お母さんの過去
マリナが実家へ帰ってしまった後のこと。
お母さんが話があるといって、私の部屋にやってきた。
わざわざふたりきりで話をするのはめずらしい。
「アリスちゃん。荷物を届けにいったときに、辺境伯様にはお会いしたの?」
「ううん、食堂の人と、騎士団の人に会っただけだよ」
「そうなのね。あなたにはあまり礼儀作法を教えてこなかったから、少し心配していたの。学園だけでなく、伯爵家とまでお付き合いするのであれば、ある程度貴族の常識を知っておく必要があるわ。でないと、貴族って怖いのよ」
「怖いって、どんな風に?」
「平民が失礼な態度をとったら、その場で切り捨てる貴族だっているのよ」
ひえ~。それは怖い。
辺境伯様が割とフレンドリーな感じだから、ついつい気が緩んでたかも。
私は平民だけど、お母さんが元貴族ということで、辺境伯様はだいぶ甘やかしてくれているような気がする。
「そういえば、お母さんは元貴族だったんだよね。淑女教育っていうのを受けていたの?」
「そうよ。貴族の子女にはだいたい子どもの頃から家庭教師がつくの。そこでマナーを徹底的にたたき込まれるのよ」
「ふーん。なんだか、お母さんが伯爵令嬢でドレス着てたなんて、想像できないなあ」
私が知っているお母さんは、泥だらけになって野菜の収穫をしている、どこにでもいる普通のお母さんだ。
でも、今思えば、辺境の村にいた他の人よりはかなり上品だったかもしれない。
私とカイルはお母さんに似て金髪なんだけど、それも平民では珍しかったと思う。
「あなたにはのびのびと生きてほしいと思っていたけれど、ここまで貴族と関わるようになってしまっては、マナーを知らなかったでは通らないの。だから、少し貴族としての嗜みを覚えてもらうわね」
「貴族じゃないのに、そんなのが必要?」
「貴族がどんな責任を背負っていて、どんなものの考え方をするのか、知っておく方がいいわ。商売をするにしても、相手を知らなければだまされてしまうことだってあるでしょう?」
お母さんは、まずは言葉遣いと挨拶を直しなさい、と言って礼儀作法を教えてくれた。
貴族の令嬢がよくやっている、膝をちょこんと折るような挨拶だ。カーテシーっていうやつ。
貴族はプライドが高く、上下関係をはっきりさせたがる人たちで、簡単には頭を下げないらしい。
伯爵家以上の高位貴族の令嬢は特に、自分に非がないのに頭を下げてはいけないと教えられるんだとか。
非を認めてしまうと足下をすくわれるからね。
もちろん私たち平民はいつも頭を下げておけばいいんだけど、カーテシーという挨拶は覚えておいた方がいいと言われた。
いつか、辺境伯家で働くことになったら、必要なことだからって。
これが結構難しくて、背筋を伸ばしたまま膝をストンと折るような動作がなかなかうまくいかない。
キャロラインも子どもの頃からこういうことをたたき込まれてきたのかなあと思い出す。
そういえばダンスをしているときの立ち姿、誰よりもきれいだったな。
「お母さん、ダンスは得意? 私、学園で一度だけレッスンを受けたけど、あんまり得意じゃないんだ」
「そうね、独身時代には何度か舞踏会に行ったわね。貴族女性は十六歳になるとデビュタントと言って、王宮で社交界デビューをするのよ」
「ふうん……なんだか大変そうだね。貴族って」
「……アリスは、学園で貴族の令嬢と付き合っていて、うらやましいと思うことがある?」
「ううん、ないよ。私とマリナは自由で楽しいなあって思ってる」
「そう。それならいいんだけれど……」
お母さんは遠くを見るような目になり、少しの間物思いにふけっていた。
元は伯爵令嬢だったんだもの。農民になってさぞかし苦労したんだろうな。
昔の生活を思い出して、寂しく思うことがあるんだろうか。
「ねえ、お母さん。お父さんと出逢った頃の話をしてくれる? どうしてお父さんと結婚しようと思ったのか聞かせて!」
「うふふ。そうねえ。今ならもう話してもいいわね」
