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第3話 少女、来る

「おはよー」

「おはよう」

「おはー」

 元気の良い声や少し眠そうな声で挨拶が響き渡る朝の教室。吸い込まれる様に、次々とクラスメイトたちが集まって来る。

 毎日いち早く登校している男子たちが、教室の角に集まっておしゃべりしている。日直の2人は黒板の日付を書き換えたり日直日誌の作成に取り掛かったりと、忙しそうに動き回っている。連れだって教室を出て行く女子たちは、トイレで身だしなみチェックといったところだろう。

 最早見慣れつつある我がクラスの朝の風景が、今日も変わらず広がっている。

 莉乃と一緒に登校して来た私は、適当に手を振って一旦別れると、自分の席についた。

 今日もうちのクラスは賑やかだなと思う。

 おはようの挨拶の間に、女子たちの笑い声が弾ける。

 皆んな、授業が始まる前の一時の自由時間を謳歌しているのだ。

 さて。

 私も、今のうちにトイレに行っておこうかなと思う。今日は寝癖はついていない筈だけど、一応チェックしておかなければ。

 私が席を立とうとした瞬間、衝撃が走る。

 横からタックルを食らったみたいだ。

「ナナー……」

 こんな事をするのは莉乃しかいないと思ったら、案の定その通りだった。

「宿題見せてー!」

 私に抱き付きながら、わざとらしい泣きそうな表情を向けてくる莉乃。

 登校の間は宿題の事なんて全く言っていなかった。きっとクラスの誰かに聞いて、今思い出したのだろう。

「……しょうがないな。見せるから少し離れなさい」

 私はふっと溜息を付いて、むぎゅっと莉乃を押し戻す。

「おはよー、奈々子ちゃん。莉乃ちゃんは今日も朝から全開だね」

 そこに、おっとりとした声を上げ明穂が合流してくる。

 こうして3人が揃うのが、概ね変わらないいつもの私たちの朝だった。

 今日もまた、代わり映えのしない退屈な、でも何事も起こらない平和な1日が始まる。

 ……でもそれは、とても大事なものなのだ。

 日常というものは、失って初めてその大事さに気が付く。失うまでは、それが尊いものだと気が付かない。

 やがて朝のホームルームのチャイムが鳴ると、それとほぼ同時に、担任の田邊先生が教室に入って来た。

「……え?」

 その瞬間。

 私は、小さな声を上げてしまった。

 ドキリとしてしまう。

 唖然として固まりながら、同時に私は、いつもと変わらない日常が音もなく崩れ去るのを感じていた。

 ……そう。

 こうして日常というものは、思いもよらない出来事によって容易く打ち壊されてしまうのだ。

 周囲のクラスメイトたちが騒めく。

 少しくたびれたワイシャツ姿の田邊先生の後に続いて、もう1人、女子生徒が私たちの教室に入って来た。

 ふわりと艶やかな長い黒髪が舞う。

 クラスの空気が変わる。

 剥き出しの好奇心と期待感が、一気にその女子生徒へ向かうのがわかった。

 私も、その彼女をじっと凝視する。頬杖から僅かに顔を上げた姿勢のままで。

 流れる様な優雅な足取りで田邊先生の隣に並ぶ黒髪の少女。

 顎を引き、長い睫毛の揃った目を少し伏せがちにして教室内を窺うその顔には、見覚えがあった。

 その女子生徒を一度見た事がある分、私の驚きは他の皆んなよりも大きかったのかもしれない。

 先生に連れられ、今私たちの前に立っている少女は、先日私が職員室の前ですれ違ったあの女子生徒だった。

 お嬢さま然としたとても綺麗な人だったので、良く覚えている。

「あー、皆んなに新しいクラスメイトを紹介するぞ。彼女は、今日からうちのクラスの一員になる久条はるかさんだ」

 黒髪の少女、久条はるかさんが、先生の紹介に合わせてふわりとお辞儀をする。

 私たち他の女子生徒と何も変わりのない制服姿でただ頭を下げただけなのに、久条さんにはまるで、ドレスのスカートを摘んで膝を折って挨拶しているかの様な優雅さが漂っていた。

 はーっと、どこかの男子が惚けた様な声を上げるのが聞こえた。

 久条さんが頭を上げる。

 その瞬間、柔らかな微笑みを浮かべるその顔がこちらを向いた。

 私と目が合った。

 そんな気がした。

 目が合った瞬間、久条さんががすっと目を細める。

 それまで柔らかな表情を浮かべていた久条さんの顔に、一瞬挑発的で不敵な笑みが浮かんだ様な気がした。

 私は、思わずぞくりとしてしまう。

 ……何だか、強烈な既視感を覚える。

 彼女のあの表情に、私は見覚えがある……?

