第5話 真実の価値
こちらを見つめながら微笑を浮かべる黒髪の少女。
彼女が何を言い出したのか、私には直ぐには理解出来なかった。
数日前に会ったばかりのこの少女が、遼?
大きく目を見開き、押し寄せる驚きと衝撃と混乱に翻弄されながら、私は目の前の少女、久条はるかを見る。そして、彼女がつい今し方口にしたその台詞の意味を何とか考えようと試みる。
遼が、私と駿太の幼馴染で姉弟の様に育って来たあの遼が、女の子?
……ありえない!
逆に、この久条はるかが実は男だったというのはどうだろうか。
それも、ありえない。
今日の体育の際の更衣室で、私は久条はるかの着替えを見ている。
シンプルな白の下着を身に付けた彼女は、私よりスタイルが良いくらいだった。
それに、遼と久条さんの顔は似ても似つかない。遼に姉妹がいるというのも聞いた事がない。
宮下遼と久条はるかは、明らかに別人だ。
なのに久条さんは、どうして自分が宮下遼だなんて事を口にするのだろう?
困惑しながらも、一瞬でそこまで考えた私な、次の瞬間にはギリっと奥歯を噛み締め、ぐっと両手を握り締めていた。
爪が食い込み、手が痛くなるほどに。
混乱の後に押し寄せて来たのは、怒りだった。
体の奥底から噴き出して来る怒りで、顔がカッと熱くなるのがわかる。
遼がこの久条はるかだなんて、ありえない。
意味がわからない。
ならば、目の前の少女は遼のフリをしているだけなのだ。
……私と駿太の前で遼の名前を騙るなんて、許せない。
許せる筈がない……!
「……何を言ってるの」
押し寄せて来る強い感情に翻弄され、頭の中が真っ白になる。
どうして。
どうして……。
どうして……!
何でそんな事を言うのというのか。
言葉にならない思いが頭の中で荒れ狂う中、私が辛うじて絞り出せたのはそんな言葉だけだった。
「ナナ、直ぐには信じられないかもしれないけど、俺にも色々あったんだ。こんな姿になって、それでナナや駿太が気が付くかなと思ってしばらく黙ってたんだけど……」
久条さんはそこで一旦言葉を切ると、左手を腰に当て、右手で後頭部を撫でながら少し困った様な表情を浮かべ、私から視線を外した。
「その、色々あって、もうこれ以上ナナに黙っておくのは良くないなって思って……」
少し恥ずかしそうに呟く久条さん。
「奈々子は気が付かなかったみたいだが、俺は直ぐにわかったぞ。ああ、うん! 良かった! また3人で集まれて、本当に良かった!」
私の隣に立つ駿太が、嬉しそうに声を弾ませる。
しかし私には、やっぱり久条さんが何を言ってるのかわからなかった。どうして駿太が、この久条はるかを遼だって認めているのか、わからなかった。
様々な思い出が蘇る。
無邪気に笑っていた遼の顔が思い浮かぶ。
だって、遼は遼なのに……!
私は、キッと駿太を睨み付ける。そして、真っ直ぐに久条はるかを睨み付けた。
色々な言葉が同時に溢れて来て形にならない。
でもただ、目の前の少女を否定したい衝動が私を突き動かす。
「冗談にしても、言って良い事と悪い事があるんだよ! 私を、私たちを守ってくれた遼の名前を使って、私たちに近付いて、なんのつもりなのっ!」
私は、絶叫しそうになるのを辛うじて抑えつける。
「遼は、ずっと私たちと一緒に過ごして来た遼は、あなたみたいな女の子じゃない! 遼は、いつだって私と一緒にいてくれた遼は、かっこ良い男の子だんったんだよ、ホントに……!」
自分でも何を言っているのかわからなかった。
ただ、胸の奥にある強い思いが私を震わせる。
「な、奈々子、少し落ち着け」
隣の駿太が、困惑した様な声を上げた。
私は再び駿太をキッと睨み上げた。
「駿太も何で怒らないの? こんな事言われて、何で信じられるの?」
「悪かったよ、ナナ。ナナには先にちゃんと説明しておくべきだった、俺が遼だって事を。悪ふざけが過ぎた。ごめん……」
口をパクパクさせている駿太よりも先に、久条はるかが一歩前に出て頭を下げた。
違う!
