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余命距離

作者: Tencho
掲載日:2026/01/13

余命距離。

それは、終わりまでに残された時間のことではない。

生きている時間は、均等には流れない。

前に進んでいると思っていたのに、いつの間にか同じ場所に戻っていたり、何も変わっていないつもりでいたのに、気づけば遠くまで来ていたりする。振り返ってみても、どこで越えたのかは分からない。ただ、越えてしまったという感触だけが残っている。

終わりは、突然やってくるものではない。

多くの場合、それは出来事として現れない。選ばなかった言葉や、引き返した道や、理由もなく立ち止まった夜として、生活の中にゆっくりと混ざっていく。特別な意味を持たせられることもなく、ただ日常の一部として置かれる。

それは恐怖でも救いでもない。

近づいたからといって、何かが変わるわけでもない。意味を与えようとすると形を変え、見ないふりをすると、別の場所から現れる。触れようとすれば掴めず、距離を取ろうとすれば、いつの間にか隣にある。

生きているということは、進み続けることではない。

止まったまま過ぎていく時間もあれば、戻らなかったことでしか残らないものもある。選ばなかったことは消えるわけではなく、選ばなかったまま、別の形で積み重なっていく。

近づいたことを認めることと、立ち止まることは同じではない。

立ち止まらなかった夜も、進まなかった時間も、どちらもすでに通過している。その事実だけが、あとから静かに漂う。

誰かの終わりに立ち会ったとき、あるいは、終わりが過ぎ去ったあとで、理由もなく胸の奥が重くなる瞬間がある。

それは悲しみでも後悔でもなく、名前を持たない感触として残る。

距離は、測れない。

縮んだと感じたときには、もう戻れない。

けれど、その距離を意識したからといって、立ち止まらなければならないわけでもない。

生きている側に残るのは、説明できない手応えだけだ。

それは生活に溶け込み、いつの間にか判断や動作の一部になる。気づかないふりをしても消えず、向き合おうとしても、正面からは現れない。

それでも、確かに、そこにある。


 



 1.「煙に巻く」


 淀めぐ空気の中で、タバコに火をつけた。

 火葬場の喫煙所にいる理由を、うまく説明できる気がしなかった。

 あの人に呼ばれていた言葉が、自分の名前だったのだと、つい最近になってから気づいた。おかしなことを言っている自覚はあるが、事実なのだ。

 説明しようと思えば、言葉はいくつか思いつく。ただ、そのどれもが少しずつ嘘を含んでいるようで、口に出す前から信用できなくなる。床は冷たく、建物の中の温度から、わずかに切り離されている。

 タバコをもう一本取り出して火をつけた。吸い始めてから、これが何本目なのかを数えるのをやめる。数えたところで、何かが整うわけでもない。

 中では、もう始まっているはずだった。時間は確認している。間違いようがない。

 焼かれている。今この瞬間も、おそらく。それが誰なのかを、説明できないわけではない。ただ、名前を出した途端に、関係が確定してしまう気がした。確定してしまえば、自分がここに立っている理由も、同時に決めなければならなくなる。

 長いあいだ、同じ場所にいた人だった。毎日ではないし、約束もしていない。ただ、同じ時間帯に、同じ場所で、同じように立っていた。会話らしい会話はなかった。それでも、いない日が続くと、先にそれに気づく程度には、生活の一部だった。

 あの人は、こちらが名乗ったこともないのに、いつも同じ呼び方をした。それが自分の名前だと、当時は深く考えていなかった。

 曜日がずれ、時間がずれ、やがて、いなくなった。

 連絡先を知らないから、確かめようもなかった。そういう関係だった。

「寒いですね」

 背後から声がして、振り向くと、知らない男が立っていた。年齢は分からない。自分より少し上か、同じくらいか。黒いコートに身を包み、火のついていないタバコを持っている。

「この時間帯、いつもこんな感じなんですか」

 聞かれて、少し考える。この時間帯に、ここへ来た記憶はない。あるのは、今ここに立っているという事実だけだ。

「たぶん」

 そう答えると、男は小さくうなずき、「ですよね」と言って火をつけた。ライターの火が一瞬だけ揺れ、すぐに消える。

 二人で並んで煙を吐く。距離は、喫煙所としてちょうどいい。顔を見るほど近くもなく、他人として遠すぎることもない。

「待ち時間、長いですね」

 独り言みたいな言い方だった。何を待っているのかは言わない。

「そうですね」

 長いかどうかは分からない。ただ、時間が進んでいるのは確かで、それだけは否定できなかった。

「来たくて来てる人、ほとんどいないですよね」

 男は笑いもせず、真顔でもなく、事実を確認するように言った。

「たぶん」

 また同じ答えを返す。自分が来たくて来たのかどうか、その判断材料が見つからない。

 少し間があってから、こちらも口を開いた。

「関係者ですか」

 男は一瞬だけ考えるような顔をして、それから肩をすくめた。

「どうでしょう」

 そう言って、灰を落とす。

「自分でも、よく分からないんですよね」

 奥で、何かが動く気配がする。扉が閉まる音と足音が重なる、その中間みたいなやつだ。会話が自然に途切れ、二人とも建物の方を見る。

 職員が一人、廊下を横切る。こちらは見ない。見なくていい、という態度だった。

「来ましたね」

 確認でも報告でもない声。

「……そうですね」

 男はコートの前を直し、「じゃあ」と言って喫煙所を出ていった。

 振り返らない。別れの挨拶もない。

 喫煙所に一人残り、灰皿から上がる煙を見ていた。

 ドアを開けると、空気が変わる。

 均されていた時間が、ここで一度ほどける。

 廊下は静かで、音が整理されている。足音は吸い込まれ、咳は遠くに押しやられる。案内の矢印に従って歩く。親切だが、目的地までは連れていかない。間違えない程度の方向だけが示される。途中、白い台車が置かれていた。

