあいいよ、とりあえずここを出ようか」
「えっ」
足の拘束だけ解いて、(この時、一瞬だけ表情が変わったのには誰も気づけなかった。)ヴェノストは少年の体を引っ張っていく。
少年といえどもう13、4。その体を引いていくのは、なかなかの重労働のはずだが——
(なるほど、あの大剣を降り回せると言うだけのことはある)
少年は、頭だけは冷静に、そんな風に考えた。
尤も、分析出来たところで、勝てそうな、いや、逃げ出せそうな方法すらなかったのだが。
その不思議な二人組が去った後、市場はまた少しして元の喧騒に戻る。
変な奴だったとは思うが、明日には、誰の口にも上がらないだろう。
元々こういった場所では、少しばかり奇異な出来事も、すぐに忘れさられるものなのだ。
設定、世界観について、詳しく知りたい方は前作を。