第3話 異世界転移、初陣にして即リタイア
瑠璃色のまばゆい光に目を覆い、次に目を開けると、そこは鬱蒼とした森の中だった。
隣にはアテナが立っている。
「ここは――」
「さあ、どこかしらね?」
「いや、知らないんかい。お前が飛ばしてきたんだろ」
「なによ、その顔。異世界転移なんて上級魔法、滅多に使わないの。失敗しても責めないでほしいわね」
「言い訳する男はモテないぞ」
「ふふ……そうね。ごめんなさい。でも、六か国のうち“人間国”に近い場所に飛ばしたはずよ。少し歩けば、きっと人くらいは見つかるわ」
――とんだボケ殺し。ここに豊満なおっぱいがあるでしょ。とか返してほしかった。
「ああ、そうそう。異世界転移記念に武器を授けてあげる」
俺が内心もんもんとしていると、アテナはすでに別の話に入っていた。詠唱を唱えると、彼女の右手が金色の光に包まれ、竹でできた薄茶色の日本刀が現れる。
「はい。悠真の武器よ」
「いや、なんで斬鉄剣みたいな日本刀が出てくんだよ! ここファンタジー世界なんだろ? エクスカリバーみたいなやつを期待してたんだけど!」
「……さっきからうるさいわね。少し黙れないかしら。だから、彼女ができないのよ」
グサリ。
こいつ……平然と俺が気にしてることを突いてくる。
「いらないなら構わないわ。モンスター相手に素手で戦うのも、それはそれで画になるし。強くなれば波動拳くらい撃てるかもしれないわね。俺より強い奴に会いに行く。とか言い出す日を、少しだけ楽しみにしてる」
「……アテナ様。その斬鉄剣を、私にください」
即座に俺は、王に従う兵士のように片膝をつき、頭を下げた。残念ながら、あんなたくましい男になれる自信はない。
「わかればいいわ。ちなみに武器に名前を付けるのは自由だけど――斬鉄剣みたいに何でも切れるわけじゃないわよ。つまらないものなら切れるかもしれないけど」
そうなのか。それは残念。
……てか前から思ってたけど、アテナって地味にアニメとかゲームの引き出し多いよな。
酒でも酌み交わしたら、案外盛り上がるかもしれん。
「ちなみに悠真、今レベル1よ。つまり――無茶苦茶弱い。スライム相手にも苦戦するわね」
「は? 嘘だろ。普通、異世界転移したときってチート能力もらえるもんだろ!?」
「チート能力は付与してあるわよ。……晩成型だけど」
「どんな能力だ?」
「経験値の上がり幅を最高値にしてある」
「最高値ってどれくらい?」
「777倍よ」
「いえーい!! フィーバー!!」
「なによ、急に大きな声出して。怖いんですけど」
「……ごめんなさい」
つい興奮してしまった。だが、それってつまり、経験値1のモンスターを倒せば、777も経験値が入るってことだよな。
……これ、一瞬でレベルカンストする未来しか見えないんだけど。
「あっ。でも、ずっとじゃないわよ。ある一定のレベルまで上がったら、フィーバーは終了するわ」
「……なんだよそれ。楽してレベル99まで行けると思ったのに……」
「でも、経験値777倍チートが消えた後は、別の能力が付与されるはずよ」
「おお、どんな能力だ?」
「は? 教えるわけないでしょ。てか、私も知らないわ。調子乗らないで」
突然、キレるアテナ。感情の起伏がすごいな、こいつ。
「……ん? なんだ?」
話をしていると、遠くから、かすかに騒がしい声が聞こえてきた。
耳を澄ませる。
バウッ、バウバウバウッ!!
甲高い吠え声が、森の奥から響いてくる。その声は徐々に大きくなり……まっすぐ、こちらへ近づいてきている。
途端――
ガサガサガサッ!
すぐ近くの草むらが、大きく揺れた。俺は反射的に刀を抜き、構える。
犬でも飛び出してくるかと思いきや――想定外だった。
草をかき分けて飛び出してきたのは、少女だったのだ。
少女は俺の姿を見つけるや否や、全力で駆け寄ってきて――そのまま腰にしがみついてきた。
「た、助けて……!」
か細い声。小さく震える肩。
年は十歳くらいだろうか。長い金色の髪が風に揺れ、クリッとした大きな瞳には涙が滲んでいる。その顔は蒼白で、全身から緊迫感がにじみ出ていた。
どうした――と尋ねるよりも早く、
少女が飛び出してきた草むらの奥から、再び、ガサガサッ、と音が響く。
……音は、先ほどよりも激しい。俺は息を呑み、刀を握り直した。
――そして。
草むらを割って現れたのは、犬……ではなかった。
三匹の獣が姿を現す。灰色の毛並み、鋭い牙、殺気を帯びた黄色い眼光。低く唸る喉から、獰猛な唾が滴り落ちる。
――狼だ。
うわ……マジか。本物の狼、初めて見た……けど、感動してる場合じゃない。
三匹は牙をむき出しにして、俺たちを取り囲むようにじりじりと間合いを詰めてくる。
完全に敵と認識されているな。懐いてくる気配なんて、欠片もない。
これは――間違いなく、襲われるパターンだ。
「大丈夫。……離れていて」
俺は少女の肩にそっと手を添え、安心させるように頷いてみせた。
すると――少女の瞳が、一瞬にして希望の光を宿す。
「えっ……嘘でしょ。悠真、あなた……戦うつもり?」
が、ここに空気を読まない女神が一人。アテナは心底信じられない、という顔をしていた。
「当たり前だろ。この子を見捨てろって言うのか?」
