第六節~~善悪の知恵の樹の実~~
私はかゆい目をこすった。こすればこするほど、朦々と立ちのぼる温気が余計目に染みた。まばたきを幾つかしてみた。すると、瞳の潤いでようやく目を開けていられるようになった。私の視界は広闊にひろがったが、迫りくるものは、黒胡蝶の舞う太腿と、鬱蒼と生い茂った真黒い森である。太腿はことさら肉感をともなって私の顔を挟みこみそうであった・・・・・・
私はかゆい目をこすった。こすればこするほど、朦々と立ちのぼる温気が余計目に染みた。まばたきを幾つかしてみた。すると、瞳の潤いでようやく目を開けていられるようになった。私の視界は広闊にひろがったが、迫りくるものは、黒胡蝶の舞う太腿と、鬱蒼と生い茂った真黒い森である。太腿はことさら肉感をともなって私の顔を挟みこみそうであった。
この時にはもう、私の確信は揺るぎなかった。母が亡くなって以来、長らく抱いてきた願望を、今まさに果たすことができるという確信。私の体には、しだいに微細な汗が滲み出ていた。緊張のためか、私の手は震えていた。その手を女の腿の上にのせる。震えが止まるように、がっしりと二つの腿を掴んだ。そして今まさに、私のよく利く鼻と繊細な口は、ごくゆっくりと森の茂みへと近づいていった。・・・・・・
とその時、大きな拡張された叫び声が聞かれた。
「ダメーッ!伊藤さんダメーッ!」
私は驚いて、藤田の方をとっさに振り向いた。
「その女のシモの方には手を出しちゃダメなんです!」
「はっ?」
「そこの森の中はとても危険なんですよ!」
私は藤田が何を言っているのかわからなかった。私はただちにこう言った。
「おい、藤田、とりあえずマイクを下げろ、マイクでしゃべる奴がどこにいる!」
藤田はさしあたり私に従って、マイクをテーブルの上に置いた。よく見ると、藤田は興奮のためか肩を怒らせていた。額には大粒の汗をかいている。顔色は異常なほどに青白く、苦痛によってか顔は見事に歪んでいる。藤田は女に声を掛けた時辺りから、常にはない様子を見せていたが、時間が経つにつれて徐々に醜態をエスカレートさせているようである。そして今まさに、その醜態が絶頂に達したかのようでもあった。私は藤田のこの態度が実に気味悪かった。また、ようやく待ち焦がれていた行為に至ろうとしていたところを妨害されたことにより、怒りの感情すら込みあげてきた。
「おい、藤田、お前は何が言いたい?森の中が危険だっていうのはどういうことだ?」
「その女の森の茂みは、聖なる楽園なんです」
「はあ?さっぱり意味が分からん、さては藤田、この女のこと疑っているな」
「いえ、そんな失礼なこと言いませんよ。僕には分かるんですよ、キクさんの森は人間が立ち入るべき所ではないということを」
「もしや、藤田、お前・・・・・・キクちゃんの密林の中は・・・・・・アダムとイヴの楽園だと言いたいのか・・・・・・お前の言いそうなことだ」
「その通りですよ、だからその茂みには近づいてはいけないのです。ひとたび足を踏み入れることがあろうことなら・・・・・・」
「善悪の知恵の樹の実・・・・・・か?」
「その通りです。一度入ってしまったら、それを食べずにはいられないでしょうね、なにせ最初の人間であるアダムとイヴが食べてしまったほどですからね。どんな誘惑が待っているか分かりません。ただ、キクさんの楽園の中に生えている樹が、善悪の知恵の樹であるかどうかは自分にも分らないのです。一本の樹であるかどうかもあやしい。おそらく樹ではなくて花ではないでしょうか?その花の核心にはある種のコリコリした突起があって、それが善悪の知恵の樹の実に相当する・・・・・・。自分としても、女性の森の茂みがアダムとイヴの楽園であるという事例は初めてですからなんとも判断し兼ねますね。ただ、あの茂みに禁じられた食べ物があるとしたら、普通に考えてまず食用の花でしょう。それもおそらく薔薇とかその辺ですかね。しかしこれらはあくまでも推測ですよ」
「おい、藤田、まあ落ちつけよ。お前の言いたいことは分かる。しかしな、その考えは俺の目論見を木っ端微塵にするんだよ。なあ、藤田、あんまり俺を怖がらせるようなことは言わないでくれ」
「いえ、伊藤さん。これは一大事ですよ」
「俺が薔薇の核心を食べたら死ぬとでもいうのか?」
「そうなるかもしれません」
「おい、藤田、ばか言うな。と言うのもな、アダムとイヴは野の獣の中で一番狡猾な蛇の惑わしによって、善悪の知恵の樹の実を食べてしまったが、結局死にはしなかっただろう?だから大丈夫なんだよ、俺だって。死ぬなんていうのはヤハウェ神の脅しに過ぎないんだよ」
