第10話 「温泉街、到着。」
車が温泉街に入った瞬間、
空気の匂いが変わった。
それは、
どこか懐かしくて、
でもちゃんと“旅先”だとわかる匂い。
湯気。
冬の冷たい空気。
硫黄のほのかな香り。
「……来たね。」
叶が、静かに言った。
「え、待って、めっちゃ雰囲気いいんだけど。」
美結が窓に顔を近づける。
「提灯ある……かわいい……」
紗月の声は、自然と小さくなる。
友奈は身を乗り出す。
「うわ、温泉街っぽい〜〜!
ここ、夜絶対エモいやつじゃん!」
「写真は夜まで待って。」
叶が笑う。
「今はまず、無事に着いたことを喜ぼう。」
車を降りると、
冷たい空気が一気に頬に触れた。
「さむっ……!」
友奈が肩をすくめる。
「でも嫌じゃない寒さ。」
彩羽が言う。
声は落ち着いていて、でもどこか弾んでいる。
雪はまだ本降りじゃない。
でも、地面の端にうっすら白が残っている。
「……雪、残ってるね。」
陽芽が足元を見て言った。
「初雪じゃない?」
小春が笑う。
「やば、テンション上がる。」
叶がスマホで時間を確認する。
「……13時ちょっと前だね。」
「え?」
友奈が目を丸くする。
「チェックインって16時だよね?」
「そう。」
叶が頷く。
一瞬、
8人の間に沈黙が落ちた。
「……早すぎない?」
美結が首を傾げる。
「早すぎるね。」
瑞希が淡々と肯定する。
「え、どうする?ロビーで3時間?」
小春が聞く。
「それはそれで微妙じゃない?」
友奈が苦笑する。
誰も“嫌”とは言わないけれど、
誰も“それが正解”とも思っていない空気。
そのとき、
彩羽がふと思い出したように言った。
「……そういえば、ここからそんなに遠くないところに、
山寺あるよ。」
一瞬、時間が止まる。
「山寺?」
陽芽が小さく反応する。
「え、あの……階段の?」
紗月が確認するように聞く。
「そう。
千段くらいあるやつ。」
彩羽は淡々と言った。
「千段!?」
友奈の声が一段上がる。
「聞いてない聞いてない!」
「今から行くの?」
美結が笑い混じりに言う。
「ブーツなんだけど私。」
瑞希が空を見上げる。
「……時間は、ちょうど潰せるね。」
叶はナビを確認しながら、
少しだけ考える。
「3時間あるし……
無理はしない前提で、
行ってみる?」
誰かが即答することはなかった。
でも――
この“迷っている時間”こそが、
旅の醍醐味だと、
全員どこかでわかっていた。
「……せっかくだし。」
友奈が言う。
「あとで
“あの時行けばよかったね”
って言うの、嫌じゃない?」
「……それは、嫌。」
陽芽が小さく頷く。
「行こう。」
紗月も、そっと言った。
小春はもう決めていた。
「よし、じゃあ運動前のおやつ食べよ。」
「そこ?」
瑞希が笑う。
叶は小さく息を吐いて、
ハンドルを握り直す。
「じゃあ――
山寺、行こう。」
車が再び動き出す。
温泉街を抜け、
山の方へ向かう道。
誰もまだ知らない。
この“時間調整”のつもりの寄り道が、
今日いちばん記憶に残る時間になることを。
チェックインまで、あと3時間。
旅は、思っていたより深いところへ進み始めていた。