俺が問い返すと、アテナは小さく肩をすくめる。
「……まあ、仕方ないと思うわね」
と、平然と言い放った。その一言に、少女の小さな肩がビクリと震え、抱きついていた腕にぎゅっと力がこもる。
「さっきも言ったわよね。あなた今、レベル1なの。スライム一匹にも苦戦する状況よ?そんな状態で、狼三匹相手に勝てるわけがない。無駄死にするだけ」
「そうかもしれない……。だけど、だからって、この子を見捨てていい理由にはならないだろ」
真剣に訴えかけると、アテナは溜息をつき、
「……もういいわ。勝手にしなさい」
と呟いて腕を組み、近くの木にもたれかかった。
えっ? なにその反応。
こういう時は「仕方ないわね」って言って加勢してくれる展開じゃないの? さっき、あなたは私が守るって言ってなかったっけ。
「お兄ちゃん……」
視線を落とすと、少女は不安に引きつった顔で、今にも泣き出しそうだった。
「大丈夫だよ」
俺は少女を安心させるように微笑み、そっと頭を撫でる。
そして――
「離れていて」
一言そう告げると、ゆっくりと一歩、また一歩と前へ出た。狼たちとの距離が縮まるたび、全身の筋肉が強張っていく。
鞘から刀を抜く。刃が月光を反射して、キラリと銀色に光った。
――おお。これが、真剣か。
子どもの頃、ファンタジーの世界に憧れたものだ。けれど今、いざ本物の剣を握ると、胸に広がったのは感動ではなく、圧倒的な恐怖だった。
俺が両手で刀を構えると、狼たちは牙を剥き、低く唸り声を響かせた。
――数秒の睨み合い。
その緊張を破るように、一匹が地を蹴った。
疾風のように迫る影。俺は反射的に足を踏み込み、迎え撃つように刀を振り上げる。
「キャンッ!」
鋼の刃が狼の胴をかすめ、腕には肉を断つ鈍い衝撃が残った。
――これが、生き物を斬る感触か……全然、気持ちいいもんじゃないな。
出血した狼は後退し、地面に爪を立てて体勢を立て直す。
致命傷ではない――まだ戦える。
「お兄ちゃんっ!」
突然、背後から少女の悲鳴。
――なんだ!? と振り返った時には、もう遅かった。
俺は一匹に集中しすぎたせいで――もう二匹の存在を、完全に視界から外していた。
いや、正確には「忘れていた」わけじゃない。極度の緊張で、一匹しか目に入っていなかったのだ。
だから、振り返る動作と同時に――。
ガブッ!!
「ぐあああっ!!」
鋭い牙が右肩に食い込み、世界が真っ白に弾ける。
焼け付くような激痛が肩を貫き、力が抜けた体は地面に叩きつけられた。
仰向けの視界に、迫る牙と爪。
――二匹の狼が、トドメとばかりに飛びかかってくる。
やれやれ、万事休すか。
……あっという間のゲームオーバーだったな――
そう思ったその瞬間。
ゴォォォォォ――ッ!!
飛びかかってきた二匹の狼が、突如として烈火の炎に呑み込まれた。
断末魔を上げる暇もなく、骨すら残さず、一瞬で塵となって消滅する。
……いや、二匹だけじゃない。
右肩を押さえ、体を起こして周囲を見渡すと――
最初に斬った一匹も、跡形もなく燃え尽きていた。
誰がやったのか――言うまでもない。
少女は怯えきった目でアテナを見上げている。
アテナの前に伸ばされた右手からは、まだ薄く煙が立ちのぼっていた。
――あれが、アテナの火炎魔法。
骨すら残さない威力。やはり、想像通り――とんでもない化け物だ。
「悪い、アテナ……」
ありがとう、と言いかけた瞬間――アテナに頭をチョップされた。
「0点。いいえ、マイナス100点ね。弱いどころの話じゃないわ。なにが、この子を見捨てていい理由にはならないよ。死にかけてるじゃない」
「いや……そうだけどさ……でも、さすがに見捨てられないだろ?」
「でも、意外ね」
アテナは首を傾げる。
「あなたの性格上、あの状況なら『よし、逃げるぞ』って言って、この子を置いて逃げると思ったけど」
ひどい言いようだ。
……でも、アテナの言う通りかもしれない。俺自身も、こんな面倒ごとに巻き込まれたら真っ先に逃げ出すと思っていた。
「……安心したわ。あなたには、まだ優しい心が残っているようね」
優しい心? なんの話だよ。
――てか、それよりも。
「あの……アテナちゃん。俺、頭が朦朧としてきたんだけど……結構やばいかも」
「えっ、嘘でしょ。あれで死ぬの? ……まあ、レベル1だから、ありえなくもないわね」
「いや、だからさ……回復魔法を早く」
――やばい。意識がもう保ちそうにない。段々、右肩の激痛すら快感に変わってきた。
「は? 私、回復魔法なんて使えないわよ」
「……えっ? 嘘でしょ」
「嘘じゃないわ」
「えっ……じゃあ、ポーションとか……」
「持ってないわよ。手ぶらで、ノーブラよ」
アテナはポカンとした顔で答える。どうやら意地悪ではなく、事実らしい。
一瞬、助かったと思ったけど――やっぱりゲームオーバーか。
……てか、アテナ、ノーブラなんだ。
ああ、もっと胸元、ガン見しておけばよかったなぁ……。
意識が遠のいていく中、少女が泣き叫ぶ声だけが耳に響いていた。
まあ、いいさ。少女は死なずに済んだ。
――それだけでも、俺がこの世界に転移した意味はあった。
こうして――俺の短い異世界生活は幕を閉じた。
……はずだった。