第31話 動き始める私たちの時間
「駿太、これ持って帰ってくれる?」
冬休みが始まって、まるで我が家の様に入り浸っている秘密の庭のお屋敷のはるかの部屋。そのテーブルの上に置いたままだったミニクリスマスツリーを、私はひょいっと持ち上げた。
フローレスタの雑貨屋さんで見つけたこの小さな鉢植えのツリーは、ちょっとしたクリスマスの雰囲気を演出するにはちょうどよいアイテムだった。
……もっとも、クリスマスが過ぎ去ってしまった今、無用の長物と化してしまったけど。
「あ、おう」
だらしなくソファーに寝転がって漫画雑誌を読んでいた駿太がのそりと起き上がり、私からミニツリーを受け取る。
家まで持って帰るには少し重いから、駿太がいて良かった。
私は、腰に手を当ててふっと息を吐いた。
さて、今度はお正月に向けて、鏡餅の置物でも持って来ようかな。
はるかは眠ったままなので、当然秘密の庭から出られない。だからせめて、こういう季節を感じられるものを部屋に置いてあげようと思うのだ。
はるかが目覚めた時に、直ぐに今がどんな時期であるかがわかるように。
テレビもなく携帯やネットも繋がらないこの秘密の庭に篭っていると、世の中の流れがまったくわからなくなってしまう。
周囲が明るくなるのと同時に目を覚まし、晴れたり雨だったり雪だったり昼間の時間がのんびりと通り過ぎて、暗くなるとお屋敷に明かりが灯り、星空が濃くなると眠りに就く。
ここ秘密の庭では、そんな毎日がずっと繰り返されている。
私は駿太が食べたままにしていたコンビニ弁当の容器をゴミ袋にいれながら、ベッドの方を一瞥した。
目を覚ました後、はるかはここでずっと暮らす事になるのだ。
果たして、息が詰まらないだろうか。
学校とかフローレスタとか駿太と一緒にするゲームとか、恋しくならないだろうか。
私は、窓の外の僅かに雪が積もった庭園へと目を向ける。
もっとも、人はどんな環境にもなれるものだ。
冬休みに入ると、私と駿太は、アミリアさんの秘密の庭に一日中篭ることが多くなった。
静かなお屋敷で駿太と2人じっとしていると、何だか嫌な事とか不安な事ばかり考えてしまって、少し気が滅入ってしまいそうになる。
もちろんはるかは、眠ったままで何も反応してくれないし……。
しかしそんな状態にも、私はいつの間にかなれてしまっていた。
だから、きっとはるかも……。
そんな事を考えていると、胸の奥がじんっと熱くなってしまう。食堂ホールで聞いたアミリアさんの話を思い出して、涙が滲みそうになってしまう。
はるかと私たちの未来の事を聞いて、はるかがこれから歩む道を知って、私は私たちの関係と私たちがどんな状態にあるのかを理解する事が出来た。
しかしもちろん、納得出来た訳でもすんなりと受け入れられた訳でもなかった。
はるかの顔を見る度に、どうしてこうなってしまったのかと思わずにはいられない。悲しくて腹立たしくて、叫びだしたくなる。
それは、多分駿太も同じだ。
私がアミリアさんから聞いた話を伝えると、駿太は歯を食いしばって顔をしかめ、何度も何度も壁を殴りつけていた。
拳に、血が滲むまで……。
「どうしてはるかがっ!」
低い声で叫んでいた駿太のやるせなさや腹立たしさは、私にも痛い程よくわかった。
眠り続けるはるかの脇で、私と駿太は顔を突き合わせ、果たして本当に私たちに出来る事はないのだろうかという事を何度も何度も話し合った。
でも、特別な力など何1つないただの学生の私たちに、都合のいい新しい解決方法が簡単に見つけられる訳もない。
もちろん私たちは、はるかの事を諦めてなんかいない。今もはるかが私たちの側に残ってくれる方法を一生懸命考え続けている。
……でもアミリアさんの話が正しいなら、それしかないのなら、私たちはきちんとはるかを見送ってあげなければならない。
食堂ホールでアミリアさんと話してから、私は少しだけそう考える様になっていた。
お別れせずにずっとずっと一緒にいる。
