2.NAME
遠野にとって、その光景はとても信じられるようなものではなく、また、到底受け入れられるものではなかった。幾度となく目をまばたかせ、今のこの状況の把握に努めることで彼の頭は精一杯だった。
しかし、これは今現実として起こっている、事実である。
まだ、身動きひとつとれずに棒立ちになって、魂がなかば抜けかけているような遠野の様子を見て、高峰教授は、落ち着いた様子で声をかけた。
「おーい、遠野君。こっちへ来なさい。彼女を紹介しよう。」
教授に呼ばれ、ようやく彼の魂は呼び戻された。遠野の意識が回復した。
「はっ、はい!只今、そちらへ・・。」
そう言うと、遠野はあたふたとした様子で、ゴロゴロと転がる岩に足を取られながらよたよたと歩き出した。膝が完全に笑っている。それも爆笑状態である。
ようやく、教授たちのもとへたどり着いたその時、遠野の膝はとうとう限界に達し、彼は岩に足をひっかけて仰向けに転倒してしまった。それは、仰向けになった、ひしゃげた蛙のようでとても滑稽な姿であった。
「何をやっとるんじゃ、君は。しっかりせんか。」
遠野をのぞきこむように眺め下ろす二つの顔は、ニヤッと微笑んだ高峰教授と、恐らく最悪の出会いになってしっまったであろう、彼が生まれて初めて出会った『アルマスの彼女』であった。
少しウェーブのかかった黒髪にはきれいなブラウンがのって輝いている。年の頃は二十歳前後。爽やかな夏の日を連想させる褐色の肌の色は、どの民族にも属さない美しさを誇っていた。そして、何よりも印象的なのは、光の当たり具合によって変化する虹色の瞳だった。
無限の慈愛を含んだその瞳は、やさしい微笑とともに遠野を見つめていた。
遠野は仰向けにずっこけたまま、ただ、ぼーっと彼女を見上げていた。
「遠野君、魂が半分出ておるよ。」
教授にそう言われて、遠野はようやく我に返った。
「さあ、いつまでそんな所で寝っころがっとるんじゃ。さっさと起き上がらんか。このままじゃいつまでたってもこの娘を紹介できんわ。わははははっ!」
教授は豪快に笑い飛ばすと遠野の手をとって立たせてやった。
「あらためて紹介しよう。この娘はアルマスじゃ。古代よりの血統を受け継ぐ真希少種アルマスの娘じゃ。」
遠野はゴクリと息を呑み込んだ。
「名前は・・・・。」
そう言いかけて、教授は少し言葉を止め少し考えた後、遠野に言った。
「まあ、君に言っても本当の名前はどうせ発音できんから、日本人風に『楓』と呼んでやってくれ。」
ようやく普段の落ち着きを取り戻した遠野は、ちらりと彼女の方に目をやり、教授に向き直って言った。
そこには、すでに神童遠野のいつものクールな姿があった。
「教授。まずは、無学でふがいなかった自分を心よりお詫びいたします。」
遠野は教授に向き直ると深々と頭を下げた。
「君、意外と立ち直り早いのう。」やや、あきれた様子で教授がつぶやく。
「恐れ入ります。で、教授。このアルマスの彼女のお名前なんですが、是非とも私に彼女の本当の名前を教えて頂けないでしょうか。」
遠野は自信に満ち溢れた眼差しで教授に懇願した。
「いや、だから発音できんて。」手と首を横に振りながら、教授は止めた。
「何をおっしゃいますやら。この遠野、幼少の頃よりあまたの言語学に通じ、現在では自由に操れる言葉もゆうに30を超えております。どうぞ、本当のお名前をお教えください。」
知識に裏付けられた絶対の自信。これこそが遠野が神童と言われる所以である。
「そうかあ・・・。」
教授はにわかに信じがたいという表情をしながらも遠野の申し入れを受け入れ、
そして、言った。
「彼女の本当の名前はの、『#’$)’)&#&96%%(’!』じゃ。」
遠野の顔から表情が落っこちた。
「は?」
「いや、だから、『#’$)’)&#&96%%(’!』じゃ。」
