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第一節~~私の原体験~~


君は園のどの樹からでも好きなように食べてよろしい。しかし善悪の知恵の樹からは食べてはならない。その樹から食べるときは、君は死なねばならないのだ。


                  旧約聖書 創世記 第二章












 私は物心ついた時から薔薇の香りが好きだった。小学校に上がりたての頃、私はよく母の薔薇の香りを嗅いでいた。それは私にとって欠かすことのできない日課のようなもので、三度の飯よりも大事だと思われることもあった。

母の薔薇の、燦爛たる花びらとその奥に潜んだ実は、今になって思い起こすと、香りではなくて臭いと表現したほうが正しいようである。あの匂いは、決して食欲をそそるような類のものではなく、むしろこの世のありとあらゆる欲を削ぎ落してしまうような、独占的な臭いであった。

もちろん、こんな性癖は子供心にも口外してはならないと感づいていて、学校ではその話題は出さなかった。だから私は学校から帰ると、禁忌をいとも簡単に破る快感の下に、真っ先に母に薔薇をせがんだ。母は特段の反応もせず、いつもさり気なく薔薇をひらいてくれた。落ちついた私はそうしてすぐに、友達と遊びに行くのだった。

 しかし私と母、そして私と母の薔薇との関係はそう長くは続かなかった。母の薔薇の、臭いの記憶は小学五年の蒸し暑い夏のある一日で途絶えている。なぜならば、母はそれから間もなく、腸チフスで死んだからである。

子供の頃の私は、このような独特な性癖によって、おおよその生活を説明できるとも言えた。そして今はもう三十を過ぎたが、その癖は母が死んでからも、曲がりなりにも残っていた。それは、私が初めて女を知った十七の時から、母の代わりを血の繋がりのない赤の他人の女に索めたことで再び表面化した。ただし私も色好みの人間であったから、あまたの女との情事によって、その性癖は様々な意味をもつようになった。私は普通に、女の艶かしく柔らかい体をこよなくむさぼったが、しかしその薔薇を目の前しては興奮と同時に一種の安寧を感じるのだった。あるいは、興奮や快感だけを求めるためだけに女をむさぼる時もあったし、また安寧の為だけに、あたかも母への憧憬を堅持する為だけに薔薇を求める時もあった。よって私にとって異性との肉体的なまぐわいには、興奮や快感のほかに、一種の独特なノスタルジーがあった。とはいえやはり幼いころ嗅いでいた母の臭いに叶うものなど一つもなかった。

 母の薔薇と母でない女のそれには截然たる差違があること・・・・・・その差違がいつしか好色な私の心に澱となって深く沈んでいた。母の薔薇を失った私は、そういう訳で果たせぬ願望を抱いて暮らしてきたのである。しかしあれは丁度二年まえの雪の降る大寒の日だったろうか。私には思ってもいない好機が訪れたのである。


        *

 

その日私は、建設現場での仕事を終えて、職場の後輩である藤田と賑やかな渋谷の街をぶらぶらと歩いていた。私たちは現場作業着そのままに、上はドカジャンに下はニッカポッカという格好で、堂々と肩で風を切っていた。大粒の雪が重く降っていたが、それもお構いなしのように若者たちが街に溢れていた。藤田とこうして渋谷を歩くのはお決まりのことで、彼はいつもいやな顔一つせずに私についてきてくれる。とくに明確な目的があるという訳ではない。気が向いたら飯を食べたりスロットをしたり、景気のいい時にはナンパなどをするのである。

 私は肩にかかる大粒の雪を振り落とすために右手で軽く肩を払おうとした。すると丁度私の左肩の視線の先にいた藤田が、いつもと違う冴えない顔で俯いているのが見えたのである。心配になった私は、

「おい、藤田、どうしたんだ。そんなつまらないような顔して?さては今日の仕事きつかったか?あれだけの量の建築資材を手で運べっていうんだから。確かにあれは人間の仕事じゃないよな」

と言った。 藤田はそれでも何も答えないで下を向いていた。

「おい、飯でも食うか、今日は俺がおごってあげるぞ、特別だぞ」

その言葉に藤田はわずかに気を取り直したようで、

「マジですか、うれしいです」と言った。

しかし藤田はまだどこか冴えない。それを看取った私はさらにこう言った。

「おい、藤田、ナンパでもすっか?」

「マジですか、そっちのほうがいいっすね、やりましょうよ」

「でもゲテ物限定だぞ」

「いいですよ、それの方が楽しいじゃないですか」

 藤田の曇った表情はそれで一気に晴れた。藤田はなぜだか私がゲテ物を欲しようとすると感に堪えたような表情をするのだった。その傾きはいつものことで私は知悉していたのだが、しかしなぜそうなるのかは殆ど謎である。とはいえ推測できることがあるとすればこうだった。――藤田は私に尊敬の念を抱いている。それも一風変わった尊敬の仕方で、私がゲテ物でも何でも食べられる大喰らいであることに、ある種の全知全能を観ている。あるいは私がさながらすべての生きとし生けるものに対して繊細かつ大胆な愛を注げる神的な存在であるかのように。