今と変わらない関係が、ずっと続く。
そう考える事は、子供の夢想と同じなのかもしれない。
日置山の怪鳥とか秘密の庭や境界の管理者とか、そういう不思議な出来事が起きなくても、別れというものはいつか必ずやって来る。
家族の都合で引っ越すとか進学先が違うとか秋野市を出て就職するとか、私たちの将来には様々な別れが待ち受けている。
でもきっとそれらは、悲しいだけの別れではないのだと思うのだ。
私たちが、それぞれの未来に向かって歩む為の別れ。
一年前の私の、世界が終わってしまったかの様に思えた絶望的なそれとは違う。
それぞれの道で頑張っていれば、いずれまた会える。
はるかの境界の管理者としての旅立ちは、そんな性質の別れが少しだけ早くやって来ただけなのだ。
私は、そう考える様にしていた。
……どんなに前向きに考えても、はるかが私の側からいなくなってしまう事を思うと、胸が苦しくて苦しくてたまらなかったけれど。
私は、部屋の中の熱気で曇ってしまった窓に手を当てて、ふうっと大きく息を吐いた。
振り返って部屋の中を見返すと、ミニツリーの入った紙袋を手にのそのそとはるかのベッドに近づいて様子を伺った後、ソファーの定位置に戻ろうとする駿太の姿があった。
何だか飼い主の様子を窺う大型犬みたいだ。
私は、思わずふっと笑ってしまう。
このまま感傷に浸っていてもしょうがない、か。
じっとしていると、直ぐにネガティヴな事を考えてしまうし。
私は少しの間だけ目を瞑る。そして静かに大きく深呼吸すると、目を開き、肩口まで伸びた髪をさっと払ってから窓の鍵に手を掛けた。
パタンと勢い良く窓を開く。
ツンと鼻に来る雪の匂いを孕んだ冷たい空気が、勢い良く室内へと流れ込んで来る。
寒い筈だけど、暖房と感傷で熱くなってしまった体には冬の空気は心地よかった。
「お、何してるんだ、奈々子?」
ソファーに寝そべって再び漫画雑誌を読む態勢に入っていた駿太が、驚いた様な声を上げた。
私は振り返り、にこりと微笑む。
「空気を入れ替えようと思って。掃除するから、駿太も手伝って」
はるかの部屋は、未だ顔も知らないお手伝いさんがきちんと掃除をしているらしく、私たちが手を出す余地なんてほとんどなかった。そのため主に行なったのは、私と駿太が、いや、主に駿太なのだけど、こちらが持ち込んだものの整理とか処分だけだ。
はるかの部屋には、私が持ち込んだお菓子の差し入れとか駿太が持って来た漫画本などが山になりつつあった。
特に最近、漫画本が増えている。
以前から、色々な物を持ち込んではいた。しかしはるかが境界の管理者としての役割を担って旅立ってしまうかもと知ってからは特に、駿太がせっせと運んでいるみたいなのだ。
自分の手持ちを持ち込んでいるだけでなく、本屋さんでも買い集めているらしい。
それらを整理をしつつ、はるかのベッドの直しも行う。
こちらも、はるかは殆ど寝返りを打たないので特段必要な事とは思えなかったけど、布団を整えるくらいの事は私たちでしてあげたかったのだ。
その掃除整頓を行っている間に、ちょっとしたアクシデントが起こってしまった。
シーツを正すために掛け布団を取り払った際、駿太がはるかのパジャマ姿をガン見していたのだ。
はるかは、誰が着せ替えたのか、薄いワンピース型のパジャマを着ていた。所謂ネグリジェ的な感じのものだ。
その薄い生地だけでは、仰向けに寝ているはるかの体型の凹凸が、明確にわかってしまう。
駿太は、漫画本を片付ける振りをして、そんなはるかをじっと盗み見していたのだ。
……まったく、もう。
駿太には、近くにあった漫画雑誌を頭の上に落とすという制裁を加えておいた。
1番厚い奴の、角の部分を。
部屋の片付けを終える頃には、部屋の中の空気もすっかり入れ替わっていた。
開け放っていた窓を全て閉める。
むわっとしていた暖気は無くなって爽やかになったけれど、逆に少し寒くなり過ぎたかなと思ってしまう。
