巨○は貧○を兼ねる3
「妹がね……可哀そうでさあ…………ヒック……」
赤ら顔の大良風子は酎ハイの入ったジョッキを片手に、呂律が回らない様子で言った。既に顔はテカテカ。店に来た当初は綺麗に整っていた漆黒のボブカットも、飲み始めて30分も経たないうちに乱れ始めていた。だがそんな事は一切気にせず飲んでいた。というより、酔っ払っていて乱れている事に気付いていなかった。
「妹? あんた、妹なんて居たんだ?」
風子と同じペースで飲んでいるにも拘わらず、同僚の細見鶴子はシラフに見えた。ダイエットに励んでいる訳でも無いのにほっそりとした体躯。風子と違って鶴子のショートヘアは綺麗に整っていた。少し茶色がかったその髪は、くせ毛も手伝ってか自然とくるくると巻いてる箇所もあったが、鶴子はそんな髪の毛を気に入っていた。
平日の午後7時過ぎ。仕事帰りに立ち寄った居酒屋で以って、2人は酒を酌み交わしていた。鶴子は風子の髪が乱れている事に気付いていたが、わざと何も言わなかった。更に言えば椅子に座った姿勢が悪い事も手伝い、風子のスカートの中身が見えそうな程にズル剥けになっていた。鶴子はその事にも気づいていたが教えなかった。別に悪気があった訳ではない。単に面白かったからと、それだけの理由である。風子は飲むと失礼な奴になる。それならば面白さ優先で教えない。ただそれだけの事であった。
「知らなかったのかよー。全くもう、鶴子ちゃんは無知無恥無乳だなー。いーるーのー。いーるーのーよー。まー、顔はそこそこなんだけど可愛い妹がねー」
「誰が無乳だっ! まったくもう……で、いくつ位離れてるの?」
2人は4人掛のテーブル席で以って向かい合わせに飲んでいた。鶴子は姿勢正しく椅子に座って飲んでいたが、風子は椅子の背もたれに寄り掛かかり、背もたれが無ければ後ろに倒れそうな程に酔いが回っていた。
その居酒屋は取りたてて綺麗でも無く、壁は焼き鳥等を焼く際に出る煙で薄汚れており、女性が好んで来店する様な雰囲気の店でもなく、御洒落とは程遠い店内だった。カウンター7席、4人掛のテーブル席が4つの小さめの居酒屋。カウンターには2人客の2組が座り、テーブル席は埋まっていた。それらの客は全てスーツ姿の中年男性であり、焼き鳥を焼く煙が多少なりとも客席に廻るような中、女性だけで飲んでいるのは風子と鶴子だけだった。
「えっとー。私が26で、栄子が17だから、11個、かな?」
「結構離れた妹が居たのねぇ。で、その妹ちゃんの何が可哀そうなのよ?」
「小さいのよ~。無~いのよ~。全く~無~いのよ~ん♪」
街で見かける酔っ払いと見紛う風子は、ヘラヘラと笑うように歌い答えた。周囲の男性達は時折チラリと2人に目線を送った。鶴子はその男性達に背を向けて飲んでいたが、なんとなくイタい者を見るようなその視線を背中で感じていた。
「小さい? 全く無い? ……って、何が?」
「胸よ、胸っ! おっぱいだよ~ん」
「はあ? おっぱいがどうしたって?」
「胸がね~。小っさいのよ~。全くぅ~無~いのよ~ん♪」
「いや、無いって言ってもアンタが大き過ぎなだけで、それと比べたら殆どの人は小さいって言えるだけじゃないの?」
風子は大きかった。かなり大きかった。いわゆる机に乗っけられる乳である事から「デスクトップパイ」である。胸元が開いている服では無いものの、明らかに大きいと分かるそれが、胸部から下へと影を作っていた。
「いや~、それがね~、ほんっっとに無いんだわ。ぎゃはははー」
「だってまだ高校生でしょ? これから大きくなる可能性だってあるんじゃないの?」
「はあ? ツルペタの鶴子ちゃんに言われても説得力無いわー。ギャハハハー」
鶴子は無かった。全く無かった。引っかかる物が無い事から「ストレスフリーパイ」である。近くで見ても存在しないそれは、胸部から下に影を作る事等は出来はしなかった。
「お前なーっ!」