 中身は見えない。見えないように作られている。扉の前で立ち止まる。中からは、かすかな音。機械なのか、人の動きなのかは分からない。

 ノブに手をかける。

 冷たい。

 さっきまでのタバコの熱が、まだ指先に残っている。

 扉を開ける。

 中は、思っていたより普通だった。清潔で、整えられていて、生活から切り離された空間特有の、少しだけ非現実的な明るさがある。

 人が数人、立ち、座り、誰も泣いていない。

 誰もこちらを見ない。

 その中央にあるものを、視界の端で確認する。

 白い。形は知っている。

 ここにいる人との関係を、一言で言える言葉はなかった。それでも、ここに来る前の生活と、これからの生活の間に、線が引かれてしまったことだけは分かる。

 しばらくして、声がした。

「さっきの人ですよね」

 喫煙所の男だった。

 さっきより姿勢がまっすぐで、タバコの匂いはほとんど残っていない。

「関係者かどうか、って話、ありましたよね」

 うなずく。

「僕も、分からない側なんです」

 その言葉は軽かったが、冗談ではなかった。

「関係があったかどうかじゃなくて」

 男は少し間を置き、続けた。

「今、ここにいるかどうかなんだと思います」

 胸の奥で、何かが静かに沈む。納得でも理解でもない。ただ、来てしまったことを、否定しなくていい。その感覚だけが、わずかに残った。合図が、はっきり聞こえる。人が動き、自分は半歩だけ遅れる。それでいいと思えた。見送れなかったという事実は変わらない。ただ、来てしまったことを、間違いだと決めつけなくていい。そう考え直しただけだ。

 いつの間にか、男はいなくなっていた。

 外に出て、もう一度喫煙所に戻ると、空は思っていたより高く、風は細かった。タバコに火をつけて煙を吐くと、白い線は空気の中でほどけ、形を失ったまま、いつの間にか見えなくなる。灰皿の縁には、わずかな熱が残っている。それに触れないように手を下ろし、しばらくその場に立っていた。ここに立っているという事実だけが、今は確かなものとして残る。

 煙は消え切らないまま、空との距離を曖昧にしていた。



 2.「残火」


 彼女と初めて会った日のことを正確には覚えていない。ただ、そのあと何十年も彼女が同じ考え方のまま生きてきたことだけははっきりしている。

 今振り返ってみると、それは思想や信念と呼ぶほどのものではなかった。彼女自身も自分がそういう考えを持っているとは意識していなかったと思う。ただ、物事がうまくいかなくなったとき、彼女はいつも同じ方向を向いた。それは選択というより体の使い方に近かった。

 出会ったのは二十代の頃だ。きっかけは曖昧で特別な印象も残っていない。覚えているのは彼女がよく黙る人だったということと、黙ったあとに少しだけ的外れなことを言う癖があったことだ。

 一緒に歩いていたある日、川沿いの道で小さな鳥を見つけた。巣から落ちたのだろう。羽はまだ整いきっておらず地面の上で動かずにいた。胸だけがごく小さく上下している。

 立ち止まったのは僕だけだった。彼女は少し先まで歩いてから振り返り、僕の視線の先を追った。鳥を見つけると驚いた様子もなく、ゆっくりしゃがんだ。

「まだ息してるね」

 事実を確かめるだけの声だった。

 僕は手を伸ばしかけてやめた。触れた瞬間に何かが始まってしまう気がした。始まってしまったら終わらせ方も決めなければいけない。

「どうする?」

 そう聞くと彼女は鳥を見たまま少し考えた。

「拾ったら家に連れて帰るでしょ」

 淡々とした口調だった。

「箱を探してティッシュを敷いて水をあげて、餌をどうするかってなる」

 言葉が妙に具体的で、僕はその場面を頭の中で勝手に再生してしまった。自分の部屋の匂いまでうっすらと立ち上がる。

「じゃあ拾わないほうがいいってこと?」

 彼女は鳥を見たまま首を振った。

「そういう話じゃないよ」

「でもこのままにしてたら」

 言いかけて言葉が止まった。このままにした先のことを具体的に思い浮かべてしまったからだ。

「何もしないのも選び方の一つってこと?」

 彼女は少しだけ間を置いた。

「うん。たぶん」

 それでも腑に落ちなくて僕は言った。

「じゃあ助けるのが正しいのかな」

 自分でも探るような言い方になっているのが分かった。

 彼女は息を吐いて鳥から目を離さずに言った。

「この子にこの先を続けさせる意味はあるのかな」

 言い切りではなかった。問いかけに近い声だった。

「続けさせたいならその先まで引き受けることになる」

 言い切るでもなく押しつけるでもなく、ただ置いた。

 返事ができなかった。できないことを僕はその瞬間に知ってしまった。

 彼女は鳥の横に手を伸ばし、触れずに草を軽く押さえて影を作った。直射日光が薄まり鳥の体の上に細い陰が落ちる。

「せめてこれくらい」

 僕は結局拾わなかった。拾えなかったと言ったほうが正しい。

 その場を離れるとき振り返らなかったのは彼女のほうだった。僕も振り返れなかった。

 結婚してからの生活は穏やかだった。特別に仲が良いという言い方もできるし、特別に問題がないという言い方もできた。朝起きてそれぞれ仕事に行き夜に戻ってくる。食事をしてテレビを見て眠る。どちらかが先に寝てどちらかが電気を消す。そういうことの繰り返しだった。

 彼女は相変わらず何かがうまくいかなくなると終わらせる話をした。仕事が立て込んだとき、人間関係で疲れたとき、理由がはっきりしない不調が続いたとき。「もう全部やめたい」「いっそ終わったら楽なのに」言葉は軽かったし深刻さを装ってはいなかった。

 僕はそのたびに止めた。理由を説明することはほとんどなかった。ただ彼女がここにいる時間を少しでも長く保ちたかった。

 彼女の家族の話は生活の中に断片的に混じっていた。父親は彼女がまだ幼い頃に家を出た。途中で別の女を作り、そのまま戻らなかった。怒鳴り声や手が出ることもあったらしいが彼女はそれを感情抜きで語った。父親は彼女の中で参照されない存在だった。

 母親だけが現在形だった。

 母親が亡くなったのは彼女が四十代に入ってからだった。体調を崩して入院し、しばらくは持ち直すかもしれないと言われていたが、ある日を境に急に悪くなった。

 病室に通う日々は静かだった。彼女は決まった時間に行き決まった椅子に座った。話すことは多くなかった。水を替えカーテンを少しだけ開け、母親の手が冷えていれば上から自分の手を重ねた。