私や駿太はどうとでも体温調整が出来るけれど、眠ったままのはるかは大丈夫だろうか。
私はベッドに向かうと、その隅に腰を掛けてはるかの様子を窺った。
眠りっぱなしのはるかは、白銀色の髪の色も相まって、まるで良く出来たお人形さんみたいだった。
さらさらの髪。長い睫毛。すくっと立った鼻梁。うっすらと桜色が差す唇。
見れば見るほど整った顔だと思う。整いすぎて、どこか生気が感じられない程に。
コロコロと表情が変わる普段ならそれほど思わなかったのだけれど、寝顔だけを見ていると、まるでアミリアさんみたいだなと思ってしまう。
空気の入れ替で、寒くなかっただろうか。
眠ったままの物言わぬはるかが風邪でも引いてしまったら大変だ。
何だか妙な不安に駆られて、私ははるかの額に手を当てる。
ほわっとした温もりが伝わって来る。
大丈夫そうだけど……。
間近で見ていると、はるかの寝顔は本当に穏やかだった。
まるで、息をしていない様に見える程……。
……むう。
私は眉をひそめる。
……はるか、きちんと息をしているだろうか。
むくむくと不安が大きくなる。
当たり前の事なのに、気になり出すと確かめずにはいられなくなってしまう。
自分でも心配し過ぎだとは思うけれど……。
私ははるかの上に覆い被さる様に上体を倒すと、その鼻と口元にそおっと顔を近づけた。
「お、おい、奈々子?」
背後で、何故か駿太が焦った様な声を上げている。
薄っすらと開いた艶やかなはるかの唇が迫る。
微かに、はるかの寝息が聞こえる。
……よかった。
やっぱりはるかは、静かに眠っているだけみたいだ。
ほっと安堵した私が、はるかから顔を離そうとしたその時。
「……んっ」
吐息と共に、微かにはるかの声が漏れる。
そして次の瞬間。
僅かに身じろぎした後、はるかが薄っすらと目を開いた。
「はるか……?」
はるかが目を覚ます……?
突然の事態に私は目を見開き、その場でじっと固まる。ぐっと息を呑んではるかの顔を見つめる事しか出来ない。
下手に動いてしまったら、せっかく覚醒しそうなはるかが、また眠りの淵に落ちてしまう様な気がしてしまったから。
はるかの目に光が宿る。
その焦点が、ゆっくりと合う。
間近にある、私の顔に。
「……あれ」
掠れたはるかの声が響く。
私の胸がドキリと高鳴る。
久しぶりに聞いたはるかの声。
それだけで、じんっと胸の奥が熱くなる。
しかし同時に、大きな不安が私の体を強張らせる。
目覚めたはるかには、私や駿太の記憶が無くなってしまっているかもしれない。
そんなアミリアさんの言葉を思い出してしまったから。
もしその通りだったら、私は……。
「うん、えっと……」
ごにょごにょと小さく呟くはるか。
目が合う。
その途端、まるでスローモーションの様にはるかの目が大きく見開かれる。
そして同時に、ぼんっと音が聞こえてきそうな勢いでその顔が真っ赤になった。
「わっ、な、ナナ? 何で、近いっ!」
悲鳴の様な声を上げたはるかが慌てて私から離れようと身を起こす。
今度は、私の方が驚きで目を丸くする。
「はるか……!」
はるかは今、私をナナって呼んでくれた……!
つまり、私の事、覚えてる!
胸が震える。
全身を衝撃が駆け抜ける。
しかし次の瞬間。
今度は物理的な衝撃が私を襲う。
「うがっ!」
「わっ!」
慌てて体を起こそうとしたはるかの額と、はるかが私の事を覚えていてくれた事への感動で硬直していた私の額が、ガツンと激突してしまったのだ。
「ぐぐぐっ」
「うー」
私たちは、たまらずベッドに倒れ伏す。
「はるか! 起きたのか!」
そこへ、駿太が駆け寄って来た。
「おい、大丈夫なのか? 何ともないのか?」
駿太も突然の事に動揺しているのか、声が裏返ってしまっていた。
私も気を取り直し、慌てて体を起こす。
「はるか!」
おでこはまだジンジンしていたけれど、今はそれどころではない。
はるかが起きた。
やっと、やっと!