私が頭に来ているのは、女の子になってしまったのを黙っていた事に対してなんかじゃない。
「そうじゃない! 私は……!」
再び口を開こうとして、しかしそこで私ははっとする。
申し訳無さそうに眉をひそめながら、しかし決して目を離さずに真っ直ぐにこちらを見つめ、内に秘めた強い意志を示すかの様に真一文字に唇をひき結んだその表情に、私は強い既視感を覚える。
似ても似つかない眼前の久条はるかの顔に、私を怒らせた後申し訳なさそうに謝りに来ていた遼の顔が重なる。
……重なって、しまったのだ。
「……俺は、久条さんに、はるかに会った時から、似てると思ったぞ。遼だって聞いて納得した。まぁ、驚きはしたけど、表情とか仕草とか、俺たちの知ってる遼だよ。俺と、奈々子だからこそわかるだろ?」
駿太が穏やかに、ゆっくりと語りかけて来る。
「だって……」
私はギリっと奥歯を噛み締める。
駿太の言葉にドキリとしている自分がいた。
こちらを見て不敵に笑う久条さんや、恥ずかそうにそわそわする久条さん。それに先ほどの申し訳なさそうな久条さんの表情……。
既視感を覚えてしまう様な、どこか何だか気になってしまうところのある久条はるかという人物に対する不思議な感覚が、駿太の、この遼だと名乗る少女の言葉を受け入れてしまえば、全て納得出来そうな気がする。
遼が、女の子になってしまった。
それが、この久条はるかさん……。
……でも!
「そんなの、納得出来るわけないじゃない……! 私たちを守ってくれた遼が、あの遼が、女の子になっちゃうなんて……!」
あり得ない……!
私は気圧され、ほだされてしまわない様に力を込めて久条はるかを睨み付けた。
……遼。
私は……!
不意に、私の頰をぽろりと涙が伝い落ちた。
くっ。
今は、泣いてる場合じゃない。
私は今、怒らなくちゃならないんだ……!
「……悪かったな、ナナ」
必死に感情の爆発を抑える私が何かを言うよりも早く、真っ直ぐにこちらを見つめる久条さんが口を開いた。
「あの時はあれが最善だと思って行動したつもりだった。あの赤い鳥からナナや駿太を守るには、俺が囮になってって思ったんだ。でもそれで、返ってナナや駿太に心配を、迷惑を掛ける結果になってしまっているのなら、それは悪かったって思う。でも……」
久条さんは、過去を振り返る様に一瞬だけ目を伏せた。しかしすぐに、また正面から私を見据えた。
彼女の顔には、反省はしても後悔はしていないという強い思いが現れていた。
その力強い意志に満ちた凛々しい表情に、遼の面影が重なる。
私は、じりっと後退る。
違う……!
あの時の遼の決断を迷惑だなんて、そんなの思った事もない!
遼は間違ってなんかないと叫びたい気持ちと、遼ではない者の口から遼の思いが語られているという違和感に押し潰されそうになる。
涙が、次から次へと溢れて来た。
でも私は、その涙が何に対するものなのかわからなかった。
……わからない。
遼と私たちに、今何が起こっているのかわからない。
私は、小さく首を振った。
何度も、何度も。
そしてその次の瞬間。
状況に耐え切れなくなった私は、思わずばっと踵を返していた。
この場から逃げ出していた。
駿太の様に久条さんが言う事を受け入れそうになっている自分がいて、でも私はそんな自分を認める事が出来なかった。
遼が女の子だなんて、そんなこと!