 調子のいい日は母親のほうから「疲れてない?」と聞いた。彼女は「大丈夫」と答えそれ以上は続かなかった。

 帰り際、彼女はいつも同じことをした。ベッドの位置を少し直しテーブルの上を整え、ナースコールが手の届く場所にあるかだけを確かめた。

 別れの言葉は言わなかった。「また来るね」も「おやすみ」も使わなかった。ただドアを静かに閉めた。

 ある静かな朝、母親は亡くなった。医師は「穏やかでした」と言い、彼女はその言葉をそのまま受け取った。

 葬儀の帰り道、彼女は言った。「お母さん、頑張らなかったね」

 責める調子ではなかった。

「無理しなかったってこと?」と僕が聞くと「うん」と答えた。それは彼女にとって肯定だった。

 母親の家の遺品整理を二人でやった。大きな家ではなかった。父親がいなくなって、彼女が出ていってからは、ほとんど一人分の生活だった。衣類を畳み書類を分け写真を箱に入れる。必要だったものともう使われなくなったものが同じ棚に並んでいる。

「これ捨てていいかな」

 古い手帳、欠けたマグカップ、誰宛か分からない手紙。判断に困るものばかりだった。

「いいと思う」

 そう答えながら何を許可しているのか、分からなくなることがあった。

 遺品整理は思っていたよりも早く終わった。母親の人生は段ボール数箱分に収まった。

「人の人生ってこんなもんなんだね」

 感想ではなく確認だった。

 それからしばらく彼女は落ち着いていた。泣き崩れることもなく、母親の話を繰り返すこともなかった。終わったものを終わったまま棚に置いているように見えた。

 外から見て大きな変化はなかった。ただ夜だけが少し違っていた。

 眠りが浅くなったと彼女は言った。途中で目が覚め夢を見る前に起きてしまう。歳のせいかもしれないしそうじゃないかもしれないと。

 病院に行ったのもその延長だった。簡単な問診を受け「無理しないでくださいね」と言われ、眠りを助けるための薬を処方された。

 彼女はそれを特別なものとして扱わなかった。瓶を受け取り鞄に入れ、そのまま生活に戻った。

 その頃、彼女は人間関係のことをあまり話さなくなっていた。仕事の話はするが感情が乗らない。

 ある夜、食事のあとに彼女は仕事の人の名前を出した。「今日」「やりにくいって言われた」

 誰にかと聞くと「同じチームの人。悪い人じゃないんだけど」と言った。

「やりにくいって何が?」

「分からない。たぶん話しかけづらいとか反応が遅いとか空気が読めないとか」

 どれもありふれた言葉だったが彼女はその一言一言をポケットに入れた。だから僕はその度に正しいことを言った。気にしなくていい、向こうの問題だ、君は君のままでいい。

 そう言っているうちに彼女の輪郭は少しずつ遠のいていった。

 ある夜、洗い物をしながら彼女が言った。「私、やっぱりやりにくいのかも」

「そんなことない」

「そう言ってくれるのは分かる。でもそう言われると余計に分からなくなる」

 意味が分からなかった。

「じゃあもうその職場辞めてもいいんじゃない?」

「辞めたら次は何をするの」

 答えられなかった。

「なんでもいいさ、そのとき決めればいいんじゃないかな」

 言い終えてから無責任さに気づいた。

「私、何でもいいって言われるの苦手」

 僕は何も言えなかった。

 帰りが少し遅くなった。理由は特にない。ただ仕事が思うように片付かなかっただけだ。

 鍵を取り出すまでに何度か足が止まった。急ぐ必要はないはずなのに指先だけが先に動こうとしていた。

 玄関の灯りがついている。見慣れたはずの光がその夜は妙に白かった。

 靴を脱ぐ音が家の中に落ちる。返事はない。

 廊下を進むにつれて空気の密度が変わっていく。静かというより何かが潜んでいるような静けさだった。

 寝室のドアはわずかに開いている。

 ノブに手をかける前、呼吸を一度だけ整えた。整えたつもりで結局浅いままだった。

 ドアを押すと抑えきれなかった音が小さく鳴った。

 彼女はベッドの端に腰掛けていた。外出前のような格好のまま、小さな瓶を握っている。

「何してるの」

「早かったね」

 声は落ち着いていた。口元にはかすかな笑みがあり目だけがこちらを見ていなかった。

 瓶の中身を彼女は見なかった。

「ちょっと待って」

「大丈夫」

 洗い物の水の音が頭の中で鳴った。「そのとき決めればいい」

 手を伸ばすと彼女は避けなかった。身を預けることもなかった。

「君のせいじゃない」

 僕は強い言葉を選ばなかった。ただ手を離さなかった。

「待って」

 それだけを繰り返した。

 しばらくして彼女は瓶を床に置いた。

 その夜彼女は眠った。夜は長く朝はすぐには来なかった。暗い部屋の中で何度も目を覚まし彼女の呼吸を確かめた。

 そうして夜を越え何も起きなかった朝が静かにやってきた。

 しばらくの時間が過ぎたあと、今こうして書いているのは何かを残したいからでも忘れるのが怖いからでもない。ただ起きたことを起きた順に並べ直しておきたいと思っただけだ。思い出が増えすぎてどこに何があったのか分からなくなる前に一度机の上に全部出しておく。それくらいのつもりでペンを取った。

 彼女は死んだ。彼女は自分で死を選ばなかった。寿命だった。医師はそう言い書類もそうなっている。

 彼女が先にいなくなったあと自分の体にも少しずつ変化が増えてきた。朝は以前より時間が必要になり言葉は、頭の奥で立ち止まることがある。先の話をすると現実なのか想像なのか曖昧になる。

 だからこうして書いている。

 彼女は終わること――死のようなものを特別に忌むべきものとして扱わなかった。続かなかったことや途中で手を離したことと同じように、それもまた起きうる一つの出来事として置いていた。続いたものと終わったもののあいだに、彼女の中では、決定的な差はなかったのだと思う。