目覚めてくれた!
それに……。
先程はるかは、確かに私の名前を口にした。
はるかは、間違いなく私たちの事、覚えてくれている!
胸の奥にわだかまっていたものが、一気に溶けて消えていく様だった。体の奥底から何かが膨れ上がり、ぱちんと弾けて私を揺さぶる。
はるかの状態をきちんと確認しなければならないのに、溢れて来た熱い涙で視界がぐにゃりと歪んでしまう。
はるかは、おでこをぶつけて倒れた姿勢のまま、目をしょぼしょぼさせていた。気のせいかもしれないが、その顔は薄っすらと赤いままだった。
「うう、何なんだ、一体……」
はるかが呻く。
「ナナ、駿太……。ここは? 何だか体が重いけど……」
ぶつけた額を両手で押さえ、何回も目を瞬かせるはるか。
しかし直ぐに、はっとした様に体を起こそうとする。
「そうだ、あの怪鳥! どうなったんだ? ナナたちは無事みたいだけど、学校は、怪鳥はちゃんと倒せたのか、私……?」
そうだった。
はるかの記憶は、まだあの文化祭の夜で止まったままなのだ。
「ああ、大丈夫だ。はるかのおかげでな」
駿太が心底安堵したという風に、深く息を吐く。
はるかも駿太の言葉を聞いて、そうかと安堵した様に表情を緩め、再び布団に沈んだ。
本当はあの文化祭の後の事とかアミリアさんに聞いた事とか、色々はるかに説明しておかなければならない事が沢山ある。
でも、私はそこまでで限界だった。
何とか堪えていた涙が、とうとうポロポロとこぼれ落ち始める。
ううう……。
頭の中が真っ白になる。
よかった。
目が覚めてホントによかった、はるか……。
「な、ナナ、どうしたんだ、まさか額がそんなに痛むか?」
泣き始めた私を見て、もう一度はるかが体を起こした。
はらりと落ちて来た白銀の髪をかき上げて、はるかは心配そうに私の顔を除き込む。
……心配されるべきは、私なんかじゃなくてはるかの方なのに。
私は大きく息を吸い込むと、はるかに抱き着くみたいにがばっと布団に顔を埋めた。
「な、ナナっ」
はるかが戸惑った様な声を上げる。
ううっ……!
私は、声を押し殺して肩を震わせる。
「ナナ……」
別に直接抱き着いている訳じゃないから。
だから、少しくらいはこうしていても……。
「はるかはあの後、ずっと眠っていたんだ。奈々子はお前の事、凄く心配していたから」
駿太が静かな声で状況説明を始める。
同時に、ううっと嗚咽を上げる事しか出来なくなってしまった私の後頭部に、優しく手が乗せられる。
手の大きさからして私が抱き着いているはるかじゃない。
たぶん駿太だ。
お姉さん役の私に対して頭を撫でるなんてあまり褒められた行為ではないけれど、今だけは許してあげる……。
「私、どれくらい眠ってたんだ?」
恐る恐るといった感じで、はるかが尋ねる。
「1ヶ月弱、ってとこかな。また目が覚めないんじゃないかって心配したんだからな」
駿太の1ヶ月という言葉を聞いて、布団の向こうのはるかが体を強張らせるのがわかった。
「そっか……」
しばらくの間の後、はるかがぼそりと一言呟いた。
その短い言葉には、様々な思いが込められている様な気がした。
何かを諦めた様でもあり苦笑している様でもあり、しかし現状をしっかりと受け止めた様でもある。
私は布団から顔を離し、はるかを見る。
はるかは、少し悲しそうに笑っていた。
胸がきゅっと締め付けられる。
その笑顔から、わかってしまった。
はるかはきっと、自身を取り巻く状況を理解しているのだと。
「……そっか。なら私、もう学校には行けないのかな。寂しいな、それは」
はるかが私を見つめたまま、僅かに目を細めた。
胸がズキリと痛む。
まるで、刃物を突き立てられたみたいに。
はるかが境界の管理者として旅立つという話は、しょうがない事なのだと、私たちが人生を歩んで行く上での必然の別れなのだと思うようにした。その筈だった。