それで色々なもので頭の中が、胸の中が一杯になってしまって、耐え切れなくなってしまったのだ。
「奈々子!」
駿太が声を上げる。
私は久条さんや駿太に背を向けて、涙を隠す様にその場から離れようとした。
しかし。
「ナナ」
がしりと私の手が握られる。
駿太の大きな手ではなく、少女の小さな温かい手が、私を引き止める。
反射的に振り向くと、黒髪を揺らした久条さんが一歩前に踏み出し、私の手を捉えていた。その強い光を宿した瞳が、真っ直ぐに私を見据えていた。
「ナナ、待ってくれ」
久条さんが、私を引き留める手に僅かに力を込めた。
「ナナが信じられないと言うのもわかる。でも、ナナと駿太には、俺の身に何があったのか知って欲しいと思うんだ。その、もうナナたちには心配を掛けたくないから」
私は、久条さんに握られていない方の手で涙を払う。そして彼女から顔を背けながら、しかし横目でその真剣な表情が浮かぶ顔を見た。
「明日は金曜日だ。学校が終わってから、ナナも駿太もうちに来てくれ。俺がどうしてこの姿になったのか説明するから」
微笑を浮かべ、こくりと小さく頷く久条はるか。
私は、彼女の誘いに否定も肯定も出来ず、その顔から視線を外す事しか出来なかった。ただ、ずっと握られたままの手から伝わって来る、彼女の温もりを感じながら。
翌日。
私の状態は酷いものだった。
昨日の事が気になってあまり眠れなかった上にメイクも髪型も整える気になれず、泣き腫らした目は赤いままで、結果私の顔は酷い有り様になっていた。
あの講堂裏でのやり取りの後、家に帰ってまた少し泣いてしまったし……。
今日は本当は学校を休んでしまおうかとも考えたけれど、それでは久条はるかに負けた事になるような気がして、こうして頑張って登校したのだ。
もっとも朝莉乃に会うなり、「ナナ、どうしたの!」と驚かれてしまったけれど。
久条さんの方は、さすがに空気を読んだのか、いつもの様にずかずかと近付いて来る事はなかった。ただ朝の挨拶を交わした後に、「大丈夫か、ナナ」と声を掛けられたくらいだ。
口調や台詞は男子みたいだったけれど、長い髪を揺らした少女から透き通った女の子の声で問われれば、やはり違和感しかない。
1人になって色々考えていると、遼が戻って来るというのは、本当であればこれ以上嬉しい事はない。でも久条さんが遼で、遼が女の子になってしまったというのは、やはりあり得ないと思ってしまう。
性別が変わるとか見た目が変わるとかではなく、遼が女の子にというのがあり得ない。
あの遼が……。
そんな頭の中がぐちゃぐちゃした状態で勉強に集中出来る筈もない。
みんなが土日のお休みを前にしてそわそわしている中、結局私は1日中ずっとあれこれと悩み続けることになってしまった。
そして放課後。
こちらのクラスにまで迎えに来てくれた駿太と一緒に、私は久条さんの誘いに応じて、遼の家に向かう事になった。
正直久条さんに対する気持ちの整理はついていないし、遼の家に行く事に対しても抵抗があった。こんな約束、馬鹿らしいとすっぽかしてやろうかとも考えた。
でもそうして逃げていても、何もわからないし何も解決しない。
そう思った。
それに、久条さんに対する怒りも消えた訳ではないのだ。
彼女の話を聞いてみて、どうしてこんな事を言い出したのかを聞いてみて、それが納得出来ない様な話であったならば、その時は……。
どんな事情があるにせよ、遼を騙る以上、私はこの久条はるかという人物を見定めなくてはならない。
それしか、この胸の奥に燻る困惑を解消する方法がないと思ったのだ。
遼の家へ向かう道中、私は並んで歩く久条さんと駿太から一歩遅れてその後に従った。
駿太がいきなり教室に入って来て、「はるか、奈々子、行くぞ」と声を上げたものだから教室内がざわざわしたり、何だか楽しそうに談笑している久条さんと駿太にイライラしたりといった事はあったけれど、何とか私たちは順調に遼の家へと辿り着いた。
遼の家は私の家の斜め向かい、駿太の家の隣だった。
昔は、1年前のあの事件までは毎日のように入り浸っていた場所だけれど、遼が病院から帰って来なくなってからは訪れる事もなくなってしまっていた。
遼の家の玄関前に立った私は、ぐっと身を固くする。
改めて遼のおばさんやおじさんに会うとなると、やはり緊張してしまう。ずっと遼のお見舞いに行かなかった後ろめたさで、胸がズキズキと痛んだ。
「さぁ、入った、入った。みんなで集まるのは久しぶりだから、何だか嬉しいな」