 その考え方に触れて何かが変わったという感覚はあまりない。ただ気がつくと急がなくなっていた。

 若い頃の僕は、続けること自体に意味があると思っていた。理由が足りなければ足せばいいし、説明できなければ考え直せばいい。そうやって前に進む形を整えていた。

 彼女はそういう整え方をしなかった。立ち止まることも戻ることも、同じ重さで扱っていた。

 あとから振り返って、あのとき彼女が見ていたものがようやく、一つの線につながった気がしている。

 川沿いで影を作っていた手も、病室で何も言わずに座っていた背中も、夜の寝室で瓶を握っていた沈黙も、どれも同じ場所から動いていなかった。

 暮らしの中から彼女の姿は消えた。けれど消えたのは姿だけだった。何気ない手順や、選ばなかった言葉が理由もなく、身体を動かす瞬間がある。今の自分がここに立っている、その内側に彼女は混ざったままでいる。

 名前を与えないまま、確かめもせず、それは生活の底に沈んでいた。形を失ったあとでの実感は、後付けと言われるのかもしれない。それでも今、あれは愛だったとはっきり言える。

 彼女がいた。その事実に今も、静かに支えられている。



 3.「友はまだ」


 夜はすでに深かった。

 風が通るたび、どこかで葉の擦れる音がしている。街灯の明かりは一定で、影は地面にきれいに落ちていた。

「この時間、静かだな」

 ミツは少し遅れてうなずいた。

 歩幅を合わせるでもなく、離れるでもなく、並んで進んでいる。

 川沿いの道に出る。

 水面は暗く、流れの速さはよく分からない。夜になると人が減る場所だということだけは、はっきりしていた。

「前も、こんな感じだったよな」

 独り言みたいに言うと、ミツは一拍置いてから答えた。

「……そうだったと思う」

 間があったことに、特別な意味は感じなかった。

 思い出なんて、確かなものじゃない。

 フェンスにもたれ、川の方を見る。

 風は冷たいはずなのに、寒さはあまり気にならない。

 昔は、この時間になると決まってポケットに手を入れていた気がするが、今はそうでもなかった。

「最近、どう?」

 ミツが聞いてきた。

 広すぎる問いだった。

「どう、って言われると、難しいな」

「まあ、そうだよな」

 深掘りする様子はない。

 そういう距離感は、前から変わっていなかった。

 しばらく無言で立っていると、遠くで車の音がした。

 ここまでは届かない。

 届かない音を、わざわざ気にする理由もなかった。

 呼びかけようとして、やめた。

 理由は分からない。

 ミツは、少しだけ間を置いてから言った。

「そういえば」

「覚えてる? あのとき」

「どの?」

「駅の前で、待ち合わせしてたやつ」

 少し考えてみる。

 似たような場面はいくつもあった。

「……遅れたやつ?」

「遅れた、じゃないな」

 ミツは、少し口元を緩めた。

「完全に忘れてた」

「ああ」

 思い出したような、思い出していないような声が出た。

「結局さ、一時間くらい立ってたんだよ」

「寒かった?」

「寒かったし、暇だった」

 ミツは肩をすくめた。

「途中から、来ない前提で時間つぶしてた」

「それ、言ってよ」

「言ったよ」

「聞いてない」

「聞いてなかった、だろ?」

 どちらともなく、息を吐く。

「でもまあ」

 ミツは川のほうを見た。

「なんか、そういう日だなって思ってた」

「どういう?」

「来ないけど、まあいいか、ってやつ」

 ミツはまた少し笑った。

「ごめん」

 反射みたいに言うと、ミツはすぐ首を振った。

「いいって」

 否定は早かった。

 それ以上、話は続かなかった。

 歩き出すと、さっきよりも距離が近くなっていた。

 肩が触れそうで、触れない。

 ミツが、何か言おうとして、やめた。

「……」

 呼吸だけが、わずかに乱れている。

「どうした?」

 聞くと、ミツは一瞬だけ、言葉を探す顔をした。

「いや」

 そう言って、首を振った。

「ちょっと、疲れただけ」

 その言い方は、どこか不自然だった。

 いつもなら、そんなことは言わない。

「休む?」

「うん、じゃあ少しだけ」

 また二人でフェンスにもたれる。

 川の音が、間を埋める。

 しばらく、何も話さなかった。

 それでも、気まずさはなかった。

 こういう沈黙が成立することを、互いに知っていた。

 ミツが、深く息を吐いた。

「……助かるよ」

 独り言みたいな声だった。

「何が?」

「こうやって、何も言わなくていいの」

 答えを待たず、ミツは続けなかった。