しかし今、こうして哀しそうなはるかの笑顔を見ていると、それを全て覆したくなってしまう。
今はもう冬休みに突入してしまったけれど、年が明けて新学期になったら、またお互い制服を来てコートを羽織ってマフラーを巻いて、並んで登校するのだ。
テストはもちろん、卒業式とか入学式とか体育祭に文化祭とか、何だかんだと言いながら学校の行事に参加して、駿太の片思いの件を弄ったりしながら、莉乃や明穂やみんなと一緒に楽しく過ごす。
進学したり就職したりもしくは結婚したりして、将来はもしかしたら私たちもバラバラになるかもしれない。
でもそれは、未だ高校一年生の私たちからすれば、遠い遠い遥か未来の話の筈だ。
……せめて。
せめて後2年と少しくらいは、はるかと一緒にいられないのだろうか。
高校3年間を親友と一緒に過ごす事なんて、みんな普通にやっている事だと思う。
何も特別な事なんかじゃ無い筈……。
「ナナ」
そんな私の妄想を遮る様に、はるかの穏やかで優しい声が響く。
「そんな悲しい顔、するなよ。私は別に後悔なんてしてないよ。日置山の怪鳥とはケリを付けられたし、学校の皆んなは守れたみたいだし。もうこの庭から出られないかもしれないけど……」
はるかは私から視線を外して、冬色の外の景色に目を向けた。
「アミリア先生との約束は守らなくちゃな。アミリア先生には怪鳥から助けてもらった上に無理を言って学校にまで行かせてもらった訳だし。短い間だったけど」
はるかが、もう一度こちらを見る。そしてゆっくりと交互に、私と駿太の顔を見た。
「でもおかげで、またナナと駿太にも会えたからな。アミリア先生にはいくら感謝しても足りないよ」
はるかはそう言うと、ニコリと笑った。
それは、可憐な白銀の髪の少女には似つかわしくない、少年の様な無邪気な笑みだった。
それは、紛れもなく確かに、宮下遼の、私たちが姉弟みたいにして育って来た幼馴染の表情だった。
口元が震える。
ひとしきり泣いて少し持ち直した筈なのに、耐えきれなくなった私は、もう一度はるかをぎゅっと抱き締めた。
今度は布団越しなんかじゃなく、はるかの背にしっかりと手を回して。
甘い少女の香りがふわりと私を包み込む。
「な、ナナ! うぐぐ……」
はるかが恥ずかそうに身を捩るけど、私は決して腕を緩めなかった。
「……俺も、俺たちもはるかと一緒に過ごせてよかったよ」
何とかそれだけは絞り出したのだろう駿太の声も、微かに震えていた。
はるかが、駿太の方を見てこくりと頷く。
突然のはるかの目覚めは、もちろん嬉しかった。嬉しくないわけがない。
でもそれは、はるかがやって来てから私たち3人が作り上げて来たこの関係が、再び大きな変化に向かって動き始める切っ掛けともなるのだ。
行かないで欲しい。
でも……。
今はその先をなるべく考えない様にして、私ははるかを抱き締める腕に力を込めた。
突然のはるかの目覚め。
その衝撃が収まるのを待ってから、私たちはお互いに状況の確認を行う事にした。
はるかはそれまでの昏睡が嘘の様にしっかりとしていたので、主に取り乱していたのは私なのだけど……。
それに、説明しなくてもはるかはおおよその状況を察しているみたいだった。
私と駿太は、一応はるかは病み上がりなのだからまだベッドで休んでいるべきだと注意したのだけれど、はるかはもう大丈夫だからと起き上がってしまった。
少しふらつくところはあったけど、1ヶ月近くも眠り続けていた割に、はるかの様子はしっかりとしていた。
そこで私は、取り敢えず身だしなみだけは普通に整えて、話をするのはもう一度ベッドに戻ってという事ではるかを納得させた。
はるかはもう大丈夫なのにと不満そうだったけど、そこは私が睨んで黙らせる事にした、
