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第五節~~カインの末裔~~

花模様のレースのついた、濃い肌色の、布地が細くて今にも千切れそうな、しかして十分に森の茂みを隠していた下着は、女のしめやかな脱衣を経て、部屋の隅へと擲たれた。部屋の隅で、花柄の下着は惨めなくらい小さくなっていて、まるで蝉の抜け殻のように虚ろに見えた。無論、下着には生命など宿っている訳ではないのだが、女によって装着されていたその時までは、肌色の下着は、今にもはち切れんばかりに肥えた女の太腿の一部のように見えていたのだった・・・・・・

 花模様のレースのついた、濃い肌色の、布地が細くて今にも千切れそうな、しかして十分に森の茂みを隠していた下着は、女のしめやかな脱衣を経て、部屋の隅へと擲たれた。部屋の隅で、花柄の下着は惨めなくらい小さくなっていて、まるで蝉の抜け殻のように虚ろに見えた。無論、下着には生命など宿っている訳ではないのだが、女によって装着されていたその時までは、肌色の下着は、今にもはち切れんばかりに肥えた女の太腿の一部のように見えていたのだった。

 女が下着を脱いだその時から、私の鋭敏な鼻腔は懐かしいような臭気をより感じ取った。しかし私の視線はまだ上方を漂っている。私はおそるおそるその視線を森の茂みの方へと下ろした。

 まず私の目を捕えて離さなかったのは・・・・・・鬱蒼として寂寞たる森の茂み・・・・・・ではない。私の目は、女の白くはない太腿にいくつか点綴するおぞましいほどの黒い染み・・・を瞠ったのだった。それは明らかにダニに食われた跡だったのである。

 私は寒気を感じた。しかしその寒気は一瞬にして消え去った。というのも私は、おぞましいとすら感じた女のその黒い染みが、ゆくゆく何か尊大なものに見えてきたからであった。

『この女はカインの裔の子であろうか?』私の頭には、こんな突飛な夢想が座を占めた。

『この女の太腿に散在する黒い染み、野に舞う黒胡蝶の群衆のような黒点、これはもしやヤハウェ神がカインに与えた〈しるし〉と同じものではないだろうか?この薄汚い女は日本人であろうが、ヤハウェ神はともすると、はるばる辺境にあるこの日本国に、カインの血を引き継ぐ子を、幾世代をもまたいで密かにお連れになっていたのではないだろうか?』

――カインは弟アベルを殺した咎により地のおもてから追放されたが、ヤハウェ神は彼を見放しはしなかった。カインは地上を放浪するあいだに出会う人から殺されると考えていたが、ヤハウェ神は、カインを殺す者があったら、その七倍の復讐を受けなければならない、とした。またヤハウェ神は、カインを見つけた者が彼を打ち殺さないように、一つの〈しるし〉をカインにお与えになった。こうしてカインは、ヤハウェの顔の前から去ることにはなったが、アベル殺しの咎により自らも死ぬことを免れた。そしてカインは後に妻を知り、子孫を残したが、その子孫の一人であるレメクは、カインよりもさらに恵まれた待遇にあった。レメクはその妻らに言った。「カインのための復讐が七倍だとすれば、レメクのためのは七十七倍!」と。――

『裔にいけばいくほど復讐が増すとすれば、裔の裔に当たるであろうこの白スウェット女のための復讐は、おおよそ七千七百七十七万七千七百七十七倍だろうか!ああ、なんと尊大で恵まれた神の子であろうか?彼女に危害を加えるようなことがあるとしたら、私は桁外れの復讐を受けなければならないのだ。――しかしそれもこの私には杞憂である。彼女がカインの末裔であろうことは、私にとって喜ばしいかぎりであり、なぜならば私は彼女と夫婦の契りを結ぶべく、あるいは母と子の契りを結ぶべく間柄となるからである。』

 ・・・・・・そんな戯けた夢想は、しばらくすると立ち消えた。視線を落とした私の目のまえには、凝然として、白くはない女の太腿と、その太腿に点綴する黒い染みがあるだけだった。その黒い染みは、心ならずも尊大な印象を失ってしまったが、しかしおぞましいといった印象も無くなっていた。私の視線の先にあるのは、まさに害もなければ易もない、黒胡蝶の無意味な舞いでしかなかったのである。

