1.戦いの準備は出来た
――バレンタイン、それは乙女の聖戦。
バレンタイン、それは男にとっては審判の時――
――とある永世中立観測者の走り書きより――
二月十四日――この日は週の真ん中、平日である。
高校一年生である弟・和輝と、雇用主の子供である小学生・ソラをいつも通りそれぞれの学校に送り出すと、灯之崎 蔵之介――通称“クララ”は張り切った様相で艶やかな着物の袖をまくり上げた。
露わになった筋骨隆々な腕には似つかわしくない、可愛らしい握りこぶしをつくって見せると小走りに店の厨房へと駆け込んで行く。
「――さて、急いで仕上げないと!」
彼……いや、彼女(?)はここ、來葉堂――骨董品が店の一画を飾る一風変わった喫茶店で働く自称・大和撫子だ。
だが、その風貌は大和撫子と言うには失礼極まりない……と言うかそもそも、“時代錯誤”と呼ぶのが正しいのか非常にアンバランスなのであった。
ピンクに染めた髪の毛は耳より高い位置で二つにまとめ、チャーミングさを演出している(つもり)
艶やかな着物姿であってもそこはかとなく存在感を示す筋骨隆々な肉体、健康的な褐色の肌――そして、その肌色を無理やり覆い隠す白塗り麻呂眉の不可思議ファッション……
その姿を見たものは……皆、口をそろえてこう呼ぶのだ。
「白い妖怪」と――
だが、そんな評判など意に介さず、当人は乙女ライフを満喫していた。
クララはいそいそと厨房の奥にある冷蔵庫の扉を開け、冷やしていた“何か”を慎重に取り出す。
銀色のトレイに几帳面に並べられた物――それは、お手製の生チョコとフォンダンショコラ。
「さて、後は飾り付けてラッピングして……」
客一人居ない静かな店内にクララの独り言は良く響く。
どうも相当な量を準備していたらしい。こじんまりとした冷蔵庫の中からは目を疑うほど沢山のトレイが運び出されていく。
やがてテーブルいっぱいに甘い匂いを充満させると、クララは満足そうにハートマークの紅が彩る口元に笑みを浮かべた。
粉砂糖をまぶしたフォンダンショコラと、ココアパウダーをまぶした生チョコ。
白と黒のコントラストが美しいお菓子達を一つ一つ丁寧に小箱に詰めていく。
クララはあまり自画自賛する性格ではないのだが……それでも自身を褒め称えたくなるほど可愛らしい出来栄えに、自然と鼻歌が零れ始めていた。
「――クララちゃん、ごはん……って、何これ……」
ふわふわと上機嫌であったクララは厨房にやってきていた青年の気配に気付かなかった様子で、すぐ真後ろで聞こえた涼しげな声に驚き、野太い悲鳴を一つ上げる。
手元が狂い、大事なお菓子を落としそうになったが……悲劇はすんでのところで免れた。
「あああああらやだ八雲さん、今日は早起きね」
「いや、いつも通りなんだけど」
青年――春宮 八雲は怪訝そうに赤い瞳を細め、クララが咄嗟に隠した小箱を覗き込む。
彼は來葉堂の若き店主、つまりクララの雇用主。
糸のように細く白い髪の毛、長い前髪が隠しても尚存在を示す、炎のような紅い瞳――
儚くも妖しい美しさを持った青年だ。
「もしかして、それ……まさかのバレンタイン――」
八雲はふと、思い出したように厨房に掲げられた時計を見上げる。
時の流れから取り残されたかのような和風な店内とは真逆のデジタル時計には少し低めの気温と、日付――「2月14日:Wed」が表示されていた。
「んもー! あとでサプライズしようかなって思ったのに! 八雲さんたら鈍感! 女心分かってない!」
「いや、そもそもあんた男だろ」という八雲のごもっともなツッコミを無視したまま、クララは仁王立ちで頬を膨らませると、腕を組みなおし着物の袖をまくり直す。
その、惜しみなく披露される逞しすぎる腕を目の当たりにした八雲は、非常に痛いともっぱらの評判である伝家の宝刀――“デコピン”されてしまう展開ではないか、と血管が透けてみるほどに白い自身の両手でおでこを守った。
……が、クララの反応は少し違った。
「……はい、これ八雲さんの分。か、勘違いしないで欲しいんだぞ! ただの義理なんだからっ!」
少しの間もじもじと巨体を揺すっていたクララは、恥ずかしそうに息をつくとテーブルの隅に隠していた小箱を押しつけるように渡す。
仄かに赤らむ頬は、まるでおかめのよう。
「むしろ“義理”であってくださいお願いします」
その一言を呑み込むと、八雲は代わりの言葉も紡がないままに黙って小箱を受け取ったのだった。
―――
同じ頃。一貫教育校・私立明陽学園の高等部の校舎にはいつにもまして賑々しい声が響き渡る。
どうやって目当ての相手にプレゼントを渡そうか思案する女子、欲しい気持ちを表に出してしまっては負けとなる、男子達の内々の駆け引き――
彼ら高校生にとっても、バレンタインデーは一大イベントであるのだ。
――この日に限り、いつも設えられていたお弁当が準備されなかった和輝は昼休みのチャイムと同時に売店へと向かう。
そう、兄である蔵之介……クララが朝からあの調子であったが故に、お弁当はおろか朝食すら口にしていなかったのだ。
和輝は“料理がヘタ”なんて可愛い言葉で片付ける事が憚られるほどの不器用である。
当然自分で準備する事も叶わなかった。
売店がある一階に向かい階段を下っていると、ふと女子の声が和輝を呼びとめた。
「……灯之崎君!」
「えっと……こんにちは?」
あまり耳馴染みのないその声におずおずと振り向くと、後から追いかけてきていたのだろうか、重たげな足音が階段を駆け下りてくる。
ふっくらとした両腕で自らの身体を抱きしめ、もじもじと顔を赤らめるその少女は和輝の友人・梗耶のクラスメートの一人、香奈だ。
和輝は過去、二度ほど邂逅しているのだが……
顔はぼんやり記憶にとどめていても名前が思い出せなかったらしく、愛想笑いを返していた。
「これ……今日、バレンタインだから!」
「ああ、逢坂さんに? ……あれ、佐助にだっけ……?」
香奈が差し出したアニマル柄の紙袋を見つめ、和輝はこの日がバレンタインであった事、そしてクララの挙動不審の理由を悟り息をつく。
それと同時に、以前の――香奈を含む“かしましトリオ”とのひと騒動を思い出し、微笑んだ。
だが、香奈は何度も首を横に振ると、紙袋を押しだす。
「そ、そうじゃなくって! これは灯之崎君にだよ!」
「……俺に? い、いや良いよ遠慮しときます!」
「そんな事言わないで! 折角作ったから!」
「う……」
今朝のクララと同様に、彼女もまた時間を割いて準備し、何か準備したのだろう。
それを想像してしまうと無下に断る気持ちが薄れてしまい、彼女の太さに由来しない迫力に気圧された和輝は思わず紙袋を受け取ってしまっていた。
「あ、ありがとう……何かお礼は考えときます」
和輝がそう言い終わる前に、香奈は踵を返し階段を駆け上がっていく。
飼い猫・マリンを想起させる立派な足から繰り出される猛ダッシュ。
あの勢いで突進されたら、白い巨人と揶揄されるクララでさえも数メートルは吹っ飛ぶのではなかろうか――
和輝は息をのむと同時に、階段の下から見上げ続ける事も失礼かと察し売店に向かうこととしたのだった。