第1話 フラッド
毎日20時投稿
最初に異変に気づいたのは、音だった。
乾いた木箱を荷台に積み上げながら、ロイ・マルクスは何度か耳を澄ました。東ダンジョンへ向かう街道は、朝の時間帯ならいつも騒がしい。これから潜る冒険者の怒鳴り声、帰還したばかりの連中の笑い声、商人の呼び込み、馬の蹄の音。雑多な音が重なり合い、考え事をするには少しうるさいくらいが普通だった。
だが今日は違う。
騒がしいはずなのに、落ち着かない。
音が多いのに、どこか静かだった。
「……なんだ?」
ロイは木箱を置き、顔を上げる。
東ダンジョンの入口付近に、人だかりができていた。普段なら珍しくない光景だ。だが様子がおかしい。入口へ向かう者より、離れていく者の方が多い。
冒険者たちが、ダンジョンを背にして外を見ている。
誰も中へ入ろうとしていない。
嫌な予感が、胸の奥をかすめた。
その時、地面が小さく揺れた。
荷台の木箱が、かた、と鳴る。
「地震……?」
違う。揺れは一度では終わらない。間を置いて、また揺れる。遠くから、何か重いものが連続して地面を叩いているような振動だった。
周囲のざわめきが一段大きくなる。
馬が落ち着かずに嘶き、手綱を引いていた商人が怒鳴る。
「おい、何があった!?」
「知らねえ!中から――」
言葉は最後まで続かなかった。
ダンジョンの入口から、冒険者が飛び出してきた。
血まみれだった。
「閉めろ!入口を閉めろ!」
叫び声が響く。
次の瞬間、入口の奥から黒い影が溢れ出した。
魔物だ。
一体や二体ではない。何かに押し出されるように、次々と外へ飛び出してくる。後ろから後ろから、押し寄せるように。
まるで、ダンジョンそのものが吐き出しているようだった。
「フラッドだ!」
誰かが叫んだ。
その言葉が、周囲に一気に広がる。
ダンジョンフラッド。
ダンジョンから魔物が溢れ出す災害。小規模なものなら、ロイも話には聞いたことがある。だが目の前の光景は、そんな生易しいものではなかった。
魔物が止まらない。
入口から流れ出し、地面を埋め尽くし、街道へ広がっていく。
前衛の冒険者たちが武器を構え、魔法が放たれる。炎が上がり、何体かが焼かれる。だが、倒れた分以上の魔物が、すぐに後ろから現れる。
止まらない。
止められない。
あれは戦いではなかった。ただの災害だった。
「逃げろ!街へ戻れ!」
怒号が飛ぶ。人々が一斉に走り出す。荷車が倒れ、積み荷が散乱し、悲鳴が重なる。
ロイも走り出していた。
何が起きているのか分からない。ただ、本能がここにいてはいけないと叫んでいた。
背後で爆発音が響く。振り返ると、冒険者が必死に魔物の流れを食い止めようとしている。だが、押し寄せる数が違う。
魔物は止まらない。
東ダンジョンの入口から、際限なく溢れ続けている。
(……なんでだよ)
ロイは歯を食いしばる。
ここは初心者向けのダンジョンだ。危険はあるが、こんなことが起きる場所じゃない。少なくとも、そう聞いていた。
だが現実は違った。
魔物が街道を埋め、人を追い、逃げ場を奪っていく。
(何も、できない)
武器もない。戦ったこともない。商家の三男として荷運びをしていただけの自分に、できることなど何もない。
冒険者たちが前に出る。
商人や住民は後ろへ押しやられる。
守られる側。
その現実が、胸の奥に重く沈んだ。
東ダンジョンの入口が視界の端に入る。
いつもなら、あそこを通る冒険者を羨ましく眺めていた。いつか、自分も――そう思っていた場所。
だが今は、ただの地獄だった。
背後で悲鳴が上がる。
振り向いた瞬間、黒い影が視界に飛び込んできた。
四足の魔物。牙の長い獣が、逃げ遅れた人間を狙って一直線に走ってくる。
「っ……!」
ロイは走った。必死に走った。だが人が多すぎる。ぶつかり、押され、足場が乱れる。倒れた荷車を飛び越えようとして、足が引っかかった。
体が宙に浮く。
次の瞬間、地面に叩きつけられた。
肺から空気が抜ける。息ができない。立ち上がろうとしても、体が動かない。
影が覆いかぶさった。
牙が見えた。
避けられない、と理解するまでに時間はかからなかった。
衝撃。
焼けるような痛みが腹を貫いた。
何かが裂ける感覚。熱いものが溢れ出し、視界が赤く染まる。声を出そうとしても、喉から漏れるのは掠れた息だけだった。
痛い。
ただ、それだけがはっきりしていた。
(……こんな、終わりか)
情けない、と思った。
冒険者になりたいなんて、結局口に出すこともできなかった。家族に止められて、それで納得したふりをしていた。
もし、あの時――。
思考が途切れる。
音が遠ざかっていく。悲鳴も、戦う音も、すべてが水の中に沈むように消えていく。
暗闇が落ちてきた。
体の感覚がなくなる。
どこまでも、深く沈んでいく。
――そして。
目を開けた。
見慣れた天井があった。
窓から差し込む朝の光。遠くで聞こえる市場の声。いつもと変わらない、平穏な朝の音。
ロイはしばらく動けなかった。
呼吸をする。胸が上下する。痛みはない。服も破れていない。血の匂いもしない。
だが、さっきまでの感触だけが、はっきりと残っていた。
牙の冷たさ。
肉を裂かれる感覚。
消えていく意識。
「……なんで」
呟いた声は、震えていた。
夢ではない。あれは確かに、自分が死んだ感覚だった。
混乱したまま周囲を見回す。
見慣れた自室。昨日と同じ配置。昨日と同じ朝。
ありえない。
ありえないはずなのに、体は理解していた。
――戻っている。
その時だった。
すぐ近くで、声がした。
「起きた?」
少女のような、軽い声だった。
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