 果たして私は、女のダニに食われた跡から解き放たれて、ようやく繁茂する森の茂みへと視線を動かしたのだった。私はこの瞬間をどれほど心待ちにしていた

かお分かりだろうか?私の鼓動は先よりも荒々しく胸の内を打ち、緊張が体全体に拡がった。が、湧き上がる強烈な臭気は私を和ませた。それは不思議な感覚だった。

 私は森の茂みへと分け入る前に、頭をもたげて女の顔を一瞥した。女の顔は目映い光に埋もれていて、よく見えなかった。強い光が顔のどこかから放たれているのだが、その源はどうやら彼女の唇のようである。女は絶えず鳥のナンコツ揚げを食べ続けているようで、その滴る油が彼女の唇をよりいっそう輝かせていたのだ。さらに、天井のスポットライトの光が女の唇に反射して、ちょうど私の目元を照らしているのだった。

 私は照りかえす光をかわして女の顔を見た。女はやはり戸惑っているようにも、快く出迎えているようにも見える。ふと、テーブルの上を見ると鳥のナンコツ揚げは四皿目に突入していた。もはや一刻を争う事態ではないか!私は心を決めて、虚ろな顔の女にこう言った。

「おい、キクちゃん、下も舐めさせてくれ、どうだ?」

薄汚い女は何も言わず、ナンコツ揚げを一つ、口に放り込んだ。顔色一つ変えなかった。今度は大きめのナンコツ揚げをパクリと。そして咀嚼し終えたところで、女はそれと分からないくらい曖昧な首肯をした。

「おい、本当にいいのか、キクちゃん?」

女は四五個だまになっているナンコツ揚げを口に運んで、嚥下しないままに下品な口を開いて、

「はい、別にいいですよ」

と言った。その言いようは、吹く風が砂の表面をさらっていくような軽やかさだった。

 私は弥増さる鼓動を抑えようとするかのように、生唾を二度ほど飲み込んだが、それも糠に釘である。私はもはや不安と歓喜と憧憬などといった様々な感情により、前後不覚に陥りそうだった。それもそのはずである。私は今まさに、長い間探し求めてきた薔薇とその臭いを、母を腸チフスで亡くして以来ずっと希求してきた郷愁の臭いを、この手に確かなものとしようとしていたからである。のみならず、チェリッシュの「てんとう虫のサンバ」が私の頭の中で徐々にヒートアップしはじめていたのだ。

♪照れて~るあなたに~虫たちが――口づけせ~よとはやしたて――そっとあなたはくれました~~♪

 私はついに意を決して、女とテーブルとの狭隘な間隙にするりと入り込んだ。果たして私の頭は、薄汚い女の広げた両膝に挟まれた。すると、先よりも鬱蒼たる森の茂みに近づいた私の鼻腔は、さらに強烈な臭いを感じ取った。のみならず、茂みにはもわもわと温気すら立ち籠めていているようで、それは私の目に染み入る。

目に染み入る感覚・・・・・・。これは懐かしい感覚だった。――私が小学五年の、蒸し暑いある夏の一日、母が亡くなる少し前の日である。その日は幼い私が母の薔薇を最後に嗅いだ日でもある。私は今でも生々しく覚えているが、あの日の母の薔薇はとても蒸れていた。エアコンがなく、扇風機一台でまかなっている居間の片隅で、母は座布団を畳の上に敷いて、惜しげもなく私に薔薇の一群を披いてくれたのだったが、その魅惑の薔薇からは、夏の蒸し暑さによって蜻蛉が立ち昇っていた。幼い私はその蜻蛉をまともに喰らって、かゆくなった目を擦り、それでもなお恍惚となるのだった。――あの当時のかゆいと感じた感覚は、まさに今、薄汚い女の膝と膝の間に頭を入れて忽ち目に染み入ったと感じた感覚と同じだったのである。その上、私の記憶のかぎりでは、死に際の母の、蒸れた薔薇が、物心ついてから私が長らく嗅いできた臭いの中で、一等恍惚をさそったのである。するとこの女は、こんな雪の降る寒い日に、スウェット一枚で体を震わせていたのにもかかわらず、膝と膝の間にするりと入り込んだ私の、よく利く鼻を前にして、最後の母を凌ぐほどの蜻蛉を立ち昇らせているとすると、いったい私にとって何者に値するというのか?

私と母には強い血の繋がりがある。しかしこの女にはまったく血の繋がりがない。仮に私に独特の性癖がなかったとしても、私は母の髪をいじる癖を引き継ぎ、母の手料理に愛着を持ち、母の手の温もりに安心を感じる。私にとって母は郷里であり聖なる子宮である。しかしこの女は悉く赤の他人である。この女の身体的、あるいは精神的特徴というものが私と何らかの関わりを持つはずがない。彼女のやや横に間延びした体附きが、彼女のときおり見せる没個性的で自堕落な態度が、性差を含みに入れても、意識の外側で私を恍惚や安寧へと惹きこむはずがないのである。あるべきは動物的な性的欲求のみのはずである。






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