第2話 始まりの朝
毎日20時投稿
目が覚めた瞬間、ロイは息を吸い込んだ。
肺が焼けるように痛む――はずだった。
だが、痛みはない。
胸に手を当てる。鼓動は早いが、正常だ。腹に触れる。傷も、血もない。服も破れていない。
それでも、体が震えていた。
あの感触が、消えていない。
牙が食い込んだ瞬間。肉を裂かれる音。息ができなくなり、視界が赤く染まっていったあの感覚。死ぬ直前の恐怖が、はっきりと残っている。
「……夢じゃ、ない」
自分でも驚くほど、かすれた声だった。
ゆっくりと体を起こす。見慣れた部屋。壁の傷も、棚の位置も、昨日と変わらない。窓から差し込む朝の光が、やけに眩しく感じた。
――戻っている。
理由は分からない。だが、それだけは直感で理解できた。
その時だった。
「起きた?」
すぐ近くから、声がした。
ロイは反射的に振り向く。
誰もいない。
いや――いた。
ベッドの横、空中に、小さな少女が浮かんでいた。
手のひらに収まるほどの大きさ。淡く光を帯びた髪がふわりと揺れ、こちらを覗き込んでいる。
目が合うと、にやりと笑った。
「おはよう。ずいぶん派手に死んだね」
ロイはしばらく言葉を失った。
「……誰だ」
「リア。ずっと前からいたよ」
当然のように言う。
「いや、いなかっただろ」
「見えてなかっただけ」
軽い調子だった。まるで大したことではないと言うように。
ロイは額を押さえる。
死んだ記憶がある。時間が戻っている。知らない小さな少女が浮かんでいる。
どれか一つでもおかしいのに、全部同時に起きている。
「……俺、頭おかしくなったのか?」
「それならもっと面白いこと言うと思うけど」
リアは肩をすくめた。
「じゃあ、これは何だ」
「戻っただけ」
「……何が」
「時間」
あまりにもあっさりした答えだった。
ロイは言葉を失う。
冗談のはずなのに、否定できない。あの死の感触が、夢だとどうしても思えなかった。
しばらく沈黙が続いた。
やがて、外から聞き慣れた声が響く。
「ロイ、寝坊だぞ!」
父の声だった。
その一言で、現実が戻ってくる。
ロイは思わず立ち上がった。窓を開ける。外には、いつも通りの朝があった。市場へ向かう人々の声。荷車の音。パンを焼く匂い。
何も起きていない。
あの地獄のような光景が、嘘だったかのように。
「……今日、何日だ」
「三か月前だね」
リアが答える。
振り向く。
「なんで分かる」
「見てたから」
それ以上は説明しない。
ロイは深く息を吐いた。
三か月前。
つまり――あの日より前。
東ダンジョンから魔物が溢れ、すべてが終わった日より前だ。
視線が机の上に落ちる。置かれている日付板が目に入った。
今日の日付。
そして、その下に書かれた文字。
――誕生日。
「……ああ」
思い出す。
今日は、自分の二十歳の誕生日だった。
成人の儀を終えてから五年。商会の仕事を手伝いながら、何も変えられなかった時間の区切りの日。
「ロイ!聞いてるのか!」
「今行く!」
返事をしてから、ロイはもう一度部屋を見回した。
本当に、戻っている。
全員が、生きている。
胸の奥が、妙に重くなった。
朝食の席は、いつも通りだった。
父が新聞を広げ、母が料理を並べ、兄がすでに食べ始めている。何も変わらない日常の光景。
だがロイだけが落ち着かなかった。
全員がここにいる。
あの日、街が崩れた時も、この光景を思い出した。もう二度と見られないと思った光景だ。
「どうした。ぼーっとして」
父が言う。
「……いや」
「誕生日だからって浮かれる歳でもないだろ」
兄が笑う。
母が小さく微笑んだ。
「二十歳だものね。早いわ」
何気ない会話だった。
だがロイの中では、何かが決定的に変わっていた。
このままでは、また同じ未来になる。
東ダンジョンから魔物が溢れ、誰も止められず、すべてが終わる。
口が勝手に動いた。
「俺、冒険者になる」
食卓の音が止まった。
父がゆっくりと顔を上げる。
「……急だな」
「前から考えてた」
嘘ではない。ずっと考えていた。ただ、言えなかっただけだ。
父はしばらくロイを見つめた。
「お前のスキルは《撤退》だ」
「分かってる」
「帰ることしかできないスキルだ。戦えない」
ロイは黙った。
死んだ、とは言えない。
「死ぬぞ」
父は静かに言った。
怒ってはいない。ただ、事実を告げているだけだった。
母が不安そうにロイを見る。
「……本気なの?」
「ああ」
短く答える。
しばらく沈黙が続いた。
やがて父は、ため息をついた。
「止めはしない」
ロイは顔を上げた。
「だがな」
父は続ける。
「逃げて帰ってくるならいい。帰ってこないのは許さん」
その言葉は、妙に重かった。
ロイは小さく頷いた。
「……分かってる」
本当は分かっている。
自分は逃げる側の人間だ。
だからこそ、生き残る。
部屋に戻ると、リアが宙で寝転がっていた。
「やっと言ったね」
「……何が」
「冒険者になるって」
ロイは椅子に座り、顔を覆った。
頭の中がまだ整理できていない。
だが一つだけ、はっきりしていることがあった。
東ダンジョン。
あそこからすべてが始まった。
なら、止めればいい。
「また同じことが起きると思う?」
リアが言う。
ロイは少し考えてから答えた。
「起きる」
あれは偶然じゃない。
あの数は、準備されていたものだ。
「じゃあ、どうする?」
ロイは立ち上がる。
「先に行く」
勇ましい言葉ではなかった。
「死にたくないからな」
リアがくすりと笑う。
「うん。それでいいと思う」
家の扉を開ける。
いつもと同じ街の風景が広がっていた。
だがロイにとっては違う。
三か月後に失われる光景だ。
「今度はどうするの?」
肩の横を飛びながら、リアが聞く。
ロイは歩き出した。
「逃げるよ」
少し間を置いて、続ける。
「……でも、逃げる先は自分で決める」
扉が閉まる音が、背後で小さく響いた。
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