お母さんから聞いた過去の話は、驚くことの連続だった。
そりゃあ、お母さんが実家から逃げ出したくなったのも仕方ないよね、と思えるような話で。
◇◇◇
十六歳でお母さんは、上級魔術院に進学した。
その当時は魔術のことに夢中で、恋愛にはあまり興味がなかったらしい。
魔術が趣味というぐらいのガリ勉優等生だったんだって。
お母さんには兄がいて、実家のロートレック伯爵家は兄が継ぐと決まっていた。
だから、お母さんは、いつか自分の力で生きていけるようにと上級魔術院へ進学したのだと言う。
できることなら国の魔術師団に入るか、学園の教師になることを目指していたようだ。
ご両親、つまり私の祖父母は、お母さんのやることにはあまり興味がなく、比較的自由にさせてくれていたらしい。
ところが、もうすぐ卒業して上級魔術師になれるというときに、縁談がもちあがったそうだ。
しかも、それは格上の侯爵家で、伯爵家が断れるような話ではなかったらしい。
お母さんも高位貴族令嬢として、いずれは政略結婚の話がくることは覚悟していたと言う。
ただ、その縁談の条件は、あまり良いものではなかった。
お相手のザダリア侯爵は、お母さんよりも一回りぐらい年上で、しかも再婚だ。
前の奥さんは三年間子どもができなかったので、離縁されてしまったらしい。
そして後妻としてお母さんに白羽の矢が立ったんだけど、ザダリア侯爵に見初められたからというわけではなかった。
侯爵は魔力の高い子どもを生む女性を探していて、上級魔術院にいるお母さんを見つけたのだ。
あと数ヶ月で卒業という頃のこと。
しかし侯爵は、「女が賢くなる必要はない」と言って、お母さんに学園をやめるように言ったらしい。
上級魔術院卒業という肩書きがついてしまうのを嫌がったそうだ。
自分自身があまり勉強が得意ではなかったので、コンプレックスがあったんだって。
お母さんは、なんとか魔術院だけは卒業したいと交渉しに侯爵家を訪れたそうだ。
その時に、偶然侯爵が立ち話をしているのを、盗み聞きしてしまった。
「なに、2人ほど男子を産ませたら、適当に離縁したらいい。慰謝料を十分払えばあの伯爵なら文句は言わないだろう」
ザダリア侯爵には愛人がいたようだ。
しかし家柄や魔力の問題で、正式には結婚できない相手だった。
それでお母さんをお飾りの妻にしようとしていたんだけど、その時護衛についていたお父さんはすごく怒ってくれたんだって。
もし、平民になってもいいなら、一緒に逃げようって言ってくれたって。
お母さんは話しながら、少し嬉しそうな顔になった。
もちろん、それは簡単なことではなかった。
お母さんは一度は両親と話し合ったと言う。
ザダリア侯爵には愛人がいて、子どもを生んだら離縁すると言っていたことも話してみた。
でも、一度成立した婚約を、伯爵家側から破棄することは難しかったようだ。
とにかく一度は結婚して侯爵家へ行くように、と親からは言われてしまった。
そして、お父さんとお母さんは駆け落ちしたんだそうだ。
その後実家のロートレック家は、娘が逃げたということで、侯爵家からは多額の違約金を請求されて。
その上、ロートレック伯爵は息子に爵位を譲って隠居することになった。
つまり社交界から追放されたようなものだ。
その時に、若くして伯爵家を継いだのが、お母さんの兄上、現ロートレック伯爵だ。
◇◇◇
……という話を、お母さんはポツポツと思い出すように話してくれた。
どんな事情があるにせよ、実家と断絶しているのは辛いよね。
うちは家族仲良しだし。
「お母さんは、駆け落ちしたことを後悔したことがある?」
「それはないわ。だって、お父さんみたいにイケメンで優しくて強い人なんて、そうそういないわよ。そう思わない?」
にっこりと笑顔になったお母さん。
娘の私から見ても、父はイケメンだし、騎士だった頃にはさぞかしモテたんじゃないかと思うよ。
なんたって、名門伯爵家のご令嬢が恋に落ちちゃうぐらいだもん。