「つうか、鶴子ちゃん。ずいぶん日に焼けてんなー。日サロか?」
鶴子は元々白いと言う訳では無かったが、明らかに日焼けしている事が誰の目にも明らかであった。日焼けを嫌がる女性が多い中、日焼けをしている事でアクティブな女性であるという見方も出来た。
「違うって。昼間に話したじゃん。先週末、沖縄に弾丸旅行に行ってきたって」
「あー、言ってた言ってた。つうか、聞いた聞いた。ギャハハハー」
風子は天井を見上げながら高笑いをする。鶴子は背後からの男性達の視線が徐々にイタくなってきたのを感じた。
「酔いすぎだろ風子。もう帰る?」
「まだ飲むってーの」
そう言った途端、風子はカクンっと項垂れた。
「おーい、風子ー。風子ちゃーん。寝ちゃったのかー。おーい、起きろー」
風子は項垂れたままだった。だがよく見ると、風子は呪文の様にして独り言をぶつぶつ言っていた。鶴子は何を言っているのだろうと、テーブルから身を乗り出し風子の口元へと耳を近づけた。
「巨乳にあらずんば女にあらず……巨乳にあらずんば女にあらず……巨乳にあらずんば女にあ――――」
パーンッ。鶴子は芸人のツッコミの如く、風子の頭をはたいた。
「おいっ! 風子っ! 起きろっ! おいっ! ブー子っ!」
「誰がブー子やねんっ!」
鶴子の言葉に瞬時に風子は目を覚まし、寝起きの様な顔を鶴子に見せた。
「ったく、風子は、なんつー寝言言ってんだ。そのうち誰かに刺されるぞ?」
「う~ん、寝言? 何それ? う~ん……それより鶴子ちゃんさー。確かに顔は可愛いんだけどさー。短髪のアンタがそんなに日に焼けてツルッツルのペッタペタだと南国の少年にしか見みえねーぞ? 腕も足もほっそい体してるしさー。白いランニングシャツなんて着たらまんま南国少年にしか見えねーぞ? ギャハハハ。麦わら帽子と虫取り網を持たせて写真撮りたいわー。ギャハハハーっ! タイトルは『貧乳の南国少年』だな。あれ? 『南国の貧乳少年』かな? ギャハハハー」
「お前は失礼な事を平然と言いやがってっ! この酔っ払いババアがっ!」
「しかし、妹がちっちゃくて可哀そうなのよー。ツルペタの鶴子ちゃんと同じなのよー」
「まだ言うかっ! 男ならセクハラだぞっ! ってか同性でも他人だったら刺されるぞっ! つうか、風子の自慢のその乳だって既に垂れ始めてんじゃないの?」
「うがぁーっ! 気にしてる事を言ったな!…………でさー、うちの隣に住む栄子の幼馴染がデカいのよー。私よりは小さいけど、その子がデカいのよー」
「立ち直り早いな……つうか、今の時代、大きければ良いなんて言う奴はアンタ位なもんじゃないの?」
「貧乳が巨乳を語っても虚しいだけだわね~。ギャハハハ」
「クソッ! まだ言うかっ。だいたい、胸の大きさで人生が決まる訳じゃないでしょうが」
「でも、若い時の人生は大きい小さいで主役か端役になる可能性は大きいわ~。ぷ~クスクス」
「だって総務課の荒川さんなんてマジで胸ないけどさ、どっかの社長の息子と結婚が決まったって言ってたわよ?」
「う~ん。まあ、荒川さんは男ウケする様な顔だからな~。おっぱいの無さを顔で補ったって所だろ~」
「いやいや、あんたマジで酷い事を言うな。本心がだだ漏れだぞ? 結構、性格は良い娘だって皆言ってたよ?」
「その社長の息子に本心を聞いてみれば一番早いんだけどね~」
「いや、万が一にも顔で選んだなんて言う訳ないだろうけどね……」
「男は顔か胸かスタイルで選ぶもんだよ~ん」
風子は機嫌良くジョッキを一気に煽った。
「でも実際のところ胸肉に拘る男も少ないと思うけどね~」
「胸肉言うなーっ! ギャハハハー」
「だいたい、そういう風子に男の影が露ほどにも見えないのは何故かしらね?」
「あーっ! ツルペタ鶴子ちゃんっ! 言ってはイケナイ事を言ったーっ!」
風子は瞬時にしかめっ面になった。
「人の事をさんざんツルペタとか言っている奴が言うなっ!」
「ぷっ、こりゃ失礼っ! ギャハハハー」
