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第9話 踏み出す一歩

 お休みの朝。

 自宅の玄関でスニーカーの紐をきゅっと締め直した私は、さっと立ち上がると、ジーンズのお尻ポケットにぎゅっと携帯を押し込んだ。

「お母さん、ちょっと出てくるから!」

 家の奥に声を掛け、よしっと気合をいれると、私は勢い良く玄関のドアを開いた。

 今日の空模様は、雨が降る様子はなさそうだけれど、日差しを遮る薄雲が一面に広がった曇り空だった。最近天気の良い日が続いていたので今日も暑くなるのかと思っていたけれど、少し肌寒いくらいだった。

 歩いて暑くなるのを想定して、今日の私は薄手の白色のチェニックもどきのシャツに、スキニージーンズといったいたってシンプルな格好だった。

 もう一枚何か羽織った方がいいかなと思ったけれど、まぁいいかな。

 自宅前の道路に出ると、私は小走りに駿太の家に向かう。

 呼び鈴を押そうかと思ったところでタイミング良くガチャリとドアが開き、ぬっと駿太が現れた。

 時間通りだ。

「おはよ」

 私は駿太に向かって軽く頷きかける。

「おう」

 Tシャツに短パンというこちらもラフな格好の駿太が、うむっと重々しく頷いた。

 今日。

 私たちは2人で、あらかじめ相談しておいた通りアミリアさんにもう一度話を聞くべく、はるかが住んでいるあの庭園とお屋敷に向かう事になっていた。

 まず目指すのは、あの洋風庭園の入り口がある日置山の向こう側の古い住宅街だ。

 私と駿太は、並んで歩き出す。

 家を出てしばらくの間、周囲の町並みには、お休みという事もあって、路地で遊んでいる子供とか車を洗っているお父さんとか、休日独特の賑わいがあった。

 しかし駿太と学校の事とかはるかの事なんかを話しながら例の古いお屋敷が立ち並ぶ一角に入ると、そこはしんっと静まり返った、静寂に包まれていた。

 瓦の色と古い木材、燻んだ漆喰とどんよりと曇った空の組み合わせは、見ているだけでどんどんと物悲しい気分になってしまう。

 多分この辺りは、休日だろうと平日の昼下がりだろうと、変わらずこのままの風景が広がっているのだろう。

 だんだんと私たちは、口を閉ざして黙々と歩くだけになっていた。

 普通、誰かと2人きりになって会話が途切れてしまえば気まずい空気になってしまうものだけど、小さい頃から一緒にいるのが当たり前の駿太には、もちろんそんなものは感じない。