「いま一度。」
「『#’$)’)&#&96%%(’!』じゃ。」
「さらに、いま一度。」
「『#’$)’)&#&96%%(’!』。」
遠野はゆったりと彼女の方に視線をやると、もう一度教授にもどし
そして、何事もなかったように言った。
「で、こちらの『楓』(かえで)さんの件ですが。」
「幼少の頃よりの言語学はどうした。」 教授が聞き返した。
「遠い昔の想い出です。」 遠野がクールにこたえる。
「30を超える言葉を操れるとか。」
「そんなこともありましたね。」 遠い目で遠くを見つめる遠野。
「まったく。変わり身の早いやつじゃ。」
教授はため息をつきながら楓の方を向き、互いに微笑みあった。
「『楓』という名前を彼女はとっても気に入っておる。アルマスの言語で唯一我々が正確に発音できる言葉、それが『カエデ』なんじゃ。これはアルマスの言葉で『大気』を表しておってな。われわれを優しく包み込むような大気は、まさしくこの娘にうってつけの名前じゃと我輩はおもっておる。」
教授はそう言ってだまって楓に意見を促した。
「『楓』大好きです。」
透き通るようなやわらかい声で楓が答えると、森の木々や花々がいっせいに歌いだしたような気がした。
「さあさあ、こんな所で立ち話もなんじゃ。温泉へ行こう!温泉へ!地上の極楽は温泉にあり、というのが我輩の持論じゃ。今回も遠野君の歓迎イベントにかこつけて信州の秘湯の宿を確保しておるからの。楓も来てくれて、極楽度200%アップじゃ!さあ、遠野君、楓、行くぞ!もたもたしてるとチェックイン時刻に間に合わんぞ~!」
そう言うと高峰教授はパワフルに山道を歩き出していった。
遠野の頭には、教授に聞きたいことが山のようにあったが、教授の背中を追いかけて一緒に歩いている
楓の姿は、無意識に彼を惹きつけていた。
「あ、あの、楓さん。先ほどは本当にありがとうございました。」
遠野は緊張しつつも、楓に心からの礼をのべた。頬がかすかに赤らんでいた。
「はい。」楓はにっこりとして短く答えた。
「申し遅れましたが私、遠野 澪と申します。高峰教授の研究室で師事させて頂く事となりました。なにぶん、まだまだ浅識な駆け出し者ではありますが、今後とも、どうぞ宜しくお願い致します。」
(な、なんて硬いガッチガチのあいさつをしてるんだ!もっと気の聞いた挨拶をせんか澪~!)
遠野の心の叫びとはうらはらに、遠野らしいといえばもっとも遠野らしい挨拶だった。
「はい。」楓はまたにっこりと短く答えると、今度はクスッと笑った。
「ミオ。ミオ。ミーオ!『(''&()』!」いきなり楓が連呼した。
最後はまったく聞き取れなかったが、突然自分の下の名前を連呼された遠野は、恥ずかしさのあまり思わず赤面してしまった。
「は、はい。ミオです。楓さん。」
「ミオ、私たちの言葉に似てるものあります。」楓は楽しそうに言った。
「ミオ、『黒い子猫ちゃん』!かわいい!」
そう言うと楓は天真爛漫に笑った。
どうやら、ミオという名前の響きは楓にとってのストライクだったようである。
「は、はあ・・・。」
遠野は気の抜けた返事しか返せなかったが、天真爛漫に笑っている楓の姿を見ていると、いつしか不思議と自分にも自然に笑みが溢れてくるのだった。
「十三、呼んでます。急ぎます。」楓が言った。
教授の声は遠野には聞こえていない。
しばらくすると、はるか先を歩いていた教授が大声で叫んだ。
「おーい!やっとこさ、駐車場に着いたぞ~!さあ、温泉じゃ~、二人ともハリアップじゃ~!」
(なんで、最後だけ英語なんだ!?)
遠野はつまらない疑問を頭の中でめぐらせながらも、教授のもとへと急いだ。
ようやく駐車場に着いた三人は、止めてあった教授の愛車に乗り込み、高峰教授が待望する「秘湯の宿」へと向かうのだった。




