第9章 出会いの中で
「時効不成立」 10
第9章 出会いの中で
ハンガリーが二〇〇四年に、EU加盟を果たすと同時に開店したブダペストの「セープ寿司」は、板前店長の菊田正春が頑張っていた。
それから三年が過ぎた二〇〇七年の八月、狭間良孝は日本を出て十七年振りに初めて、ホリディーらしいサマーホリディーを四十五日間取った。
「飽きるほど飛行機に乗りましたが、観光らしい事がなかったので、二か月ばかりヨーロッパを観光したい」と狭間が朱美に言うと、一か月にして欲しい、と言われ、それじゃ四十五日、という事で落ち着いた。
「仕方ないわね、頑張ってくれている事でもあるし、それに、還暦でしょ、今年」と参碁朱美は言って、そのお祝いも兼ねて、八月一日から九月十四日までに決った。
この時期はヨーロッパに、観光客は押し寄せるが、日本レストランは比較的暇な時期だった。
日本へも帰るのか、と参碁朱美に聞かれたが、分からないとだけ、狭間良孝は言った。
臀部の張った短足安定型の狭間良孝は、車でヨーロッパを回ってみたい。と言う衝動にかられ、中古のメルセデス・ベンツを買った。
その日の夕方になって、シミジミと車を撫でていると、携帯電話がなったので、狭間は、朱美かと思い覗くと、違っていた。
「もしもし、クシィーバです。私、行きたいけど、いいかしら」と言うものだった。
クシィーバは、菊田から話を聞いたと言う。
ホリディーに入る前、菊田と飲んで、ほんの冗談のつもりで、誰か相棒がいると楽しいけどなぁ、と狭間が言った事を菊田が店で言ったらしかった。
仕事はどうするんだと聞くと、楽しくないから止めると言うこにした、と言う。
何処でも、時給社員の出入りは激しく、狭間も、驚くには値しなかったが、後ろめたさを感じた。
二人で旅行しようとしたが、クシィーバの身元がハンガリーではなく、ロシアからの亡命滞在だった事から、国外に出る事が出来ない事が解った。
二人は急速な接近に、ためらう事もなく、国内旅行を楽しむことにした。
八月の建国記念花火大会がドナウ川で例年のように行われ、もうすぐ狭間の、ホリディーも終わろうとしていた。
この時、狭間は、自分の年齢、老後と言う事を視野に入れてみた。
そして、自分が戻れる巣のないことに、いまさらながら顔が曇った。
予算に問題はないが、言葉ができない事で、家を購入するにも、困難な事が解ると、クシィーバに相談してみた。
すると、彼女は住所不定だと語りだし、金はあるから、共同で家を買わないかと、言い出した。
小さいながらも購入し、イザ生活してみると、クシィーバは、これからは私が働くから、狭間はもっと好きなことをやれ、と言い出した。
九月にはいると、狭間は朱美に電話を入れた。
各国にある店には、日本人が居る、経営に対する信頼感も築け、狭間は、自分がいなくとも充分やっていけると思った。
そのことを朱美に言うと、以外にあっさりとわかってくれるのだった。
狭間良孝は参碁朱美が、ハンガリーに来ると、今後の事を話し合い、昔の知人と道で会い、お茶を飲み、分かれる、そんな感じを狭間は持った。
クリスマスが終わり、新年になると、参碁朱美から、五千ポンドの振込みが来た。
退職金とも、お祝いとも、とにかく肝とだと言うのだった。
外は、頭の真に錐を刺さされる様な極寒に、見事な樹氷が視界を飾った。
狭間は、これからの夢を描いてみたが、心のどこかには、黒い錘を感じないわけにはいかなかった。
日本と同じ極寒の二月、庭木さえも樹氷になるのだった。
リョウとクシィーバはそれに見とれ、もうすぐ春だね、と言い合った。
やがてスモモやアンズ、桃や桜の固い蕾が見える頃、それは、ブダペストのブダ側に新しく出来た日本レストラン「琵琶湖」での事だった。
「ねェ、リョウ、どうしてリョウなの?」とクシィーバが、狭間に聞いた。
彼は、今更のような気がしたが、聞かれてみると、その訳を話した事がなかった事に気が付いた。