 私はぱたぱたとジーンズのお尻を叩きながら、駿太の隣をのんびりと歩く。

 人気のない周囲をなんとなく見回す。

 あの庭の入り口は、もう少し先かな……。

 ふと私は、隣からの視線を感じる。

 そちらを見ると、駿太が微笑を浮かべてこちらを見ていた。

「……何」

「いや」

 私が睨み付けると、駿太は軽く首を振る。

「こう、難しいな事をじっと考え込んでる奈々子も奈々子らしなと思うが、こういう行動的なところも、昔の奈々子が戻って来たみたいだなって思ってな」

 何だか嬉しそうに笑う駿太。

 駿太は私から目を逸らし、前方へと視線を向ける。

 ……奈々子奈々子と、あまり人の名前を連呼しないで欲しい。

 駿太も、女子の名前を気軽に呼びつけるのに、抵抗はないのだろうか。

 まぁ私たちの間には、そんな恥じらいはとっくにないのかも知れないけれど。

「あの屋敷に行くの、声を掛けてくれてありがとな」

 駿太が、再びこちらを見てニッと笑う。

 私はその笑顔を横目で見て、小さく溜息を吐いた。

「……駿太は、はるかの事、本当に信じてるの?」

 駿太は遼がはるかになったという事を、素直に受け入れている様に見える。

「うーん、難しい事はわからんが、あれは遼だろ。一緒にいたらわかる。奈々子もそうだろ?」

 なっと駿太が同意を求めて来る。

 ……確かに、私もそれは認めざるを得ないのだ。

 言動とか雰囲気とか、一緒にいるとどうしても遼を感じてしまう。それは、ここしばらくはるかと付き合っていて、確かに思い知っているところなのだ。

「でも、はるかはあの見た目だからな。時々ドキっとしてしまうよな」

 困ったという風に、駿太が笑う。

「……いやらしい」

 私は半眼で駿太を睨み付け、そのがっしりした二の腕にパンチを打ち込んだ。

「でも、駿太の言う事もわかる」

 私は顎の下に手を当て、こくりと小さく頷いた。

「遼とはるかに何が起きてるのか、確認する必要があると思う。その為には、やっぱり鍵になるのは、あのアミリアさんなんだよね……」

 彼女が遼をはるかにしたというのなら……。

 私と駿太は、視線を合わせてこくりと頷きあった。

「せっかく遼が戻って来たんだ。また3人で一緒にいられる様に、出来る事はしておこう」

 駿太は1人、うむっと気合を入れている。

 そんな、明日のテストは頑張ろうみたいな簡単な話ではないと思うのだけれど……。

 でも、今はその駿太の鷹揚な感じがなんだか頼もしく思えた。

 遼や私といる時は、いつも率先して行動する遼のフォローに回っている印象が強い駿太だったけど、冷静に事態を把握し、時に私や遼を引っ張ってくれるような事もあった。何も考えていない様できちんとした気配りとか根回しが出来ていたりもして、昔からはっとさせられる事があったのだ。