風子はおどけるように答え、大口を開けて高笑いした。そんな同性同級同僚との楽しい一時を居酒屋で過ごした後、2人は帰路についた。
千鳥足になりながらも何とか自宅へと戻った風子は、酔った状態も手伝ってか自分の部屋で無く、隣りの妹の部屋へと忍び入った。
忍び入った部屋の中、ベッドの上にはスヤスヤと眠る妹の栄子の姿があった。良い夢でも見ているのだろうか笑顔で寝ていた。風子はベッドの傍までそっと忍び寄り、おもむろに栄子の胸に手をあてた。
「ウッ……」
瞬間、風子の目に涙がブワっと溢れ出した。そこにはとても小さく、存在を確認できない妹の胸が存在した。
「私の半分でも良いからあなたにおっぱいを渡す事が出来ればどれだけ良いか……栄子、あなたはきっと幸せになれるからね……ウッ」
風子は溢れだす哀しみの涙を抑えきれなかった。嗚咽が漏れ聞こえない様に手で口を押さえ、溢れ出る涙はそのままに部屋をそっと出ていくと、隣の自分の部屋へと戻り早々に眠りについた。
そんな真夜中の姉の奇行に栄子は一切気づいていなかった。まさか自分が寝ている間に姉がそんな行動を取っているとは夢にも思わない。今の行動はともかく、妹思いの良い姉であるというのが、栄子の姉に対する印象であった。
まさしく夢の中であった栄子。夢の中では目が覚めたら巨乳になっていたという夢を見ていた。全ての服が着れずに学校に遅刻する夢。無理に着たは良いが全て破けてしまい焦っている夢。巨乳の悩み、大変さを知る。そんな夢を見ていた。
それから数週間後、思いも寄らぬ一報が風子の耳に届いた。それは風子にとって青天の霹靂、雷が落ちたような衝撃でもあった。
『ちょっと皆さーん、仕事の手を休めて聞いて下さい。なんと、我が課の細見鶴子さんが、沖縄で事業を営む青年実業家の方と結婚する事が決まりましたー』
風子と鶴子が働く会社のフロアで、風子達の上司である中年の男性課長が声を大にして言った。主役たる鶴子はというと、課長の隣りに立ち、照れくさそうに下を向いていた。
その課長の言葉に、机に向かっていた同僚達が一斉に立ち上がると同時に、「おめでとう」という言葉が飛び交い始め、皆が拍手で鶴子を祝った。
「なっ……そんな……まさか……」
風子は自分の耳で聞いた言葉に驚愕して言葉が出ない。拍手は勿論、「おめでとう」などの言葉も口から出ない。同僚たちは直ぐに椅子から立ち上がって祝ったが、風子は衝撃の余り立ち上がる事も出来ず椅子に座ったまま、目は大きく見開き口は半開きに、たただた鶴子と同僚達のそんな一幕を見つめる事しか出来なかった。そんな風子と鶴子の距離は実質的には数メートルしか無かったが、とてつもなく鶴子を遠くに感じていた。
一通り同僚達からのお祝いが終わり皆が仕事へと戻ると、風子は鶴子の手を引っ張り廊下へと連れ出した。
「ちょ、鶴子! 何で結婚の事、黙ってたのよっ!」
「いや、照れくさいってのもあったし、正式に決まったのは先週の事だったし、そしたら、あれよあれよって感じで色々と事が進んじゃってね。だから再来月には沖縄へ引っ越す事になっちゃってさ。それで今日、急いで課長に報告したって感じなんだけどね」
鶴子は少し照れくさそうにしていた。気のせいか肌ツヤが良く見えた。まるで剥き立てのゆで卵のよう、否、まだ日焼けしたままの小麦色の肌とあって、煮卵の様だなと風子は思った。
鶴子が得た『寿退社』という称号。一部の女性に取っては憧れの言葉。同僚女性に対して勝利を思わせる言葉。既婚未婚を問うのは既にセクハラの時代であってもそうそう人の意識は変わらない。そんな称号をまだまだ小麦色に焼けた肌の「貧乳の南国少年」と思っていた鶴子が得た。まるで『祝! 寿退社!』とでも書いてある襷を鶴子が掛けているようにすら見えた。風子はサーッと血の気が引く気がして一瞬意識を失いかけた。
何故なんだ。何ゆえに貧乳の鶴子が『寿退社』という称号を得るのだ。私は負けたのか?