 自分も、それ以上は聞かなかった。

 聞かないことが、正しい場面だと分かっていた。

 しばらくして、ミツが立ち上がる。

 自分も、同じタイミングで動いた。

「もう少し、行こっか」

「うん」

 理由はいらなかった。

 二人で歩き出す。

 夜は、まだ終わりそうになかった。

 少し歩いたあと、ミツが足を止めた。

 ミツはポケットに手を入れ、小さなキーホルダーを取り出した。

 金具に細かい傷がついていて、使い込まれているのが分かる。

「これ」

 差し出されて、すぐに思い出した。ミツの家に置いてきたものだった。

「前に、忘れてったやつ」

「……ああ」

 鍵は付いていない。

 ただのキーホルダーだ。

「別に、急がなくてもよくない?」

 そう言うと、ミツは首を振った。

「今でいい」

 言い切りだった。理由は添えられなかった。

 受け取ると、思っていたより軽い。

 手のひらに収まる重さしかない。

「もう、置いとく必要ないから」

 それが何を指しているのか、はっきりしなかった。

 物の話なのか、そうじゃないのかも。

「お前なら、分かるだろ」

 ミツはそれ以上、何も言わなかった。小さな違和感が、僕の体を通り抜けた。

 キーホルダーをポケットに入れる。

 金具が、布に触れて小さな音を立てた。

 その音が、やけに近くで鳴った気がした。

 耳元ではなく、身体の内側で。

 立ち止まったつもりはなかった。

 けれど、次の一歩がうまく出なかった。ミツの背中が、少しだけ遠くなる。

 距離が開いたというより、焦点が合わなくなった感じだった。

 足元を見る。

 影が、さっきより薄い。

 街灯は変わっていない。

 光の強さも、位置も。

 それでも、自分の立っている場所だけが、曖昧だった。

 息を吸う。

 吐いたはずの空気が、思ったより軽い。

 理由を探そうとして、やめた。

 考えれば考えるほど、余計な説明が増えそうだった。

 ミツは、歩く速度を落としていない。

 待っているわけでも、急いでいるわけでもない。

 ただ、進んでいる。

 ミツが、少し前を歩きながら言った。

「最初に会った日さ」

 何のことか、すぐには分からなかった。

「俺さ、あのとき正直、変なやつだと思った」

 短く笑う。

「話してるのに、どこか別のところ見ててさ」

「呼んでも、反応が半拍遅れるし」

「何考えてんのか、全然分かんなくて」

「でも、嫌じゃなかった」

 ミツは前を向いたまま続ける。

「変な間があっても、無理に埋めようとしないし」

「黙ってても、逃げない感じがして」

「……楽だったんだよ」

 少し歩いてから、言葉がまた続く。

「誰かといるとさ」

「合わせたり、盛ったりするじゃん」

「ちゃんとしてるふり、とか」

 声が低くなる。

「でも、お前の前だと」

「それ、しなくてよかった」

「楽だった」

 ミツは、言葉を紡ぐ。

「……今でも、何も変わらない」

 そのあと、ミツはしばらく何も言わなかった。

 呼吸が乱れ、言葉にならない音だけが残る。

 涙が落ちる。僕は、何も言わなかった。

 二人で歩いている。そう思っていた。

 夜は冷たく、空気は澄み切っていた。

 川沿いの道には、人の気配も、時間の流れも薄い。

 音のない場所ほど、残るものははっきりする。

 足音が、道に落ちる。規則正しく、迷いなく。

 僕の足音を置いて。

 その少し遅れでポケットの中で、小さな音がした。

 金具が触れ合う、乾いた音。

 ふと足元を見ると、冷えた舗道に残っている足跡は、ミツ一つ分だけだった。

「またな」

 そう言ってミツは、夜に消えていった。

「うん…またな」

 一粒、涙が溢れた。


 4.「証明」


 朝は、音で始まった。

 目覚ましではない。隣の部屋の水音でも、外の車の音でもない。

 自分の呼吸が、思ったより近くで聞こえた。

 目を開けると、白い天井が視界に入る。

 ひび割れもなく、まだ馴染みきっていない形をしている。引っ越してから日が浅い部屋だった。

 身体は、昨日と同じように動く。重くも軽くもない。

 子供の頃、家の中はいつも静かだった。

 怒鳴り声が飛ぶわけでも、笑い声が弾むわけでもない。音がないというより、必要な音だけが消されていた。褒められた記憶は、ほとんどない。叱られた記憶も、強くは残っていない。何かをしたからといって、何も起きなかった。それが普通だと思っていた。泣いたところで状況が変わらないことを、早くに覚えた。助けを求めても、返ってくる言葉が決まっていることも。だから、期待しないことを選んだ。