 やはり、アミリアさんの所に行く話、駿太にもしてよかったなと思う。1人で行くよりも、遥かに心強い。

 ……でも。

 胸がずきりと痛む。

 遼がいなくなってから、私はそんな駿太を避け気味になっていたのだ。

 特に、明確な理由もなく、だ。

 もしはるかの事がなくて遼を失った痛みを抱いたままだったとしたら、私と駿太はそのまま大人になって、疎遠になってしまっていたかもしれない。

 そう考えると、胸がぎゅっと締め付けられるのと同時に、恐ろしくなってしまう。

「……駿太」

 ……今は2人きりだし、いいタイミングなのだから、きちんと言っておかなくては。

 私は前を向いたまま、ぎゅっと眉間に力を込めた。

「その、今までごめんね。その、避けてるみたいになって……。駿太は、何も悪くないのに」

 私は僅かに視線を伏せる。

 これまでの私の態度は、今になって思えば子供じみた八つ当たりみたいなものだったと思う。

 私は、駿太が何か反応してくれるのをじっと待った。

「あ、いや、そうだったのか。最近奈々子、機嫌悪いなとは思ってたが……」

 しばらく間を空けてから、駿太が呟く様に漏らした感想はそんな言葉だった。

「いきなり謝るから何事かと思ったが、はは、奈々子がおっかないのはいつもの事じゃないか」

 少し驚いた表情から一転して、駿太が横目で私を見ながらニヤリと悪戯っぽい笑みを浮かべた。

「……それじゃ私、いつも怒ってるみたいじゃない」

 私は駿太を睨みあげながら、唇を尖らせてそう言い返す。

 しかし僅かに睨み合った後、私はふっと吹き出す様に笑ってしまった。駿太も、私の顔を見て笑う。

「まぁ、俺たちも色々あったからな。奈々子が気にする事じゃない」

 駿太はその大きな手をぐわっと上げると、がしがしと私の肩を叩いた。 

 ……痛い。

 その手をばしっと押し戻し、私は駿太から距離を取った。

 駿太は、あからさまにがっかりした様に肩を落とす。

「……ごめんね」

 私は小さな声でもう一度そう謝ると、ふっと息を吐いた。

 立ち止まる。

 気分を変える為に一瞬目を瞑ってから、私は改めてあの庭園への入り口を探すために、腰に手を当てて周囲の住宅街を見回した。

 今日の目的は、アミリアさんに会う事なのだ。そちらを疎かにしては意味がない。

 前にはるかに案内してもらった路地は、確かこの辺りの筈だと思うのだけれど……。

 前回来た時はもう既に暗かったので、周囲がきちんと確認出来なかったのだ。明るい時に来てみると、記憶の中と結構印象が違っていた。

「こっちじゃないか」

 私と同じ様に周囲を見回していた駿太が、大きなお屋敷の塀の向こうを指差して駆け出した。

 確かにそう言われてみると、塀の感じとかお屋敷の並びとか、枝葉を突き出した庭木の大木なんかが記憶と合致している気がする。

 私も、駿太を追い掛ける。

 路地に入ると、その先に古びたノッカーの付いた木戸があった筈なのだけれど……。

「……あれ」

 しかしその路地の奥には、何もなかった。

 舗装された道はやがて砂利敷きになり、お屋敷の向こう側にある小さな畑に繋がっているだけだった。

 蔦草のアーチとか刈り込まれた生垣とか石造りの東屋とか、あの洋風の庭園は見当たらなかった。

「入るとこ間違えたかな……」

 私は、ぽつりと呟く。

「いや、ここで合っている筈だが……」

 駿太が低い声で返事をしながら、周囲を見回していた。

 とにかくじっとしていてもしょうがない。ないものはないのだから、やはり入る路地を間違えてしまったのだろう。

「ちょっと周りを見てみようよ」

「ああ」

 私と駿太は頷き合うと、元の道へと戻った。

 それから私たちは、周囲の似た様な路地を順番に確認していった。

 しかし。

 例の裏木戸もあの庭園も全く見当たらない。

 日置山のこちら側の住宅街は、古くて広いお屋敷と土塀が続いて迷路の様になっていた。どこも同じ様な見た目の場所ばかりだった。

 でもそれでも、山の麓の一画がそれほど広い訳でもない。

 途中から二手に別れて手分けして探すことにした私たちは、直ぐに住宅街の大半を確認し終えてしまった。

 ところが、やはりはるかとアミリアさんのお屋敷は見つからない。

 ……何だかおかしい。

 捜索開始から2時間程経過して、私は1人、空き地の縁の石垣に座り込み、少し休憩する事にした。

「なんで……」

 ふうっと長く息を吐いてから、じんわりと額に滲んだ汗を拭う。

 いくら涼しいといえどもずっと歩きっぱなしでは、さすがに体が熱くなってくる。

「奈々子」

 そこに、別行動を取っていた駿太が近付いて来る。駿太は、私の太ももの上にポンとジュースのペットボトルを置いた。

「……ありがと」

 きんきんに冷えたペットボトルが心地いい。

「見つかったか?」

 難しい顔をした駿太が、周囲を見回す。

「ううん……」

 私が眉をひそめて首を振ると、駿太は眉間にしわを寄せてふんっと大きく息を吐いた。

「……いったい、どうなってるんだ?」




 それから私たちは、再び2人で一緒にあの庭の捜索を再開した。

 記憶と大きく矛盾するのはわかっているけれど、古いお屋敷の並ぶ住宅の外の地域についても捜索範囲を広げてみたりもした。

 しかし、当然ながら発見には至らなかった。

 お互い呆然としながら、さすがに今日のところは諦めて帰ろうかという雰囲気になり始める。月曜日にでももう一度はるかに話を聞いて、それからにしようか、と。

 その時。

 不意に、私の携帯が鳴った。

 確認すると、久条はるかからだった。

 もともと私たちは、今回の事をはるかには言っていなかった。はるかに話してアミリアさんに伝わってしまったら、会うのを拒否されたり身構えられてしまうかもしれないと思ったからだ。

 しかし、さすがにそんな事も言っておられず、先ほど私ははるかの携帯に連絡してみたのだけれど、その時は電源オフか圏外状態だったのだ。

 はるかからの電話は、お休みだからまた一緒に遊ぼーぜといういつもの気楽な内容だったけれど、私はその会話をやや遮る様に今からそちらのお屋敷に行きたい旨と、既にそちらの近くまで来ている筈なのに入り口が見つからない旨を早口で告げた。

