ボタン一つの人生劇場
町外れにある古びた商店街の一角に、不思議な店があった。看板には「何でも解決します」とだけ書かれている。店主は初老の男で、いつも静かに微笑んでいる。どんな悩みでも持ち込んでみると、彼は必ず「これを使いなさい」と小さなボタンを渡してくれる。それは黒いプラスチック製で、手のひらにすっぽり収まるほどの大きさだった。
ある日、一人の若者が店を訪れた。彼は仕事に行き詰まり、人間関係にも疲れ果てていた。
「もう何もかも嫌になったんです。この生活をどうにかしたいんですが……」 「これを使いなさい」と店主は例のボタンを差し出した。
若者は戸惑いながらも、受け取った。「これをどうすれば?」 「押せばわかる」とだけ店主は言った。
家に戻った若者は、ボタンをじっと見つめた。「押せば何かが変わる」と思うと怖かったが、期待もあった。意を決して押してみると、部屋全体が一瞬にして暗闇に包まれた。そして、気がつくと彼は新しいオフィスに座っていた。机の上には昇進祝いの札があり、同僚たちが笑顔で祝ってくれる。
「なんだ、夢か?」と思ったが、どうやら現実らしい。生活は全て理想通りに変わっていた。昇進だけでなく、気まずかった友人関係もすっかり修復され、彼の人生は順調そのものだった。
しかし、時間が経つにつれ、若者は違和感を覚え始めた。なぜか自分の行動や選択が、まるで「最適化」されているかのように感じられるのだ。喜びも悲しみも、どこか薄っぺらい。何をしても本当の自分ではないような感覚に襲われた。
そんな折、彼は例のボタンをふと見つけた。使った後、捨てたはずのそれが、机の引き出しの中に戻っていたのだ。「また押せば、元に戻るのかもしれない」と思った彼は、もう一度ボタンを押した。
目を開けると、彼は元の薄暗い部屋に戻っていた。散らかった部屋、汚れた机、止まった時計。現実のすべてが、そこにあった。しかし、不思議なことに、彼はほっとした。
翌日、彼は店を訪ねた。「どうして、あのボタンはあんなものなんですか?」 店主は静かに笑った。「ボタンはただの道具だ。変わるのは君の見方だけさ。どちらが本当の『解決』だったか、君にはわかるかね?」
若者は答えられなかった。ただ、二度とボタンを押すことはないだろうとだけ思った。