確かに薄いパジャマのまま布団から出ているのは風邪を引きそうだし、それに何よりも、はるかを駿太の邪な視線に晒したままにしておく事は出来ない。
でもだからといって、やはり目覚めたばかりのはるかをそのまま何でもなかったみたいに扱う事も出来ないし。
駿太を一旦部屋から追い出し、私ははるかを着替えさせる事にした。
まず長い髪が邪魔そうだったので、私がまとめてあげる。
部屋の片隅に設置されたドレッサーの前にはるかを座らせて、その銀糸の髪に櫛を通す。
「げっ、何だこれ」
鏡を見た途端、はるかが驚いた様に声を上げる。そして、自分の髪をかき上げたり引っ張ったりし始めた。
まるで、かつらではないのを確かめているみたいだ。
そういえば怪鳥との対決の場面で、魔法の力を行使して髪の色が変わってしまったはるかは、そのまま意識を失ってしまったのだ。自身に起こった変化を確認する余裕なんてなかったのだろう。
コスプレみたいだなと嫌そうな顔をするはるか。
その様子がおかしくて、思わず私は笑ってしまう。
私は銀色の長い髪をポニーテールにまとめる。あまりはるかに負担を掛けたくなかったので、緩めに。
「でも、安心した。はるかが目を覚ます時、もしかしたら私や駿太の事を覚えていないかもってアミリアさんから言われてたから」
髪のセットが終わったという意味を込めてはるかの両肩をぽんっと叩いてから、私は苦笑を浮かべた。
目覚めた瞬間、あなたは誰ですかなんて言われたら、お別れの前にもう立ち直れなくなっていたかもしれない。
しかし、そんな事ある訳ないだろっと直ぐに否定してくれると思ったけれど、鏡越しのはるかは、僅かに眉をひそめて視線を伏せてしまった。
「……アミリア先生とも事前に話していたからこうなるかもっていうのはわかっていたけど」
はるかは、低い声でぼそぼそと話し始める。
「実を言うと、今の私は昔の記憶が少し曖昧なんだ。はっきりとしているのは、私が久条はるかとしてナナたちと再会してからの事だけで、それ以前の事は何だか自分の記憶じゃないみたいにあやふやなんだ。昔見た映画とか本とかみたいに、覚えてはいても自分の記憶だっていう実感が持てないって言うか……」
顔を上げたはるかが、申し訳なさそうに笑う。
……あ。
その顔を見た瞬間、私は胸がきゅっと締め付けられる気がした。
ぎゅっと唇を噛み締める。
はるかは、私たちの事を覚えていてくれた。
でも。
今までと全く同じ、ではないという事なのか。
アミリアさんの言っていた通り、ここにいるのは遼であったはるかではなくて、完全に久条はるかという1人の人間。
記憶こそ失っていなくても、つまりそうなってしまった、という事なのだろうか。
今のはるかは、自分が何者なのかわからないあやふや状態にあるのかもしれない。
それなのに、気丈にも笑っている。
自分が別の存在になってしまう事が怖くない筈がない。
そして、そんな事になるのがわかっていても、はるかは魔法の力を使う決心をした。
つまりそれが宮下遼の意思。
久条はるかの選択。
その結果がここにいる少女なら、それはどんな姿形であろうと私と駿太の姉弟にして幼馴染に違いないのだ。
「……大丈夫」
私は、はるかの頭をゆっくりと撫でる。
「はるかははるかだよ。それは間違いない。それは、私も駿太もきっちりわかっているし、覚えているから」
そう。
例えはるか自身が忘れてしまったとしても、はるかが私たちの大切な人である事に変わりはない。
はるかはこちらを振り返り、大きな目をさらに丸くして私を見つめる。
驚きの表情は、しかし直ぐに嬉しそうな笑顔に変わった。
輝く様な眩しい笑顔に。
私もニコリと微笑み返す。
するとそのはるかの笑顔は、ほわんとした恥ずかしそうなものへと変わった。
髪はまとめてあげたけど、服はどこにしまってあるのかわからなかったので、後ははるかにお任せする事になってしまう。