 少し驚いた様な呆れた様なはるかは、少し迷った後、この古い住宅街からバス駅で3つほど離れた場所を指定して来た。

 何故そんな場所をと思ったけれど、私と駿太は取り敢えずその指示に従うしかなかった。

 はるかが言う場所は、これまでの場所とは対照的に、数年前から始まった造成が今もまだ続いている新しい住宅地だった。

 そのバス停で待っていてくれたはるかは、私たちを見つけると、嬉しそうな笑顔を浮かべながらひらひらと手を振った。 

 装飾のほとんどない白のロングスカートのワンピースに、グレーのカーディガンを羽織ったはるかは、体育の時と同じ様に髪をポニーテールにまとめていた。その髪を束ねているのも、何の飾り気もないシンプルなゴムで、品よくまとまっているけど何だかとっても地味な恰好だった。

 美人なのに、何だかもったいないと思ってしまう。

 はるかの服装は、この間私がフローレスタで見繕ったものばかりだった。

 私服でスカートを穿くのを嫌っていたはるかだったけど、ズボンを穿いているとアミリアさんにあまりいい顔をされないらしい。そこで、お屋敷にいる時に穿ける様な大人し目の丈の長いスカートを選んでおいたのだけれど、今日のコーデはその時私がアドバイスしたそのままの格好だった。

 遊びに行く前に一旦本当の家の方に寄って着替えるつもりだったとはるかは言っていたけれど、しかし今はそんな事よりも……。

「どうなってるの、はるか!」

 私は、ずいっとはるかに詰め寄った。

 もちろんそれは、あの庭やお屋敷の場所についてという意味だ。

 駿太が横から、あのお屋敷に行こうとしたけれど入り口が見つからなかったのだという状況を説明してくれる。

「うー、何て説明したらいいのかな」

 はるかは、困った様に僅かに首を傾げる。綺麗な黒髪が、はらりと揺れた。

「今日繋がっているのは、ここなんだ。えっと、取り敢えず案内するから」

 そう言うと、はるかはスカートの裾を翻して住宅地の奥に向かう坂道を登り始めた。

「えっと、信じられないと思うけど、アミリア先生の秘密の庭は、こちらの世界とはずれているというか、あの日置山の怪鳥と同じ、この世ならざるものと言うか、なんと言うか……違う場所にあるそうなんだ」

 束ねた髪をふわふわと揺らしながら、私と駿太の前を歩くはるか。

「だから、こちら側と繋がってる場所は少し空間が不安定になってて、その時々によって若干場所が変わってしまうんだ。基点が日置山だから、そこからあまり離れる事はないみたいだけど……」

 わかるかなとはるかが振り返り、私たちを見る。

 私と駿太は顔を見合わせる。

 はるかが何を言っているのか、よくわからない……。

 つまり、あのアミリアさんがいるお屋敷は、私や駿太がこの間訪れたあの場所は、異世界とか異空間とか、そういうファンタジー小説に出て来そうな場所だという事なのだろうか?

 私は、きゅっと眉をひそめる。

 ……何だか頭が痛くなって来た。

 こちらは、はるかの事だけでもういいっぱいいっぱいだというのに。

「こっちだ」

 はるかが、段々になっている住宅と住宅の間の細い路地に入って行く。

 上段の家のせいで薄暗いその道の先には、やがてこんもりと茂った森と赤い鳥居が見えて来た。朱色が所々剥げたその古めかしさからして、多分住宅地造成の前からある神社なのだろう。

 はるかはその鳥居をくぐると、微風に揺れる梢の音と微かな虫の音が響く参道をしばらく歩いてから、不意に脇道へと逸れた。

 そこは、さらに森の奥へと向かう間道の様だったけれど……。

 日差しもあまりなくて薄暗い森の道をまた少し進むと、突然、目の前に鉄柵と古びたノッカーの付いた木戸が現れた。

「ほんとにあった……」

 思わず私は、そう呟いてしまう。

 はるかは私に苦笑を向けると、その扉に手を掛けた。




 アンティークな木戸を抜けたその先には、前と同じ蔦草に覆われた緑のトンネルが待っていた。緑の濃い匂いに包まれながら石畳の小径を進むと、手入れの行き届いたあの庭園が見えて来たのだけれど……。