そんな言葉が風子の頭の中でループし続ける。
「まあ、風子もいずれ良い人が現れるよ」
笑顔の鶴子はそう言って、気落ちした様子に見えた風子の肩をポンッポンッと軽く叩いた。その笑顔は勝者の笑顔で、風子には自分を嘲笑うかのように見えた。
『私の勝ちね』『あなたの負けよ』『それじゃあ、お先に♪』と、鶴子の笑顔が語っている。そう風子は思った。それでもまだ風子には一縷の望みがあった。
もしかしたら諸々の意味で、鶴子の選んだ男がとんでもない男の可能性がある。今までの鶴子で有れば見向きもしない様な男かも知れない。あくまでも、諸々の事情で焦りを感じた鶴子が人生を諦めた末に選んだ男かも知れない。青年実業家と言っても色々ある。きっとそうだ、そうに違いない。
そう風子は頭の中で言葉を巡らした末、鶴子に対して「ねえ、その結婚する相手の写真とか無いの?」と聞いた。あくまでも『おめでとう』という気持ちを装って。
対して鶴子は「ああ、あるよ」と、軽く返事をすると携帯電話をいじりだした。そして、風子の顔に当たるのではないかという勢いで以って、携帯電話の画面を風子の顔前へと提示した。その動きはまさに見せびらかすかの如く、優勝旗を見せるかの如くといった動きであった。
その鶴子の動きに一瞬気圧されたが「負けてたまるか!」と、風子は見せられた携帯電話の画面を凝視した。
鶴子の携帯電話の画面には、海をバックにした鶴子の写真が表示されていた。その鶴子の隣には、輝く様な白い歯でニコっと笑った笑顔も可愛い、良い感じに日焼けしたチョーイケメンの爽やか好青年が映っていた。その好青年は見ているだけでも暑そうな中、鶴子を抱き寄せるようにして肩に手を回していた。オレンジ色のワンピース水着を着た鶴子は明らかにツルペタであったが、そんな貧乳の事など大した事では無いとでも言うようにして、溢れんばかりの笑みを湛えていた。
風子は血の気が引く気がして一瞬フラつきそうになった。が、そこは耐えた。そして、完全なる敗北を認めた。いや、認めざるを得なかった。今の風子の中には「刀折れ、矢尽き、そこにおっぱいだけが残った」と、そんな言葉が駆け巡っていた。
その日、風子と鶴子が勤務する会社のフロアは、鶴子のお祝いムード一色といった様相を呈していた。そしてその日の退社後、同僚らでまずは軽いお祝いをと言う事で、簡単な飲み会が催される事になったが、風子は体調が悪いと言って断り、まっすぐ帰宅した。
気付けば風子は帰宅していた。会社からの道中、電車に乗った事すら覚えていない。駅から自宅まで歩いていた事も覚えていない。ぬけがら。無心。魂がどこかで遊弋している。風子の肉体のみが帰宅したと、そんな様子であった。
風子は母親が用意してくれた夕食を、ただただ機械的に箸で摘んでは口に入れていた。夕食を囲むテーブルには母親と妹もいた。風子の耳には母親と妹の楽しげな会話がとても遠くに聞こえていた。母親も妹も風子に対して話掛けようとしたが、目は虚ろ、心ここに在らずといった風子の様子に、会社で何かショックな事でもあったのだろうかと、気を遣うつもりで話しかけないようにした。
そして風子は夕食を食べたという意識がないままに、機械的に日常ルーチンをこなすかのようにして風呂に入り、パジャマに着替え、早々にベッドの中へと潜り込んだ。
風子の輝きを失った眼が、天井をジッと見つめていた。そしてようやく風子の体に魂が戻ってきたようにして、ハッとした。いつのまにか帰宅しベッドで寝ている事に自分でも驚いた。昼間、会社において鶴子と会話した後からの記憶が無く、その時の事がとても昔に思えていた。
溜息ひとつ。天井を見つめながら風子は思う。