 愛されていない、と感じたことはない。愛というものが、どんな形をしているのか知らなかっただけだ。

 学校では問題を起こさなかった。

 目立たず、余計なことを言わず、必要なことだけをこなした。

 大人になってからも、その感覚は変わらない。

 何かが欠けているというより、最初からそういう仕様だった気がする。

 だから今も、

「足りない」とは思わない。

「欲しい」とも、強くは思わない。

 ただ、続けている。

 それを、自分で選んでいる。

 洗面所の鏡に映る顔は、特別な感情を持っていない。

 疲れているとも、元気だとも言えない。冴えないただの一般人。表情を作らなくていいのは、楽だった。

 身支度を済ませ、外に出る。

 空気は少し冷たく、音が少ない。季節のせいか、この街の癖かは分からない。

 駅までの道は、もう身体が覚えている。

 信号の位置も、歩道の幅も、考えなくていい。

 歩きながら、考えが浮かんでは消えていく。何かを掴もうとはしない。それでいいと思った。

 ホームに立つ。

 列の端で、人との距離を保つ。昔からの癖だった。

 時間は進んでいるが、引っかからない。長くも短くも感じない。

 電車が来て、乗り込む。

 座席は空いていないが、問題はない。揺れに身を預け、倒れない程度に力を抜く。

 駅が流れていく。

 人が入れ替わる。

 理由は考えない。

 今日も仕事に行く。

 やることは決まっていて、終わりもだいたい分かっている。それを続けているのは、自分だ。

 楽しいとは言えない。苦しいとも言えない。

 ただ、回っている。回っていることを、自分で選んでいる。

 電車がトンネルに入り、窓に一瞬だけ自分の顔が映る。

 すぐに外の景色に戻る。

 理由はない。意味もいらない。そういう日が、続いている。


 その日の午前中、三浦はコピー機の前で立ち止まった。

 紙詰まりの表示が出たまま、どう触っても変わらない。

「それ、横のカバーからじゃない?」

 背後から声がして、振り向く。

 知らない男が立っていた。年上だと思うが、断定できるほどの差はない。服装はこの職場に溶け込んでいて、名札もつけている。

「ここ」

 男は指先で示すだけで、機械には触れなかった。

 三浦が言われた通りにすると、詰まっていた紙が外れた。

「ありがとうございます」

 男は軽くうなずいた。

「佐久間です。今日から、隣の部署」

 そう名乗られて、三浦も名乗る。

「三浦です」

 それで終わる会話だった。

 けれど佐久間は、そのまま立ち去らなかった。

「この後、倉庫の棚卸しなんですけど」

 頼み事というより、事実を並べるような口調だった。

「一人足りなくて。手、空いてます?」

 断る理由は思いつかなかった。

 忙しくもないし、余裕があるわけでもない。ただ、支障がない。

「……はい」

 佐久間は笑った。

「助かります」

 その言葉に、過剰な重さはなかった。

 代わりはいくらでもいそうで、それでも今は自分が選ばれている。

 倉庫は静かで、やることは単純だった。

 数を数え、チェックを入れ、箱を元に戻す。

 会話はほとんどない。途中で、佐久間が言った。

「几帳面ですね」

 評価というより、確認だった。

「そうでもないです」

 三浦はそう答えたが、否定する理由も特になかった。

 作業は予定より早く終わった。

「また、お願いするかもしれません」

 佐久間はそう言った。約束でも、未来の話でもない。ただの可能性だった。

「分かりました」

 三浦はうなずいた。

 その日の午後、仕事は滞りなく進んだ。特別な達成感もない。けれど、胸の奥に引っかかっていた何かが、少しだけ緩んでいる。

 自分が役に立った、というより、自分の居場所が一時的に定まった感じに近かった。それが、悪くないと思えた。

 それから、佐久間はときどき三浦に声をかけるようになった。

 頻繁ではない。週に一度あるかないか。

 急ぎでもなければ、重要でもない用件ばかりだった。

「この資料、目通してもらえます?」

「数だけ合ってるか見てほしくて」

「今日、少し人手が足りなくて」

 どれも断っても問題はなさそうだった。

 実際、三浦がいなくても回る仕事だ。

 それでも三浦は引き受けた。

 頼まれる、という状態が続いていた。

 仕事を終えると、佐久間は必ず言った。

「助かりました」

「ありがとうございます」

 言い方は毎回同じで、感情を盛らない。

 だからこそ、軽くならなかった。

 三浦は、自分が何かを返している感覚を持ち始めていた。もらっているだけではない、という感覚だ。

 昼休み、別の部署の女性が話しかけてきた。

「三浦さん、さっきの対応、助かりました」

 内容は些細なことだった。

 メールの宛先を間違えそうになったのを指摘しただけだ。

「いいえ、全然」

 それで終わる会話だったが、彼女は少し笑った。

「気づく人、少ないんですよね」

 それからも、似たようなことが続いた。

 書類の不備、作業の行き違い、ちょっとした確認。

 誰かが困りそうになる前に、三浦が動く。大きな成果ではない。

 だが、空白を埋める役割としては十分だった。

 気づけば、名前を呼ばれる回数が増えていた。

「三浦さん」

「三浦さん、ちょっといいですか」

 その呼び方に、違和感はなかった。

 むしろ、落ち着いた。

 家に帰ってからも、その感覚は残った。充実とは違う。満足とも言い切れない。ただ、空白が減っている。自分がここにいる理由を、一つずつ置かれている感じだった。

 それが少し嬉しかった。

 佐久間は、相変わらず深入りしない。

 仕事の外の話はしないし、踏み込んだ質問もしない。

 それでも、ある日言った。

「無理、してないですよね」

 確認するような口調だった。

「大丈夫です」

 三浦は即答した。嘘ではなかった。

 実際、楽になっていた。だから続けている。


 その日は、仕事が少し早く片付いた。

 佐久間が時計を見てから言った。

「このあと、予定あります?」

 問い方は軽かった。

 断られる前提でも、誘いでもない中間。

「特には」

 そう答えると、佐久間は少し考える間を置いた。

「じゃあ、少しだけ付き合ってもらっていいですか?」

 理由は言わなかった。その言い方が、これまでと同じだった。

 向かったのは、会社の近くの小さなバーだった。仕事帰りの人間が、短時間だけ立ち寄るような場所。

 佐久間は慣れた様子で席を選び、三浦に先に座るよう促した。

「今日は、ありがとうございました」

 注文が来る前に、佐久間はそう言った。

「いえ」

 反射で返した。

「最近、助かってます」

 言い方は仕事の延長だった。感情を乗せない、事実だけの言葉。それでも、場所が変わると意味合いが少し変わる。

「三浦さんがいると、抜けが減るんですよ」

 評価ではない。役割の確認に近い。

 三浦は、それを受け取った。

 断る理由はなかった。

 飲み物が置かれる。

 一口飲んで、佐久間が続ける。

「こういうの、負担じゃないですか?」

 また確認だった。踏み込まない範囲での、最大限。

「大丈夫です」

 今度も即答だった。本当に、そうだった。

 佐久間はそれ以上聞かなかった。

 深掘りしない代わりに、話題を変えた。

 仕事の愚痴でも、人生の話でもない。最近あった、どうでもいい出来事。三浦は相槌を打ちながら聞いていた。話す必要がないのは、楽だった。時間は長くならなかった。一杯飲んで、少し話して、それで終わり。