 開けた場所に出た瞬間、私は強い違和感に襲われた。

 一瞬その感覚の正体が何なのかわからなかったけれど、直ぐに気がつく。

 緑の庭園の上に広がる空が、見渡す限り真っ青の快晴だったのだ。

 雲ひとつない空を見上げて、私はきゅっと眉をひそめる。

 家を出てからはるかに出会うまで、秋野市の空はずっと曇りだった。それが、突然こんなに晴れるなんて……。

 こちらとあちら。

 先ほどはるかが言っていた事が俄かに真実味を帯びて来るような気がして、私は軽い眩暈を覚えた。

「こっちはあっちの世界とずれてるから、色々とおかしな感じなんだよな。時間帯は大体あってるけど天気は違うから、そっちに出た途端雨だったとかもあるし」

 はるかが私の視線から何かを察したのか、お屋敷に向かって歩きながらそんな説明をしてくれる。

「そもそも携帯が通じないからな。奈々子や駿太に連絡を取る時は、いちいち庭から出なくちゃならないんだ」

 ……確かに、はるかの携帯はいつも圏外だった。特に、お互い家に帰ってからの時間帯なんかは。

「それでせっかく外に遊びに行こうと思ってたのに、またここに来たいなんて、一体どうしたんだ?」

 はるかが、私と駿太を見て僅かに首を傾げる。

「えっと、それはね」

 私は、視線を逸らしてしまわない様に意識してじっと真っ直ぐにはるかを見据えた。

 ここで変に誤魔化してもしょうがない。

「……アミリアさんに、遼の事、はるかが今置かれている状況とか、直接聞いておきたいと思ったんだ。それで、私たちに出来る事があったら、遼を、はるかを助けたいって……」

 私は、駿太を一瞥する。

 駿太も私に同意する様に、大きく頷いてくれた。

 はるかは、驚いた様に大きな目をさらに大きくして固まってしまった。足も止まってしまう。

 私と駿太は数歩先に行ってしまってから、振り返ってはるかの方を見た。

 じっと私と駿太を見つめるはるか。

 一瞬の間の後。

 その顔が、芯から融けてしまうようにふにゃりと笑顔に変化した。

「……えへへ、ありがとな、2人とも」

 少し恥ずかしそうに、でも嬉しそうに笑うはるか。

 その笑顔に引きずられて、何だかこちらも恥ずかしくなってしまう。

 私は、思わず踵を返してはるかに背中を向けていた。駿太はふっと笑いながら後頭部をポンポン叩いていたけれど、私はその目が泳いでしまっているのを見逃さなかった。

「よし、じゃあ行こう! アミリア先生なら、今は書斎にいる筈だ!」

 先ほどよりも意気揚々と大股に、はるかが歩き出す。

 あっというまに私たちを追い抜いてしまったその背中を、私と駿太が慌てて追いかけた。

 大きな古めかしいお屋敷に到着する。前回とは違って陽の光が差し込むそのお屋敷の中を、はるかがぐんぐんと進んで行く。

 純洋館といった、単なる学生には馴染みのない空間に、私はどうしても居心地の悪さを覚えてしまう。

 何だかだんだんと緊張して来た。

 お屋敷の一番奥の厳しい扉の前で、はるかが立ち止まった。

 扉の前でぴんっと背筋を伸ばして表情を引き締めるはるか。それだけで、先ほどのふにゃふにゃした笑顔を浮かべた可愛らしい雰囲気が、凛とした大人な女性のそれへと変化する。