ハンガリーがEUに加盟し、シェンゲン協定に加盟し、いよいよヨーロッパの仲間入りを具体的に果たし、クシィーバと狭間は、国境がなくなったのだから、旅に出ようか、と言う話は出たが、遂に流れていた。
人も、物量も大きな動きを見せ、新しいレストランも増えていた。クシィーバと狭間は、珍しく最近新しく出来た「琵琶湖」レストランに入っていた。
二人は寿司カウンターの近くの、テーブルに着いた。
長い大きなカウンターの中には、日本人ではない東洋人の顔をした板前が二人、退屈そうに仕事をしていた。
昼過ぎというせいもあるのだが、ガランとしたカウンターに、紺の背広をきちんと着こなした日本人らしい客が一人だけ居た。
二人は、窓際という事もあって、その客の丁度後ろのテーブルだった。
参碁朱美の五軒目の「セープ寿司」が出来る前まで、ハンガリーに四軒あった寿司の店の全てが、経営者は日本人で、日本風な作りの店だったが、今では十一軒になっていた。
店の作りもかなりバラエティに富んできていた。
何より、経営者の国籍がその文化を反映している事だった。
そして、東京、大阪、富士、桜と日本名を上げた看板の店内は、韓国、中国、ハンガリー色だった。
これは何もハンガリーに限った事ではなく、イギリス、フランス、イタリアそしてオーストリアに行っても、何処の国の日本レストランも同じようなものだった。
俳画の紫陽花が、経営者の感覚なのか、逆に掛かっている事も珍しくはなかった。
洋風の店内のそこここに、日本人形や扇子、達磨のオモチャ、花札さいころなどを、置けばいいというように、やたらと、しかも雑然と置いている店もある。
日の丸や写楽のコピーを壁に張り、仏像を置き、パイプ椅子の店さえあった。
ポリシーが有るのか無いのか、国際的なのか、視覚には雑然さだけが飛び込んでくる。
日本人の高度な製作能力や優秀な技術の高さを、彼らは猿真似と言って笑うが、彼らのやり方は、猿真似以下で、中身が空っぽ盗み取りだ。と、狭間良孝はいつも思っている。
今も、この店内を見渡し、そう思った。
立派な黒松の鉢植えだなと思って近くで見ると、それは模造品だった。
「良孝の良、リョウっても読めるんだ」と狭間はクシィーバに向き直っていった。
「ずいぶんややこしいの、フーン」と、クシィーバは頷いた。
この話に、カウンターの客が感電したように頭をピクンと上げた。
「トイレ、どこですか?」とカウンターの客は、目の前の板前に声を掛け、教えられた方向を見ると、カウンター席から降りた。
この時客は、狭間と視線が合ったが、まったくの一瞬という事もあるのか、何の感情も、互いに受けなかった。
狭間は、単に、矢張り日本人だった、としか思わなかった。
狭間とクシィーバは言葉について話をしていた。
「知らないほうが幸せな事だって、一杯有るよ」と狭間が言った。
「言える、聞かなきゃよかった事がある」とクシィーバは言って、少し俯いた。
「どんな事?」
「リョウの年齢」
「そうだね、三十五も違うんだから、気にするのが当たり前だね」と狭間が言った時、斜め後ろに視線を感じた。
狭間は、座り直す振りをして、その先を目の端に捕らえた。
さっきトイレに立ったカウンターの客が、立ち止まってハンカチーフを使っていたようだったが、狭間が動くと同時に、歩き出したようだった。
客は、そのままカウンターに戻り、何か注文したようだった。
「絶対に長生きしてよ」とクシィーバが無邪気に言った。
「いつかも言ったけど、それだけは分からない、死ぬのは、歳に関係なく必ずあるんだしね」と狭間は言いながら、カウンターの客の背を眺めた。
後ろに目が有るのか、と言う事を、勘のいい人に言う事があるが、狭間良孝はその客の背に、耳があるような気がした。
客は、何かを食べる為に手を動かしているのだが、椅子に背凭れるとか、腰の位置や座り具合を直すとか、あってもよさそうなものだが、それもなく、まったく背は動かなかった。
「俺にかまわず、いい人が居たら、そっちへ行っても良いよ。クシィーバの幸せは、俺の幸せなんだからね」