 店を出るとき、佐久間が言った。

「また、こんな感じで」

 日時は決めなかった。約束というほどの形はない。

 三浦は、うなずいた。

 否定しなかった。先延ばしにも、しなかった。

 帰り道、一人になっても、気持ちは変わらなかった。

 仕事の延長でもなく、私的な関係でもない。

 ただ、場所が少し広がっただけ。それを選んだのも、自分だった


 それから数日後、佐久間が声をかけてきた。

 今までと同じ調子だった。急ぎでもなければ、大事そうでもない。

「三浦さん、今日ちょっとだけ時間あります?」

 業務連絡の延長みたいな言い方。

「はい」

 返事は迷わなかった。会議室ではなく、フロアの端だった。人の出入りが少ない場所。

「実はですね」

 佐久間は言葉を選んでいた。

 慎重というより、押し付けないための間。

「来週、俺ちょっと外に出ることになって」

 理由は説明しなかった。説明する必要がない、という判断だった。

「その間、ここの取りまとめをお願いできないかなって」

 仕事としては、そこまで重くない。肩書きが増えるわけでも、給料が変わるわけでもない。

 ただ、判断する場面が増える。誰かの代わりに、決める立場になる。

「無理そうなら、全然」

 佐久間はすぐに逃げ道を用意した。

 それも、いつも通りだった。三浦は一度だけ考えた。

 断る理由は、思い浮かばなかった。

「やります」

 そう言ったあとで、胸の奥が少し静かになった。

 佐久間はほっとした顔をした。大げさではない、ほんの少し。

「助かります」

 それだけだった。

 その日から、三浦の前を通る書類が増えた。

 相談が一つ、また一つ。

「三浦さん、どう思います?」

「三浦さんでいいですか?」

 誰も強制していない。自分で引き受けている。

 帰りが少し遅くなった日もあった。それでも、不満はなかった。むしろ、空白がさらに埋まっていく感じがした。

 誰かの代わりに決める。誰かの判断を受け止める。

 それを続けているうちに、自分が「ここにいる理由」が、はっきりした形を持ち始めていた。

 それを、三浦は分かっていた。

 楽になっていることも。

 助けられていることも。

 それでも続けている。

 それは、特別な出来事として始まったわけではなかった。

 佐久間が不在の間、三浦は淡々と役割をこなした。

 決める。確認する。返す。

 誰かの迷いを受け取り、形にして渡す。思っていたより、抵抗はなかった。

「三浦さんに聞けば大丈夫」

 そう言われることが、増えていった。

 その言葉に、気負いはなかった。期待というより、前提に近い。だから、重くならなかった。

 昼休み、同じフロアの若い社員が言った。

「三浦さん、いてくれて助かってます」

 何か大きなトラブルがあったわけではない。

 小さな確認が、いくつも重なっただけだ。

「そうですか」

 それ以上、言葉は続かなかった。それで十分だった。

 仕事が終わる頃、佐久間から短いメッセージが届く。

「順調そうですね」

「無理してませんか」

 三浦は画面を見てから、簡単に返した。

「大丈夫です」

「問題ありません」

 生活は安定していた。

 決めることが増えた分、考える範囲が狭まっていた。余計なことに、意識が向かなくなっていた。

 帰り道、歩きながら思う。

 前よりも、時間が早く進んでいる気がする。

 それは、忙しさのせいではなかった。一日が、意味を持って終わるからだった。

 週の終わり、佐久間が戻ってきた。

「ありがとうございました」

 いつもと同じ言い方。

 感謝を強調しない、事実だけの声。

「特に問題なかったです」

 三浦も、同じ調子で返す。

 佐久間は少しだけ笑った。

「やっぱり、お願いしてよかった」

 それ以上は言わなかった。

 評価もしない。将来の話もしない。ただ、そのまま仕事に戻った。

 それなのに、三浦の中には、確かなものが残った。

 頼られた。

 役に立った。

 続けられた。

 それだけで、

 十分だった。

 この場所にいる理由が、誰かの手によってではなく、自分の選択によって、保たれている。

 そう思えることが、三浦を支えていた。

 救われていると、分かっていた。


 それから、仕事の流れが少し変わった。

 三浦の前を素通りしていた話が、立ち止まるようになった。

 確認ではなく、意見を求められる。決裁ではないが、判断の方向を聞かれる。

「三浦さんなら、どうします?」

 その問いに、違和感はなかった。

 重さも感じなかった。聞かれる前提になっているだけだった。

 会議の席でも、名前が出る。

「それ、三浦さん通してます」

「一度、三浦さんに見てもらってます」

 誰かが説明すると、周囲はそれ以上深く聞かなかった。

 それで話が前に進む。

 上の人間が視線を向ける回数が増えた。

 声を荒げるでも、持ち上げるでもない。

 ただ、確認する目だった。

「最近、回ってるね」

 三浦は、以前と同じように仕事をした。

 特別な努力を増やしたわけでもない。

 変えたのは、逃げないことだけだった。

 頼まれたら引き受ける。判断が必要なら、決める。

 分からないことは、放置しない。

 それを続けているうちに、

「いないと困る」という空気が、言葉にされないまま、広がっていった。

 帰り際、エレベーターで一緒になった人が言った。

「最近、雰囲気いいですよね」

 何を指しているのかは、分からない。

 部署か、仕事か、自分か。聞き返さなかった。

 ただ、悪い意味ではないことだけは分かった。

 三浦は、その言葉を家まで持ち帰った。反芻もしなかった。胸にしまって、置いておく。それでよかった。

 自分がここにいる理由が、説明ではなく、結果として残っている。

 誰かに与えられた場所ではない。

 押し付けられた役割でもない。

 選び続けた先に、気づいたら立っていた場所。

 それが、三浦にとっては十分だった。

 このまま進めば、

 もっと先があるような気がした。

 そう思えたこと自体が、これまでにはなかったことだった。


 その日の帰り、いつもの道を少し外れた。

 理由は考えなかった。

 今日は、それでいい気がしただけだった。

 コンビニに立ち寄ると店の中は、整っていて必要以上に主張しない明るさだった。

 迷うほどの選択肢はなく、かといって、決めさせられている感じもしない。

 普段なら手を伸ばさないものを、今日は自然に手に取った。特別な判断ではない。

 ただ、今の自分に合っている気がした。

「あたためますか?」

「お願いします」

 持ち帰ったものから、かすかな温もりが伝わる。

 気に留めなければ、すぐに消えてしまう程度のもの。それでも、なぜか手放す気にならなかった。

 部屋は静かだった。

 この静けさを、以前より長く保てている。

 空気が変わる。匂いが広がる。

 その変化を、逃さずに受け取れている自分に気づく。

 味は、思っていたよりずっと素直だった。

 期待していなかった分、

「これで十分だ」と思えた。

 誰かに評価されたわけでもない。役に立った実感があるわけでもない。

 それでも、今の自分がここにいて、こうしていることを、肯定していい気がした。

 流れは滞りなく、無理に整えなくても、生活は形を保っている。

 三浦は、ゆっくりと息を吐いた。

 満ち足りている、とは言わない。

 けれど、確かに軽かった。何かを得たというより、

 どこかしらにあった緊張が、いつの間にか抜けている。

 この状態を、守ろうとしなくていいことが、かえって安心だった。

 明日も同じかは分からない。続かなくても、構わない。


 それからしばらく、同じような日が続いた。

 忙しさは増えていたはずなのに、疲れは前ほど残らなかった。

 帰る時間が遅くなっても、一日が削られた感じはしない。

 朝、目が覚めたときに、

