第18話 準備してから
毎日20時投稿
狼に追われて逃げた日のことは、何度か思い返していた。
単体なら問題ない。
だが二体になると、間合いが崩れる。槍を構えても、どちらかに意識を向けた瞬間にもう一体が入り込んでくる。
速さの問題だった。
ロイは朝の市場を歩きながら、小さく息を吐いた。
「考え事?」
肩のあたりを飛びながら、リアが聞く。
「ああ。狼のことだ」
店先に並ぶ品を見ながら答える。
速い相手に対して、速さで対抗する必要はない。
そういう戦い方は、自分には向いていない。
なら――。
「動きにくくすればいい」
「え?」
ロイは足を止めた。
雑貨屋の棚に並ぶ瓶を手に取る。中には透明な油が入っている。
荷車の軋みを減らすためのもの。道具の手入れにも使われる、ごく普通の油だ。
「それ、戦闘用じゃないよ?」
「知ってる」
ロイは瓶を軽く振った。
「安いし、失敗しても困らない」
使えるかどうかは、試してみればいい。
数日後。
ロイは中層へ続く通路を歩いていた。
浅層はすでに通過地点だ。戦闘もほとんど発生しない。足取りは軽いが、今日は目的が違う。
前に引き返した場所へ向かう。
「今日は逃げないの?」
「状況次第だな」
逃げないのではない。
逃げなくて済むようにするだけだ。
気配察知に反応があった。
二つ。
前方の通路。
「来たな」
ロイは立ち止まる。
すぐには近づかない。周囲を確認する。通路は広めで、見通しも悪くない。退路も確保できる。
問題ない。
狼が姿を現した。
一体、そして少し遅れてもう一体。
前と同じだ。
低く唸りながら、距離を測っている。
ロイは槍を構えながら、ゆっくりと後退した。
その手には、小さな瓶。
蓋を緩める。
「……それ使うの?」
「試す」
短く答え、地面へ油を撒いた。
透明な液体が石床に広がる。
狼は気にしない。
距離を詰める。
一体目が突進してきた。
踏み込んだ瞬間、足が滑る。
完全に転ぶほどではない。だが、踏み込みが乱れる。
速度が落ちた。
(いける)
ロイは間合いを維持したまま槍を突き出す。
浅く当たる。
狼はすぐに体勢を立て直すが、以前ほど鋭くない。
二体目が横から回り込もうとする。
ロイはさらに後退しながら油を撒く。
床が光る。
狼の足取りがわずかに乱れる。
突進の直線が崩れる。
その一瞬で十分だった。
投擲ダガーを放つ。
肩口に刺さり、動きが止まる。
槍を突き出す。
深く入った。
一体目が崩れ落ちる。
だが、終わりではない。
二体目がすぐに飛び込んでくる。
だが先ほどの勢いはない。
踏み込みが浅い。
方向転換が遅い。
槍の間合いが保てる。
(速さが消えれば、同じだ)
焦らず、距離を維持する。
狼が再び飛び込む。
槍を合わせる。
喉元に手応え。
数歩もがいたあと、狼は動かなくなった。
しばらくその場で様子を見る。
気配はない。
ロイはようやく息を吐いた。
「……うまくいったな」
「滑ってたね」
「ああ」
完全に止めたわけではない。
だが、それで十分だった。
速さが少し鈍るだけで、戦いは別物になる。
魔石と牙を回収する。
傷の入り方を確認し、素材として問題ないことを確かめる。
袋にしまいながら、ロイは考える。
強くなったわけではない。
ただ、戦いやすくしただけだ。
「最初からこうすればよかったのに」
リアが言う。
「準備してない戦いはしない」
ロイは肩をすくめた。
逃げたから、足りないものが分かった。
それだけの話だ。
帰り道。
油の残りを軽く揺らしながら歩く。
使い道は、狼だけではないかもしれない。
速い相手。
足場を使う相手。
動きを制限できれば、危険は減る。
戦い方は一つではない。
ロイは特に深く考えることなく、そう結論づけた。
ダンジョンの出口が見える。
怪我はない。
装備も無事だ。
袋の重さも十分。
「どうだった?」
「問題ない」
ロイは短く答えた。
「準備してからなら、勝てる」
それだけ言って、いつも通りの足取りで街へ向かった。
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