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第七節~~楽園喪失~~

私は立ちあがっている女を元の場所へと座らせ、運ばれてきたナンコツ揚げを女の目の前においた。女はいつしか下のスウェットを履きなおしていたが、自ら脱いで再び部屋の隅に擲った。女は明らかに、鳥のナンコツ揚げを引きかえにして、私の要求を歓迎していたのである・・・・・・

 私は立ちあがっている女を元の場所へと座らせ、運ばれてきたナンコツ揚げを女の目の前においた。女はいつしか下のスウェットを履きなおしていたが、自ら脱いで再び部屋の隅に擲った。女は明らかに、鳥のナンコツ揚げを引きかえにして、私の要求を歓迎していたのである。

とは言っても、この女は私と藤田の口論をどんな心持で聞いていたのであろうか?今に見る女の顔は、依然として感情のいくつかが欠けているようである。何の感情のよろめきもない。しかし私は気がかりになってこう聞いてみた。

「おい、キクちゃん、今さっきの俺たちの話聞いてたよな?」

「はい、二人ともなんか熱くなってましたね、だけど何言っているかよく・・・・・・。私の話ですか?・・・・・・それにしても御馳走さまです。勝手に注文しちゃって。鳥のナンコツ揚げってホントおいしいですよね」

「ああ、どんどん食えよ。おごりだからな、おごり!」

 これで安心した私は、女の両肩を持って半ば強引にソファに押し倒した。女は急な力に驚いて、酒焼けした年増の女のような声で小さくキャッ、と言った。私は今度こそは楽な態勢を築いて、事に挑もうとしたのである。

 私は薄汚い女の暴露された下半身の、分けても膝頭を手で開いて、森の茂みを悉く見た。明るみに出ているためか、その奥底に微かな薔薇の花びらが咲いているのがわかった。今は亡き母の臭いを類推させる、否、それを凌ぐほどの臭気が私の鼻を突く。私は今こそ果たさなければならないと思った。・・・・・・

 しかし、私は喜久子の森の茂みに分け入ろうとしても、そうすることができなかった。私の体はなぜだか言うことを聞かず、頑なだった。より早まる鼓動が、体の内部で鳴り響いて不愉快である。腋の下にはじっとりと嫌な汗が湧き出ているのが分かる。

 それは確かに死への脅えだった。私はややもすると、藤田の迷信的な考え方に傾いていたのである。女がいくら私を後押ししてくれようとも、それは私の単なるその場しのぎの自己正当化でしかなかったのであろう。そして完全に否定しかねる死の蓋然性には脅えるほかないのだった。とはいえ、私の根源的な願いも覆ることはない。その明快な証左として、何度も言うようだが、私の頭の中ではチェリッシュの「てんとう虫のサンバ」が、この時も絶えず流れていたからである。それもファンタスティックな楽調は、ついに絶頂を迎えようとしていたのだ。

♪あ~かあ~おきいろの~~衣装をつ~けた~~て~んと~う虫が~しゃしゃり出て――サ~ンバに合わせて~~踊りだす~~♪

 つまりこの時の私は、根源的な欲求と死への脅えとの板挟みにあった。鬱蒼とした密林を目の前にして、私は何度と根源的な欲求を断念しようとしたことか!もっともそれもできるはずがない。できることと言えば、密林の前で固まっていることだけである。不敵なほどの鼓動が、耳の内側から鼓膜を打ち破りそうである。衣服と体の間に誰かが潜んでいるかのように、火照りが異常である。刹那に襲ってきた極度の緊張は、しだいに私の神経を蝕みはじめた。そして私はいつしか意識を失っていた。・・・・・・


「イト・・・・・・サン・・・・・・イトウ・・・・・・さん・・・・・・伊藤

さん!伊藤さん、大丈夫ですか?」

「・・・・・・ああっ?・・・・・・ああ、どうした藤田?」

「よかったあ、生きてたんですね、伊藤さん!僕はてっきり・・・・・・」

「まあ、生きてるだろうな・・・・・・こうして話してるってことは・・・・・・」

すると藤田は、急な勢いで私を抱き起こした。

「むむ、俺は寝ていた・・・・・・しかも・・・・・・むむ?」

「うつ伏せで」

「顔に笹の葉のようなものが付いてる・・・・・・」

「茂みの上で寝ていましたからね」

「蜜のような粘性の強い液体も・・・・・・」

「むしろ花びらの上でしたからね」

「舌がひりひりする・・・・・・ぞ・・・・・・」

「舌を動かしていましたからね」

「もしや・・・・・・俺は・・・・・・」

体には衝撃が走った。それはたちまちに強い倦怠感をともなう衝撃だった。私は自分の手で体のいたる所を触った。膝、太腿、腹部、胸、肩、首、そして顔を隈なく。手に確かな感触を確かめたのち、私は藤田にこう叫んだ。

「どうして止めなかった!」

「僕は何度も止めましたよ!」

「嘘をつけ!」

「何度も声に出して止めましたよ!しまいにはマイクを使って・・・・・・それでも伊藤さんはうんともすんとも言いませんでした」

「バカ野郎!一刻を争う事態なのはお前のほうが分かってたじゃないか!それこそ揺すぶるなり叩くなりしてくれよ!」

「・・・・・・」

私は興奮した野猪のような格好で、瞬時に女の方を振り返った。女はソファに寝そべりながら、相も変わらずテーブルに手をのばしてナンコツ揚げを食べている。その顔はすでに良識ある人間を通り越して、むしろ白痴に近かった。私は女の顔を深く覗き込んでこう言った。

「おい、キクちゃん。俺もしかして・・・・・・なあ?」

「はい!もう一度されるのでしたら・・・・・・できればあと五皿お願いできますぅ?」


 ――私は藤田を押しのけて荒々しく部屋を出た。それからなりふり構わず走った。カラオケ店を出て、すっかり日も暮れた渋谷の街を当てもなく走った。しかし私はどこへ行こうとしていたのだろう。それは当の私にも分らなかった。とにかく真冬の寒さの中、しめやかに降る雪を体いっぱいに受けて、私は力の赦すかぎり走った。ひとえに姿形のない死というものから逃れるかのように。

 渋谷の繁華街を抜けたところで、ついに私は力尽きた。私は閑静な住宅地のとある路地で、一度ニッカポッカの膝に手をついて肩で呼吸を繰り返した。ふと背後が怖くなって後ろを振り返ったが、何も追ってくる気配はない。しかしいつまでも休んでいてはならないような気がした。私はもしかすると禁断の果実の実を食べたことにより、死なねばならなくなると考えたからだ。そうとなれば逃げるほかない。私は再び走り出した。

 死に脅えて走っていたが、尤も私の頭の中はある種の恍惚状態にあった。死の観念と同時に、私は幼少期に戻ったかのような錯覚を抱いた。私は死から逃れるように走り、且つ生前の母の幻影に追い縋るように走った。それはほとんど追いついたようだった。


 私はこのまま走り続けられると思った。その時私の舌はピリリと痺れた。





          ~~完~~




最後まで読んでいただき、本当にありがとうございます。

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