#2
里斗 包瓦は目覚め、身体を起こし、ズキズキと痛む頭の古傷を抑えながら頬を伝う涙を拭う。
あれから9年が経った。中学3年のあの日が悪夢として時折現れる。
隣のベッドを見ると安らかな表情で寝息をたてる最愛の幼馴染、綿雲 揺楽璃の姿が見える。
彼のベッドに腰掛けると桃色の細く柔らかい髪を撫で、キスのように顔を近づけるが、すこし考え首筋に口付ける。
綿あめのような甘い香りが鼻をくすぐる。彼の匂いは包瓦の心に柔らかく溶け込み気分を落ち着かせてくれる。
揺楽璃はあの日以来変わった。穏やかな口調と間延びした語尾、緩んだ表情。そして、拒絶や否定をすることが無くなった。そうしてしまった。
しばらく髪を撫でていると、揺楽璃の目がゆっくりと開き紺碧色の瞳をこちらを覗く。
「おはよぉ包瓦泣いてたのぉ?悲しいことでもあったぁ?」
「大丈夫、ただのあくびだよ」
「そっかぁ、あくびかぁ」
「そう。揺楽璃はいい夢見れたか?」
「んーんー覚えてないやぁ」
身体を起こした揺楽璃を少し抱きしめ、立ち上がらせて2人でリビングに向かう。
パジャマの裾をズルズルと引きずる揺楽璃の横から転ばないか気を遣いつつ問いかける。
「今日の朝食はトーストだけど何かかけるか?」
「ん〜いちごジャム乗っけてぇ」
「分かった、いっぱい乗せてやるよ」
「やったぁ!いっぱいだよぉ」
「甘い飲み物も用意してやろうな」
「ほんと?とびきり甘いのだよぉ」
いちごジャムをたっぷりと乗せたトーストと蜂蜜を混ぜたホットミルクを揺楽璃の前に置き、自分の前にはバタートーストとカフェオレを置く。
「シナモンスティックいるか?」
「いる!!」
「ほらどーぞ」
「やったぁ!はやくたべよぉ」
「そうだな、頂きます」
「いただきま~す」
揺楽璃が美味しそうにかぶりつくのを見て自分もバタートーストを口に運ぶ。
「揺楽璃、ちょっとまってくれるか?」
「なあに?」
「ほらここジャム付いてるぞ」
朝食が終わり、口の端にジャムをつけたまま食器を運んでいた揺楽璃を呼び止め、ジャムを拭き取ってそれを口にする。
「へへ。ありがとぉ」
口元を緩ませながら感謝を述べる彼は本当に愛おしい。
だがそれと同時に責任も感じる。本当は元に戻りたいんじゃないか。俺のことを恨んでいるんじゃないか、そんなことを考える時もある。
自分ではどうする事もできない無力感と目前の最愛の人を感じながらせめて彼を一生愛し、支えていこうと心に誓う。
朝食と朝の支度を終わらせてソファでニュースを見てくつろいでいると揺楽璃が膝の上から乗ってくる。
「乗っかっちゃったぁ」
いつものように近づき、すり寄ってくる彼の背へと包み込むように手を回し、首筋に顔を近づけて大きく、ゆっくりと呼吸する。鼻と口を通し、肺いっぱいに揺楽璃の甘い匂いを吸い込む。多幸感を感じつつ彼の首筋を甘く噛む。
「んぅ」
揺楽璃の口から抑え切れなかった声が漏れ、ピクリと肩が跳ねるのを感じるが、押しのけられたりはしない。
膝上に置かれた揺楽璃の手を取り、中指を緩く握って硬い骨と柔らかな肌の感触を楽しむ。
揺楽璃の指を口に運んで数回柔らかく歯を立てた。存在を確かめるように強く抱きしめ、首筋に口付けて赤い痕をつける。
「包瓦これ好きだよねぇ僕が近づくといっつもするよねぇ」
「すまん、嫌だったか?」
「別に大丈夫〜ちゅーも噛むのも嫌じゃないよぉ」
「……なら良かった」
返事は分かっていた。嫌とは言われないと。仮に自分が揺楽璃に対して抱いている、余りにも重いこの感情を伝えても、彼は受け入れてくれるだろう。
けれどもしも、万が一告白をしてあの時のように手を振り払われたら……
嫌な想像を振り払うように首を振り揺楽璃の肩に顎を置く。
穏やかな時間が過ぎていき、そろそろ家を出ないといけない時間になる。
包瓦の膝に乗り、上半身にしなだれかかっていた揺楽璃を抱き上げ、ソファに下ろして立ち上がる。
「もう行くのぉ?」
「そろそろな」
車の鍵を手に取り靴を履く。
揺楽璃が玄関まで来て送り出してくれる。
「いってらっしゃ~い!気をつけてねぇ」
「おう、行ってきます」
軽くハグをしてから、玄関を開けて足を踏み出す。今日も人の欲を見て周ることになるのだろう。