「そんな事言って、病気になったらどうする?」
「その時は救急車で行くさ。その時は知らせるから、ね」
「いやだよ、そんな事言って、私を嫌いになったのか」とクシィーバは、涙ぐんだ。
「大丈夫だよクシィーバ。誰かと幸せに暮らす事が出来るようになれば、クシィーバがまったく知らない内にそうなるから」と狭間は言って、ふと一人遊びの昔が浮かび、この子がそうなるのは、無理かもしれない。厭世的かな。ふとそう思った。
「私は寂しいけど、リョウは寂しくないのか?」
「寂しくない人間なんて、居ないさ」
「リョウはそれで良いかもしれないけど、私はどうするの」
「だから、もしいい人を見つけたら、好きにして良いっていうんだよ」
「そんな事言わないって約束して、私、最後までリョウの傍に居る」
「いや、こんな良い人に巡り会えたって、言ってきて欲しい。そうすると、俺、安心だからね」と狭間が言っている間も、カウンターの客は、ピクリとも動かなかった。
なんだろう、誰だろう、どうしたんだろう俺。と狭間は気になった。
「リョウ、帰ろうよ」とクシィーバが言った。
「ん、でももう少し居ようよ。後で、店の人に聞きたい事があるから」と狭間は、クシィーバへというより、カウンターの客にでも言うように言った。
狭間は、飲み物の追加を頼もうと、店のものを呼んだ。
「彼はいつも来る人ですか?」と英語で狭間は、カウンターの客に目配せして言った。
「ここ四・五日前から、昼と夜、毎日来ます」
「仕事のようですか?」
「いえ、観光という事でした」
「そう、ありがとう、あ、ジュース二つ、お願いします」
狭間は、「彼はいつも来る人ですか?」だけ、客に聞こえよがしに言った。
狭間とクシィーバはジュースを飲み終わると、店を出た。
メルセデスに乗ってから、もう一度、狭間は店を振り返った。
冬時間の外は暗くなりかけ、気が付かなかったが、やけに店の中が明るく見えた。
「どうしたのリョウ、なんか変だよ」とクシィーバは言って店を振り返った。
その時、クシィーバの携帯が鳴った。
いつもの事だった。
「リョウ、後一時間で、事務所へ行く」
「ああ」
狭間良孝にとって、都合がよかった。
どうせクシィーバは、行けば最低でも四時間は戻ってこない。
「送って行くよ」と言って狭間が時計を見ると、既に四時に近かった。
あの客に会ってみたい。誰だろう。昼夜と来るらしいが、今日の夜も来るだろうか。
既にこの時間だが。
いや、会うべき人なら、必ず来る、狭間はそう思った。
クシィーバを送り届け、「琵琶湖」に引き返えそうと思い、六時に行った。
「琵琶湖」の明るい店内を外から見ると、中には、数組の客が居た。
カウンター席に客は居なく、板前がぼんやり柱を背に立っている。
狭間は矢張り来ないかなと思ったが、待ってみることにした。
店に入ると、まっすぐにカウンター席に行った。
たどたどしい日本語で、ウエイトレスがメニューを持ってきたが、これといった食欲もなく、ミネラルウオーターを頼んだ。
その水が来る前に、あの客は、狭間を追う様に間もなく入って来た。
入り口に客の気配を感じ、狭間がカウンターから視線をやった。
入り口に立った客と一瞬目が合い、そのまま動けなくなった。
その客も同じだった。
客と狭間良孝の視線は、引き合うように縮まり、客は狭間の横に立った。
どこか緊張感が漂う二人の様子に、目の前の板前までが、唖然として声を掛けそこなっていた。
「山ノ神」と客は、小さく言った。
その声に、狭間は、ガタリと椅子から跳ね下りた。
自分をそう呼ぶのは、この世で鈴城広州しかいない。
「コンペ・・・?」と狭間が言うのがやっとで、後は声にならなかった。
驚き過ぎると、表情がなくなると言うが、今の狭間がそれであった。
コンペとは、狭間良孝が鈴城広州を、昔そう呼んでいた名前だった。
そこに水が運ばれて来たが、鈴城広州は少し歩かないか、と狭間良孝を外に誘った。