薄々は気付いていた。自分の胸の大きさは、世界を見渡せば埋没してしまうほどに大した事は無い。だが社内に限れば1,2を争う大きさである。しかしその社内において自分が1,2を争う人気者であるかと問われれば決してそんな事はない。実際には酒の席くらいでしか巨乳と呼ばれるその大きな脂肪の塊は有用では無い。それか、鶴子のように小さい同性に対する優越感しか生みはしなかった。
その優越感はすさまじい程の物であった事は事実だが、あくまでも一時的な物にしか過ぎない。それを以ってして一時的にチヤホヤされる事はあっても、人生において生かせる場面は少ない。いったい自分のこの巨乳は何の役に立つのだろうか……。
風子の中のもう1人の自分が問いかけた。
『あなたの巨乳は誰のもの?』
そんな自分の中の自分の問い掛けに風子は答える。
「この巨乳は誰の物でも無い。私の物だ」
『あなたの巨乳は何の為に存在するの?』
「何のって……。そんなの分かんないよ……」
『あなたの巨乳は誰の為に存在するの?』
「誰の為なんて……」
『その巨乳は虚像と思ったことは無いの?』
「そんな事、思ったこと無いよっ! 現に巨乳はここにある!」
『あなたの巨乳は虚乳なんじゃないの?』
「違うっ! 私の巨乳は素晴らしく偉大なはずだ!」
『いつの日か垂れていく巨乳が本当は怖いんじゃないの?』
「そんなの思ってないよっ! みんながみんな垂れるなんて決まって無い! そう、私は垂れない!」
『本当は貧乳が羨ましいんじゃないの?』
「そんな事は無いっ! 苦しい時もあったけど、ずっとこの巨乳と一緒だったんだ!」
『貧乳になりたいと思わないの?』
「そんな事、思った事ないよ!』
『本当は憧れていたんじゃないの?』
「違うっ! 違う違う違うっ! そんなはずないっ!」
『あなたの巨乳は貧乳に負けたんじゃないの?』
「違う違うっ! 負けた訳じゃないっ!」
『貧乳の幸せを見ても、あなたの巨乳が必要と言えるの?』
「必要かどうかなんて分かんないよ。それでも……」
『それでも? なに?』
「……」
『あなたの巨乳は誰かを幸せにする事が出来るの?』
「そ、そんな事……そんな事、分かんないよ!」
『それでもあなたは巨乳であり続けるの?』
「……そう……この巨乳は私そのものであり、私は今後も巨乳であり続ける」
『そう? じゃあ、私はあなたの巨乳の行く末を最後まで見守っているわ』
「……うん。ありがとう」
そんな自分の中のもう1人の自分との自問自答。だがようやく風子はおっぱいの大小と幸せは比例しない、直結しないのだという事を悟った。だがそれを素直に認めたくは無いという風子の中で葛藤が続く。
風子の目には自然と涙が溢れだした。自分でも何の理由で泣いているのか分からないが、何故だか悲しい。そして風子は流れる涙をそのままに、いつしか眠ってしまった。
翌朝は窓からの日差しで起こされた。風子はベッドの上で寝たままに、顔を横へと向けた。その視線の先には赤くて丸いファンシーな目覚まし時計があった。ベッド脇の小さい丸テーブルの上に置かれた目覚まし時計。寝ぼけ眼で見るその時計の針は、風子があと30分程は寝てても良い時間を指していた。
「あ~あ……なんかダリぃなぁ……会社休んじゃおうかなぁ……」
そんな独り言を口にすると、風子はそっと目を閉じた。
ピッピッ……ピピッピピッピピッ……ピピピピピピピピピピ――――
今度は目覚まし時計により起こされた。風子は気だるそうにしてベッド脇へと手を伸ばし、目を瞑ったままに手探りで以って、目覚まし時計を止めた。
自然と目が開いた。その視線の先には目覚まし時計。寝ぼけ眼のままに針の位置を確認すると、目覚ましが鳴ったであろうその時刻から、既に30分程が経過したその位置に、長針はいた。
「……………………うぉぉぉぉぉぉっ!」
風子はそう叫ぶと共に布団を蹴飛ばし、勢いそのままにベッドから跳ね起きた。と、そこでフラっとよろけた。何故だか体が重い。それは大きい胸の所為かと一瞬思ったが、その重さとは異なる重さ。特に熱も無さそうだし何処か体調が悪い訳でも無い。おまけに昨晩は一滴も飲んでいないアルコールが回っているかのようで、頭もスッキリしない。