 

こうして私たちは渋谷の街を徘徊し始めた。私は藤田の背後に隠れて、そこから覗きこむように獲物を探した。ナンパをする時の、私の定石である。私にとってこの姿勢は、さながら自分を狩人に見立てることによって獲物に対する執着心を植え付けるために必須だった。藤田の背後から覗きこんで見える渋谷の街は、この時もはや狩人になりきっていた私にしてみると、あたかも良質なゲテ物の、恰好な狩猟場のように思われた。しかし私は、はやる気持ちを抑えて、構えていた猟銃を静かに下ろした。取り留めのない狩猟はきまって徒爾に終わるからである。

 私がなかなか動かないでいると藤田が、

「あの女どうですか」

と遠い先を指差した。私は藤田が指し示す先を見てみたが、そこには煩わしいような群衆しかなかった。

「もしかしてあの集団か?あんな集団狙ってどうすんだよ」

と私が言うと藤田は鼻にかけたような口調で、

「違いますよ、あいつらのもっと先ですよ」

と言った。私には見えなかった。私の視線には蟠る群衆と、それすらも遮るしめやかな降雪しかないのだ。ひょっとすると藤田の目は千里眼かもしれなかった。私には見えない先まで、藤田は見えてしまうというのか?この時の私は、藤田の探索能力に少し妬いていたかもしれない。とは言え良質なゲテ物がいればそれにこしたことはないのだ。私は藤田とともにその先へと行ってみた。

 そこには確かに二人組の若い女がいたが、まったく私の好みに適わなかった。純粋にゲテ物ではなかったのだ。

「おい、藤田、あんな女だめだ。全然ゲテ物じゃないじゃないか」

「そうですかね、伊藤さん好きそうな女だと思ったんですけど」

 その後も藤田は私が好きそうな女を探しだした。しかし見てみるとすべてだめだった。私はしびれを切らして、藤田にある話を持ちかけた。彼を試してみようとしたのである。

「おい、藤田、ところでお前焼肉食うならどこで食べたい?」

「いきなりなんですか、それはもちろん叙々苑じゃないですか、ただお金があればの話ですけどね」

「だからお前はだめなんだ。焼肉屋なら安楽亭だろ」

「えっ、安楽亭ですか?あんな硬い肉ばっかり置いているところが?」

「当り前じゃないか、安楽亭のあのゴムみたいに硬い肉質がいいんじゃないか。じゃあ質問を変えるが、肉の種類ならどの肉がいい?」

「もちろんカルビじゃないですか」

「馬鹿野郎!肉と言ったらヒツジだ。それもラムよりはマトンだな」

「自分、あのヒツジ独特の癖のある臭いだめですね」

「あの臭いがいいっていうのに、それじゃあだめだな。だからお前は俺の女の好みもろくにわかんないんだよ」

 私はこれらの遣り取りを以って藤田を見限らねばならないと思った。これまでナンパをしてきた時も、藤田は私のゲテ物趣味を解していなかったので、彼は私のせめてもの役にも立たないのは重々承知だった。それでも藤田の私に対する情熱、とりわけ私がゲテ物を欲しようとする雄姿を見ていたいという彼なりの情熱が、私と藤田とのナンパにおける関係を辛うじて繋いできた。しかし、さすがに彼の焼肉の好みを聞いてしまった今となっては、もうどうすることもできない絶望に似た諦念が私の心に湧き出てくるのだった。

 大脳生理学の権威、ロバート・バートン教授の学説によると、大脳にある性欲を司る機関と味覚を司る機関が非常に密接に関わり合っていて、片方の好みが似ていると、もう片方の好みも似ていることが多いということである。味覚でもとりわけ焼肉の趣味が共通すると性生活の趣味はすべて共通すると言われており、もはや昨今では、焼肉の趣味が知られてしまうと、そのままベッドでのあり様も知られてしまうということで、知識人の間では焼肉はかなり敬遠されているくらいなのである。

 つまり、私と藤田との間には、焼肉の趣味が違うということだけで大きな壁が立ちはだかっているということになる。彼には私のゲテ物喰いなど分からないのだ。

 それに私のヒツジ好きには、より深遠で個人的な問題も絡んでいるのを忘れるわけにはいかない。私はヒツジ肉の、あの一癖も二癖もある臭いを嗅ぐと、必ずと言っていいほど母の薔薇を思い出すのである。あるいは、より湿りけのある言い方をすれば、ヒツジ肉の独特な臭いは、私に生きる意味を、蓋し人生の大義と言うべきものを、思い出させてくれるのである。




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