「仮に死ななかったとしてもです。伊藤さんは楽園から追放されることになりますよ」
「お前はどうしようもないな。この俺が今現在、楽園に住んでいるとでも思っているのか?」
「はい、伊藤さんはとても楽しそうに生きてるじゃないですか」
「アホか!俺は楽園なんかに住んじゃいねえ。俺は大衆世界にひっそりと住んでいるんだよ。俺は見ての通りこんなもんだ。わかっているだろう」
「伊藤さんのそういう謙虚なところ好きです・・・・・・なんてそんなこと言ってる場合じゃありません。とにかく伊藤さんは生まれてからずっと楽園に住んでいるんですよ。たとえ伊藤さんにその自覚がなくともです。伊藤さんが大衆世界に住んでいると思っているところはまさに楽園、つまりその楽園を追放されるんですから、伊藤さん的には、大衆世界を追い出されて地獄のような世界に行かなければならなくなるのと同じことを意味しますよ」
「別に地獄へ追放されてもどうってことないよ。それにな、仮に俺が地獄に追放される身になったとしてもだ。そのかわりになにか途轍もないものを得るんだからな。藤田はもちろん知ってるよな、アダムとイヴは善悪の知恵の樹の実を食べたことによって、その樹の名の通り、善悪を分別する知恵を得た。それで二人の眼は開かれて無花果樹の葉を綴り合せて、前垂を作った。つまり善悪の知恵の一つである恥を知った、ということだな」
「いや、伊藤さん、アダムとイヴが禁じられた樹の実を食べたことによって、それ以降のすべての人は善悪の知恵を持っているのですよ。ということは、僕だって伊藤さんだって既に善悪の知恵を持っているということです。今さら神の御怒りを招くようなことをしたって何の利益もありませんよ。結局楽園を追放されるだけです」
「それは違うだろう。確かに人は恥を知って、裸のままに生活することはなくなったが、知ったのは恥だけだろう。善悪の知恵のすべてを有していることはないよ。なぜなら人はそれ以降、数えきれないくらいの罪を犯してきたんだからな。アダムとイブのすぐ後の頃だって、ノアの洪水や、バベルの塔や、ソドムの滅亡などの話は、人々の罪深い行いに関係しているじゃないか。つまり禁じられた実を食べた当のアダムとイブにしか、善悪の知恵を与えられていなかったんだよ」
「前例がどうであれです。僕たちは神を恐れなければならないんです。罪は罪です。キクちゃんの薔薇の核心はヤハウェ神が禁じられたもの。食べてはいけないんですよ、絶対に。神を恐れ敬わなければ、いずれ罰が当たりますよ」
「ええぃ。うるさいうるさい!おい、藤田、ここに御座しまするキクちゃんは俺の飛びきりのタイプなんだ。そして単にタイプってだけではなくて、キクちゃんは俺に亡き母の面影をも感じさせてくれるんだよ。このことは俺にとってかなり重要なんだ。なにせ俺は、母への憧れに縋り続けることが、生きていく活力になってるんだからな。キクちゃんは俺のその願望を叶えてくれる貴重な存在なんだ」
「ダメなものはダメなんですよ。いくら伊藤さんの中にキクさんを求める理由があろうとも、優先すべきは神のご意向です。理屈がどうのこうのあっても、僕らは単純に神を恐れ、単純に神に従うべきなのです」
――失礼しま~す。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
「鳥のナンコツ揚げ五つ、お待たせいたしました」
「はい、どうも」
「では、失礼しま~す」
私と藤田が二人で、高等なのか下劣なのかわからないが、激しい口論をかわしている間、この薄汚い女は二度目のナンコツ揚げを平らげ、再度ナンコツ揚げを注文していたのである。はじめの注文も合わせると、この女はフライドポテトにスナック盛り合わせを一皿ずつ、それにナンコツ揚げは十一皿をほとんど一人で食べることになる。
私と藤田は激しい口論など忘れて、思わず顔を見合わせた。私に映る藤田の顔はたえて変わっていなかった。むしろ顔の蒼白さや歪み、額の大粒の汗といった苦痛の表情に加えて、瞳には絶望的に暗い充血がみられた。翻って藤田に映る私の顔はどうだっただろう?私の顔はここに至って清々しく晴れやかな表情を湛えただろうと思われる。なぜならば私は、藤田のいささかにも迷信的と思える考え方に動揺していたが、女がナンコツ揚げをさらに注文したことで、私の企みを後押しする力を感じたからである。あるいは藤田の発想を借りて付け足すなら、神は私を、多くの民を束ねる族長として認め、私の個人的であるがいずれは公の為になるであろう多少の罪悪を、けだし勧めているのだ。
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