「はぁぁぁ……かといって会社を休むのはなぁ……」
部屋の中、1人俯きそんなため息を1つ。風子は荷物を背負ってるかの如くおもむろに部屋を出ると、1階の洗面所へと向かった。
昨晩、風子は泣き続けた。寝ている間も泣き続け、その枕は涙で濡れていた。洗面所の鏡には、そんな女の成れの果てが映っていた。目は赤く腫れ上がり、顔全体が浮腫んでいる女。年齢不相応に疲れ果てた女の顔が、そこに映っていた。
目線を少し下にずらすと、そこにはパジャマ姿でもハッキリと分かる巨乳があった。昨日までの自分であったなら、その巨乳に自分でも目を奪われていた。それほどに大きい存在。だが実体は大きくとも、心象としては貧乳に見えた。それ程迄に、昨日の鶴子の結婚報告は衝撃的な事であった。
風子はそっと目を瞑り天を仰いだ。そして息を吐きながらに下を向き、全て吐き終えるとゆっくり目を開け、再び鏡に視線を戻した。先程迄の虚ろだった眼とは異なり、その時の風子の目には輝きが戻っていた。それはあたかも何かを決意したかのようにも見えた。
念入りな洗顔をし終えると、急ぎ自分の部屋へと戻り着替えを済ませ、浮腫みを消すつもりで急ぎながらも念入りな化粧を施す。それらを終えると駆け足で以って、一階のダイニングへと向かった。
ダイニングテーブルの上には既に朝食が用意されていた。母親の手により用意されていたその朝食。2枚の焼いた食パンの間にはベーコンの入った目玉焼き、それとレタスが挟まれていた。世間のそれとは若干異なるが、大良家ではそれを「目玉焼きサンド」と呼び、1杯の牛乳をお供に朝食の定番となっていた。それらの朝食を息もつかぬ程の勢いで以って口の中へと詰め込むと、咀嚼も終わらぬままに席を立ち、そのまま玄関へと急いだ。
「ひっへひはーふ」
咀嚼を続けながらも自宅を後に、風子は駅へと向かって歩き始めた。走りたいのはやまやまであったが、今走ると胃から何かが出てきてしまう為にギリギリの速さで以って、同じ駅へと向かうであろう人の波に紛れ込む。そんな中、風子は進行方向を見据えながらも考える。
――――無用かも知れない。無駄な物なのかも知れない。只の重荷なのかもしれない。誰の為にもならないのかも知れない。もしかしたら垂れてしまうのかもしれない。だがそれでも一生付き合っていく。そう、私の一部でもあるこの巨乳。
風子は何気なく足を止め、その場に立ち尽くした。そしておもむろに自分の胸元へと視線を落とした。周囲の見知らぬ人達はそんな風子を一瞥しながら追い越してゆく。
「よろしくな。相棒」
2つの山に向かってそう呟いたその瞬間、そよ風がその巨乳をくすぐった。不思議なその風に風子は軽い笑みを浮かべ、おもむろに顔を上げると再び駅へと向かって歩みだした。それに合わせるかのようにして、タプンタプンと左右交互に上下へと、巨乳が揺れ始めた。
『こちらこそよろしくね♪』
ふと巨乳がそんな事を言った気がした。
「はは、空耳だな」
そう小さく呟きつつも、風子は思った。これからも一緒だと、いつも一緒だと、お前達は生涯を共にするパートナーなのだと。そう思っている内、風子はあたかも自分は一人では無いという不思議な感覚に囚われ始めていた。その感覚は勇気にも似た「大らかな気持ち」といったものを、風子に与え始めた。
『会社に就いたら鶴子に言おう。結婚おめでとうと、心をこめて言おう』
今日という新しい1日が始まったと同時に、風子の中で何かが始まった。果てしない未来へと続く、風子の1日が始まった。
2020年08月28日 5版 誤字訂正他
2020年03月03日 4版 誤字修正、句読点捨て過ぎた
2019年11月14日 3版 句読点が多すぎた
2019年07月30日 2版 誤字含む諸々改稿
2019年06月11日 初版