ふわふわとポニーテールを揺らして壁際のクローゼットに駆け寄ったはるかは、柔らかそうなセーターや短めのスカート、それに厚手のタイツなんかを取り出すと、手早く着替え始めた。
先程までドタバタとしていて乱れたままになっていたベッドを整えながら、私はそんなはるかの姿を見てふと違和感を覚える。
一瞬むっと眉をひそめて考え込んでから、直ぐに私はその原因に思い至った。
はるかが、自らスカートを選んでいるのだ。
はるかは今まで、学校の制服以外のスカートを嫌っていた。このお屋敷にいる間は、アミリアさんの手間スカートを穿いていたけれど、いつも野暮ったい、古風なロングスカートだった。
それが、自らあんなに女子らしい可愛いコーデを選んでいるなんて……。
それに目覚めてから今まで気にしている余裕がなかったのだけれど、はるかは自分の事をいつもの俺ではなく私と呼んでいた。
前にも無理にそうしていた事はあったけど、今は特に意識していないみたいだ。
……つまりこれが、はるかが変わってしまった事の証拠、なのだろうか。
「着替え終わったから、駿太を呼んで来る。廊下で暇してるだろうから」
はるかが悪戯っぽく笑ってドアへと向かう。
「うん、お願い」
そう答えながら、私は僅かに目を細める。
……その表情は、遼そのものなのだけど。
改めてお茶を入れ、私と駿太の持ち込んだお菓子を囲みながら、私たちはあの文化祭の夜からの出来事を話し合った。
はるかはベッドで足を延ばし、その脇に私と駿太が座る。お菓子とお茶は、ベッドサイドのテーブルの上だ。
はるかは黙って聞いていたけれど、私がアミリアさんから聞いた話はやはり概ね把握しているみたいだった。
そして、これからの事も。
話が終わると、私たちはしんと黙り込む。
話したい事、話しておかなければならない事、言いたい事は山ほどあるけれど、それをどう切り出していいのかがわからなかったのだ。
それは、私だけでなくはるかや駿太も同じみたいだった。
静寂が室内を満たす。
そのままどれくらいの時間が過ぎたのだろう。
不意に、はるかの部屋にノックの音が響き渡った。
私はドキリと身を震わせ、ドアの方を見る。
「はい!」
はるかが返事をする。
本来は私や駿太が行くべきなのだけど、私たちより先に反応したはるかがベッドから下りると、ドアへと向かった。
はるかが開いたドアの先には、黒いドレスをまとったアミリアさんが立っていた。
「目が覚めたようだな、ハルカ」
はるかが目覚めたのが当然の事の様に、今日はるかが目覚めるのを知っていたかの様に淡々とした調子で話すアミリアさん。その表情は、少しも動かない。
「その様子では、過去との繋がりを失わなかったか。さすがだな」
アミリアさんは、うんっと2度頷いた。
「アミリア先生。色々とご迷惑をお掛けしました」
はるかが、丁寧に頭を下げる。
アミリアさんは、いやと小さく頭を振った。
「構わないさ。これで私は正式に君を弟子にする事が出来る。そうすれば、我が永劫の勤めもようやく終わるというものだ」
アミリアさんはそう言うと、少しだけ目を瞑る。
しかし直ぐに目を開きいつもの無表情に戻ると、アミリアさんは澄んだガラス玉みたいな瞳で、真っ直ぐにはるかを見据えた。
「しかしこれからがハルカ。君の旅の始まりとなる。以前にも説明したが、我らがこの場に留まる余裕は失われつつある。目覚めたのであれば猶予はあまり無いが、ハルカ。気には、あと3日間の時間を与えよう」
そこでアミリアさんは、部屋の奥の私たちを一瞥した。
「ハルカ。我が弟子。大切な人との別れは、きちんと済ませておくように」
読んでいただき、ありがとうございました!
もう三月も終わりですね、早いものです。来週はもしかしたら更新出来ないかもしれませんが、四月も頑張って更新したいと思います。また読んでいただければ幸いです!