そんな私の気持ちとは裏腹に、無邪気な笑顔を浮かべた久条さんは、さっさと門扉を開くと、私たちを中へと招き入れてくれた。
……これだけ気軽に家に入れるという事は、遼のおばさんやおじさんは、この久条はるかを認めているという事なのだろうか。
少なくとも他人の家にずかずかと入ってくなんて事は出来ないだろうし、おばさんたちと顔見知りではあるのだろう。
「ただいま、母さん」
玄関の扉を開き、久条さんが声を上げた。
……母さん。
遼もおばさんの事を、そう呼んでいたっけ。
「お帰り、遼。あら、もしかして奈々子ちゃんと駿太ちゃん?」
家の奥から顔を出した遼のおばさんが、私たちを見るなりぱっと顔を輝かせた。
おばさん、今久条さんの事を遼って……。
私は一瞬呆然としてしまうが、はっとすると、慌ててばっと頭を下げた。
隣で駿太が、こんにちわと挨拶をする。
……遼のおばさんさんと会うのはいつ以来だろうか。おばさん、少し歳を取った様に見える。
「奈々子ちゃんも駿太ちゃんも、遼……えっと、はるかの事情は聞いたのね」
おばさんは、僅かに目を細めて穏やかな笑みを浮かべた。その顔からは、悲しみとか後悔とか疑念とか、久条さんを否定する様な感情は窺えなかった。
「簡単には信じられないかもしれないけど、この子が遼なの。奈々子ちゃんも駿太ちゃんも、遼……はるかと仲良くしてあげてね。これからも、今までみたいにね」
しんみりした様子で優しく微笑むおばさん。
私は、僅かに眉をひそめる。
……少なくとも遼のおばさんは、久条はるかを認めているという事だ。
「もう、暗くなるからやめてくれ! ナナ、駿太、俺の部屋に行くぞ!」
スカートを膨らませてくるりと振り返った久条さんは、むっとした様に頰を膨らませて私たちとおばさんの間に割って入って来る。
おばさんが、あらあらと困った様に笑った。
「せっかくみんなも来てくれたんだし、明日はお休みだし、今日くらいはうちにいてもいいんじゃない、遼……はるか?」
おばさんはキッチンの方へと戻りながらそう尋ねて来る。
うちにいる?
私はんっと首を傾げる。
久条さんは遼だと名乗っているのに、この家で暮らしているのではないのだろうか。そういえばこの前一緒に帰った時も、久条さんは日置山の向こう側に住んでいると言っていたっけ。
……謎は深まるばかりだ。
久条さんの先導で、私たちは2階にある遼の部屋へと上がる。
1年ぶりに訪れたその部屋は、ほとんど以前のままだった。
前は棚の上に乱雑に立っていたプラモのロボットたちは綺麗に整頓され、他もきちんと整えられていたけれど、遼が毎月読んでいたマンガ雑誌は、去年の5月号で止まったままだった。
……この部屋に足を踏み入れただけで、胸が震える。心のどこかで、私はもう2度とここには来ないのだろうと諦めていたから。
私はぎゅっと唇を引き結び、ぐっと手を握り締めた。
綺麗に整えられたベッドの脇に私と駿太が腰掛ける。久条さんは、遼が小学生から使っている学習机の椅子に腰掛けた。
……これが、私たち3人がこの部屋に集まった時の定位置だった。
久条さんは今、迷うことなくその遼の場所に座ったのだ。
「あー、やっぱりここが落ち着くな!」
にこりと輝く様な笑みを浮かべて、スカートから伸びた長い足をパタパタと揺らす久条さん。
遼の場所で遼みたいな台詞を言いながら、でもそこに女の子がいるという状況に、私は目眩を覚えてしまう。
「あ、そうだナナ。1つ言っておくけど、ナナたちをうちに連れて来たのは、母さんが今の俺を認めてるのを見せつけて納得してもらう為じゃないからな」
久条さんはさっと髪を払うと、僅かにリボンを緩めながら私を見た。
「母さんが、ナナや駿太に会いたいって言うから来てもらったんだ。ナナと駿太には、きちんと確認してもらいたいものがあるんだ。それを見てから、俺の説明を聞いて欲しいんだ。だから、この後もちょっと付き合ってくれ」
久条さんは微笑を浮かべながら、僅かに首を傾げて私を見る。長い黒髪がはらりとこぼれる。
一瞬視線をぶつけ合ってから、私はすっと久条さんから視線を外した。
……ここまで来て、遼の身に何が起こったのかという事から目を背ける訳にはいかない。こうなれば、最後までこの久条はるかの話を聞くしかない。
「……わかった」
私はぼそりと返事をするが、その声は自分でもびっくりする程不機嫌な感じになってしまった。
「よし!」
しかしそれを聞いて、久条さんは満足げにこくりと頷いた。
「よかった! 昨日のナナの反応を見てたら、ちゃんと来てくれるか心配だったんだ。あれを見てもらえたら、きっと俺が俺だって信じてもらえるから!」