「失礼します、先生」

 ノックをした後、はるかがアミリアさんの書斎の扉を開いた。

 書架も床も大量の本に埋もれたその部屋には、古い紙の独特の匂いが広がっていた。

 部屋に入ると、私たちが床を踏む音だけが僅かに響く。それ以外はまるで、時間が止まってしまったかの様にしんと静まり返っていた。

 その書斎の奥。

 窓から射し込む陽光を背にして、この部屋の主人がいた。

 アッシュブロンドの髪を後頭部でお団子にし、ぱりっとした白のブラウスを着たアミリア先生は、巨大な執務机の向こうで本に目を落としていた。

「先生、失礼します。えっと、奈々子と駿太が先生とお話ししたいと来ているのですが……」

 静寂を破り、はるかがアミリアさんに声を掛ける。

 一拍の間を置いた後、アミリアさんは本をぱたりと閉じると、顔を上げて私たちを見据えた。

 ドキリとする。

 その緑の瞳は、まるでそれ自体が輝いている様に強い光を孕んで私たちを射貫いた。

「ハルカ。ここは、おいそれとあちら側の人間を招き入れて良い所ではない。前回は、君のたっての希望という事で認めたが、それは説明しただろう?」

 抑揚のない声が響く。

「……はい」

 はるかが消え入りそうな声で答える。

 私もアミリア先生の冷ややかな態度に気圧されてしまいそうになったけれど、頑張ってお腹に力を入れてその場に踏み止まった。

「はるかに連れて来てくれと無理強いしたのは、俺たちなんです。突然来てしまった失礼はお詫びします」

 しかし私より先に口を開いたのは、駿太の方だった。

「私たち、どうしてもアミリアさんにお聞きしたい事があるんです」

 私も意を決して、駿太に続く。

「それで。君たちの質問とはなんだ」

 全く話を聞いてもらえないのかと思ったけれど、うんざりした様子も怒った風もなく、ただただ淡々と質問を返して来るアミリア先生。

 怒りを露わにされたり邪険にされたりしない分いいのかもしれないけれど、何だか非常にやりにくい……。

「そ、その、はるかの事、遼の事、改めて色々と教えてもらいたくて……」

 私は、ぎゅっと手を握り締めてアミリア先生を見つめる。

「その件については、既に説明したと思うが」

「いえ、もっと詳しく聞きたいと思うんです」

 アミリア先生のにべもない返答に、駿太が一歩前に踏み出して食い下がる。

「ならば、ハルカから聞いたら良いだろう。ここは、君たちの様な者が気軽に来て良い場所ではない」

 アミリア先生が、緑の瞳をすっと細める。

 はるかや遼の事、この秘密の庭やお屋敷の事も、アミリアさんに話を聞かなくてはいけない気がする。はるかに事情を聞いて何かがわかっても、解決する方法を知っていてそれを実行出来るのは、結局のところこのアミリアさんだと思うのだ。

 あくまでも、それは私の勘にしか過ぎないけれど……。

 ここで、この秘密の庭に出入りするのを禁じられるのは良くないと思う。遼やはるかの事を、今起こっている事を知るためには。

 何か、ここに来る理由を作らなくては……。

 私は僅かに俯き、視線を巡らす。

 ふと、体の前で手を握り、心配そうにこちらを見ているはるかと目が合った。

 黙っていると、はるかは本当に唯の女の子にしか見えない。

 ……女の子。

 私はそこで、はっとして顔を上げる。

「あの、アミリアさん。私たちにアミリアさんのお話を伺う機会を与えていただけるなら、ご協力も出来ると思うんです」

 私は早口になりそうなのを抑え、思い付いたそのアイデアを確かめる様に意識してゆっくりと言葉を紡ぐ。

「協力?」

 アミリアさんが、僅かに首を傾げた。

「はい。私は女です。普通の……。だから、はるかを女性らしくするのに、色々と協力出来ると思うんです。同い年だし、遼とはずっと一緒だったし……」

 もちろん、これは出まかせだ。

 はるかが遼なら、女の子化してほしい筈なんてない。

 でも、アミリアさんははるかが女の子らしくする事を望んでいるという。ならば、女の子の事を伝えるというのは、私がはるかとともに行動し、このお屋敷に出入りする良い口実になるのではないだろうかと思ったのだ。

「ナ、ナナ!」

「ふむ」

 はるかが悲鳴の様な声を上げ、アミリアさんがじっと私を見詰める。

 その吸い込まれそうな緑の瞳を、私はぐっと力を込めて見返した。

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