「今日も同じでいい」と思える。

 それが、少し前より自然になっていた。

 仕事では、迷う場面が減った。正解が見えているわけではない。ただ、決めることを怖がらなくなった。

「これでいきましょう」

 そう言うとき、声が揺れない。

 周りも、それを当然のように受け取る。

 説明を求められない。疑われもしない。

 それが、心地よかった。

 佐久間は、変わらず必要な距離を保っていた。

 近づきすぎない。離れもしない。

「最近、顔いいですね」

 ある日、そんなことを言った。

 評価ではなく、事実を述べるような言い方だった。

 三浦は、否定しなかった。冗談にもしなかった。

「そうですか?」

 それだけで終わった。

 それで足りていた。

 仕事の外でも、小さな選択が増えていた。

 どの道を通るか。何を食べるか。誰と話すか。

 どれも大きな決断ではない。

 けれど、

「自分で決めている」という感覚だけが、

 はっきり残った。

 夜、部屋に戻ると、静けさが以前より深く感じられた。不安を押し込めるための静けさではない。

 そのままでいられる静けさだった。

 三浦は、ふと考える。

 このままでも、いいかもしれない。

 何かを成し遂げなくても、特別な意味を見つけなくても、ここにいて、続けていけばいい。

 そう思えたことが、

 これまで一度もなかった。

 それが、今はある。未来の話をしているわけではない。約束をしているわけでもない。

 ただ、今日を終えるときに、

「悪くなかった」と思える日が、確実に積み重なっている。

 三浦は、それを知っていた。助けられていることも。楽になっていることも。

 そして、それを受け取るかどうかを、

 毎日、自分で選んでいることも。

 それがあれば、もう十分だと思えた。


 佐久間にとって、三浦は扱いやすい人だった。

 返事が遅れない。

 頼んだことを、そのまま返してくる。余計な言葉を足さない。一緒に仕事をしていると、引っかかりが少ない。説明を省いても通じる。修正が必要なときも、感情が混ざらない。

 だから、自然と声をかける回数が増えた。

「これ、見てもらえますか」

「三浦さんなら、どう思います?」

 深い意味はない。

 流れの中で、そうなっただけだった。

 結果として、仕事は滞らなかった。誰かが詰まる前に、話が前に進む。それが続いた。

 佐久間は、それ以上のことを考えなかった。考える必要がなかった。

 三浦は、言われたことを引き受ける。引き受けたものを、終わらせる。

 ある日、フロアが少し静かになった時間帯に、

 佐久間はふと、三浦の様子を見た。

 いつもと変わらない。

 手を止めず、画面を見ている。

「このあと、予定あります?」

 そう聞いたのも、

 特別な意図があったわけじゃない。

 少し話せばいいと思っただけだ。三浦が断らなかったことにも、佐久間は、何も感じなかった。

 佐久間のもとに連絡が入ったのは、昼前だった。

 会議が一段落したあとで、書類を片付けている時間。

 名前を呼ばれて、振り返った。

 相手の声は、仕事のときと同じ調子だった。

「三浦さんの件なんですけど」

 それだけで、少し遅れて理解が追いついた。

 今日、連絡がつかないことを思い出す。予定が更新されていないことも。

 内容は簡潔だった。

 余計な言葉はなかった。

 佐久間は、途中で何度かうなずいた。

 質問はしなかった。

 確認することも、なかった。

「分かりました」

 そう答えた自分の声が、思ったより普通だったことに気づく。話し終えてからも、しばらく立ったままだった。

 仕事は、続いた。

 誰かが話しかけ、誰かが判断を求める。

 佐久間は、それに応じた。

 三浦がいないことで、混乱は起きなかった。代わりは、すぐに埋まった。

 それが、なぜか一番きつかった。

 夕方になって、ようやく席に戻る。

 画面を見ても、内容が入ってこない。

 自分が何をしていたのか、はっきり思い出せない。

「無理、してないですよね?」

 あのとき、確かに聞いた。逃げ道も用意した。

 判断としては、間違っていなかったはずだ。

 佐久間は、机に手を置いた。

 力は入っていないのに、指先が少し震えている。

 涙が出たのは、そのあとだった。

 悲しさとも、後悔とも違う。

 何かが終わった、という感覚だけが残っている。

 役割が、消えた。

 それだけだった。


 気づいたとき、もう決まっていた、という言い方は正しくない。

 決めていた、というほど強い意志もなかった。

 ただ、選び続けていた。

 佐久間や周りの人間に頼られていたことは、分かっていた。

 助けられている自覚もあった。

 楽になっていたのも、本当だ。

 だから嘘はついていない。

 仕事が回り、言葉を交わし、役割があり、自分がここにいていい理由が、毎日更新されていく。

 それは救いだった。

 確かに、救いだった。

 けれど、その救いは、未来を保証するものじゃなかった。

 更新される理由は、更新されなくなる可能性も含んでいる。

 三浦は、それを分かっていた。

 選ばれていることと、選ばれ続けることは違う。

 頼られていることと、必要とされ続けることも違う。

 それでも、三浦はその場所に立った。

 立つことを、自分で選んだ。

 軽くなった日々の中で、ふと、選ばなくていい時間が増えていることに気づいた。

 決めてもらえる。

 待っていれば、次が来る。

 それは、楽だった。楽だからこそ、危うかった。

 佐久間がいない時間も、周囲が回してくれる空気も、そのすべてが、三浦の選択を静かに奪っていく。

 誰のせいでもない。

 善意だった。うまくいっていた。

 だからこそ、自分で終わらせる必要があった。

 このまま続けば、選ばなくていい自分が完成してしまう。

 それを、三浦は選ばなかった。

 誰にも押されていない。

 見捨てられてもいない。

 追い詰められてもいない。

 だからこそ、ここで終わることを、自分で決めた。


 朝は、変わらずやって来た。

 窓の外には、いつもと同じ明るさがあった。

 連絡は途切れ、更新されるはずだった予定は、白紙のまま残った。

 呼吸は、どこにも見当たらなかった。

 部屋には相変わらず音がなく、昨日まで確かに存在していた物体だけが、今はもう輪郭を失って宙にぶら下がっているだけだった。

 続いていたものは、そこで終わった。終わらせた。

 ただ、選択だけが、終わりまで彼の手の内にあった。



「理由」

 世界は、今日も何事もなかったように回っている。

 朝は来て、夜は沈み、季節は順番を間違えずに巡る。

 花は咲き、枯れ、また次の準備を始める。

 失われたものは、元の形では戻らない。

 選ばれなかった道も、過ぎ去った時間も、そこに置いたままにしてきた感情も、手を伸ばせば触れられる場所には、もういない。

 それでも、世界は止まらない。

 立ち止まる理由を待つこともなく、誰かの不在を説明することもなく、ただ、淡々と進んでいく。

 残された側は、考える。

 失った理由を探したり、意味を与えようとしたり、時には、何も考えないことを選んだりする。

 何かを得た日も、何も得られなかった日も、

 正しい選択をした日も、そうでなかった日も、

 同じ一日として、時間の中に並べられていく。

 それが残酷だと感じることもあれば、救いだと思える瞬間もある。

 ただ一つ確かなのは、いま、この文章を読んでいるあなたが、ここに存在しているということだ。

 何かを得ても、失っても、何かをしていても、しなくても、世界は回り続け、その回転の中に、あなたは確かに含まれている。


 決して一人ではない。


 その事実だけは、どうか、忘れないでいてほしい。







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