満足そうに息を吐きながら、椅子の上でうんっと両手両足を伸ばす久条さん。
「しかしな、ナナがあんなに驚くなんてな。駿太はわりと直ぐに信じてくれたのにな」
久条さんは微笑みながら、椅子の上に脚を上げ、三角座りする様に膝を抱えた。
私は、むっと眉をひそめる。
昨日のことを思い出すと恥ずかしくなる。
久条さんに腹立たしさを覚えているのは今も同じだけど、確かに昨日はあまりに突然の事で、少し感情的になってしまったと思っていたから……。
そこでふと、私は先ほどから静かにしている駿太が、じっと久条さんを凝視しているのに気が付いた。
私は久条さんを一瞥してから、はっとそれに気が付く。そして、すかさず駿太の肩をドカっと殴った。
……決して八つ当たりしている訳じゃない。
「な、奈々子?」
駿太が驚いた様に声を上げる。
「……久条さん、スカート。見えるよ」
私は駿太を睨み付けてから、溜息交じりに久条さんに注意した。
制服のスカートのまま椅子の上に脚を上げる様な座り方をしたら、下着が見えてしまう。駿太がいるのに、あまりにも無防備すぎる。
しかし久条さんは、何を注意されたのかわからないという様にきょとんとしていた
……しかしそれにしても駿太の肩、固すぎる。岩か何かで出来てるんじゃないだろうか。
「あ、そうだ、ナナ。1つ頼みがあるんだが」
脚を下ろした久条さんが、私の方へと身を乗り出して来た。
「その、久条さんっていうの、やめてくれないか? 今まで通り遼、はダメか。なら、せめてはるかって呼んで欲しいんだ」
期待に満ちた目で、私を覗き込む様に見る久条さん。
「そうだ、疑問に思ってたんだが、どうして偽名を名乗ってるんだ?」
気まずそうにこちらを見ない駿太が、久条さんに質問する。
久条さんは胸の下で腕組みをすると、神妙な顔で小さく頷いた。
「それは、どうして俺がこの姿になったかにも関係しているんだが、えっと、俺を助けてくれた人との約束で、俺は宮下遼じゃなく別の人間になる事になったんだ」
別の人間……。
ドキリとしてしまう。
その台詞の重大性を私が認識する前に、久条さんは、少し声を低くしながら淡々と説明を続けた。
「それが、俺が助かる条件だった。体はご覧の通りこんな感じに、まぁ、慣れたけど。あと、名前も変える事になって、苗字はその人の知り合いからもらったんだ。でも下の名前は自分で決めて良いって言われて、色々考えた後、はるかにした」
久条さんは苦笑を浮かべて僅かに首を傾げた。
「ほら、遼って字は、はるかって読むだろ。だからこの名前にしてみたんだ。こんな姿なのに、あえて男の名前を付けるのもアレだし……」
久条さんは、ひょいとスカートの裾を摘んで微笑んだ。
「色々変わってしまったけど、俺は俺だ。だから、名前くらいは俺が決めた俺の名前にしたかった。ナナと駿太には、せめて俺の名前で呼んで欲しいと思ったんだ。ナナや駿太には……。そうすればきっとこの先も、俺はこの久条はるかとしてやっていけると思うんだ。……ダメ、かな?」
微笑を湛えたまま、私と駿太を交互に見る久条さん。
私は、久条はるかが遼だという事を認めたくない。
でも、もしそうであるならば、その久条さんの意思は尊重したいと思う。もし久条さんが遼なら、幼馴染で姉弟も同然の私たちが認めてあげなければ、久条はるかの、遼の心の行き場というものがなくなってしまうと思うのだ。
それは理解出来る。
……でも。
私は目を伏せ、床の上に置いた手をぎゅうっと握り締めた。
その私の肩に、ぽんっと手が置かれる。
顔を上げる。
駿太だ。
駿太は、私に向かってこくりと頷くと、九条さん……はるかの方に顔を向けた。
「それで、だ。はるか。あの後、何があったんだ? あの日置山で俺たちを逃した後何があったのかを、まずは説明して欲しいんだ」
駿太の低く力強い声が響く。
はるかは、うんと頷くとおもむろに立ち上がった。
「俺はあの後、あの赤い鳥に食われたんだ。そこを、あの人に助けられた」
私は、はっと息を呑む。
1年前のあの夜の出来事が脳裏をかすめる。
赤い鳥……日置山の怪鳥!
「俺は今、その人のところで暮らしている。口で説明するのも難しいから、悪いがついて来てくれないか? これから案内するから」
はるかはそう言うと、長い髪をふわりと揺らして私たちの前を通り過ぎる。そしてドアノブに手を掛けるとすっと振り返って私たちを見た。
「さぁ、案内するよ。俺を救ってくれたあの人の、アミリア先生の秘密の庭に」