 私が眉をひそめながら混乱しているうちに、田邊先生は坦々と久条さんの紹介を進めていく。

「四月のこんな時期だが、久条さんはご両親の都合で急遽この秋陽台に編入する事になった。九条さんは編入試験も極めて優秀な成績でな。ここでは皆んなの方が少しだけ先輩となるが、お互い切磋琢磨、共に……」

 久条さんの紹介が、いつの間にか先生の訓示みたいになってしまっている。しかし、真剣にその話を聞いているクラスメイトは、殆どいなかった。

 みんな周りとひそひそ話ながら、久条さんに興味津津といった様子だった。

 お決まりの、新高校生なのだからより気を引き締めて毎日をすごすようにという台詞の後、挨拶するようにと田邊先生が久条さんを促した。

 体の前で両手で鞄を持った久条さんが、すっと一歩進み出る。

 ざわざわしていた教室が、すっと静かになる。

「久条はるかと申します。家の都合でこれまで遠いところにいました。至らぬ所もあるかと思いますが、一日も早くこの秋陽台高校に馴染める様、努力致します。どうぞよろしくお願い致します」

 久条さんが目を伏せ、すっと再び頭を下げる。

 田邊先生を始め、クラスの皆んなが拍手する。

 顔を上げた久条さんは、少し恥ずかしそうな微笑を浮かべた。

 見た目は落ち着いたお嬢さまといった感じで、美人で凛然としていて少し近付き難いのかなというのが久条さんの第一印象だった。でもそのはにかんだ表情は、年相応の、私たちと同い年の女の子のものに間違いなかった。

 凄い人が来たのではと、クラスの一部に漂っていた緊張感が、幾らか和らいだ様な気がした。

 少し戸惑っていた私も、ほっとする。

 ……久条さんが私を見ていたなんて、少し自意識過剰だったのかもしれない。

 田邊先生が久条さんの席をどこにしようかと話し始めると、私は一度窓の外に視線を移した。

 気を取り直すために、少し目を瞑って息を吐く。

 そして改めて教壇の方へと視線を戻した瞬間。

 再び、久条さんと目が合った。

 その瞬間、私はうっと気圧されてしまう。

 微笑を浮かべた久条さんは、真っ直ぐに私の方を見つめていた。

 気のせいなんかじゃない……。

 久条さんは、まるで獲物を見つけた虎とかライオンみたいに不敵な笑みを浮かべて、私を見据えていたのだ。

 ……えーと。

 えっと、これはどういう事だろう?

「じゃあ、久条さんの席はそこにするか」

 田邊先生の間延びした声が響く中、私の混乱は強まるばかりだった。




 久条さんの席は、教室の真ん中の列、やや前寄りの位置に決まった。

 もちろん、そんな場所に空き机があった訳ではない。

 久条さんが早くクラスに馴染める様にと気を利かせ、田邊先生が強引にそんな場所にしてしまったのだ。

 私の席からは、右やや前方の辺りになる。

 突然の転入生にクラスのみんながそわそわした状態のまま、1限目の授業が始まってしまう。

 私もチラチラと視界に入って来る久条さんの背中が気になってしまって、全く授業に集中する事が出来なかった。

 1限目が終わると、まずは一部の女子たちが意を決した様に久条さんに話し掛けた。

 それを皮切りに、久条さんの事が気になっていた生徒たちが、一斉に彼女を取り囲んだ。

 久条さんは、穏やかな表情を浮かべて皆の質問に答えていた。

 私は、すっと席を立つ。

 最初から、職員室の前で出会ったあの時から、久条さんには何だか睨み付けられている様な気がして、気軽に話しかける気にはならなかった。

 ……もっとも、そんな事がなくても、今の私が積極的に新しい友達を作ろうなんて事はしなかっただろうけど。

 私は久条さんを中心とした人だかりから少し離れて窓際の壁にもたれ掛かると、胸の下で腕組みをして、いつもどおり小さく溜息を吐いた。

 その私のもとへ、莉乃と明穂がやって来る。

 2人とも久条さんに興味があったみたいで、その周囲をぐるぐると彷徨っていたけれど、結局諦めたみたいだ。

「ふー、ダメだこりゃ!」

 私の前で大きく溜息を吐いた莉乃が、大げさな動きで額の汗を拭う仕草をした。

 その隣で、明穂が困った様な笑みを浮かべている。

「随分と人気者みたいね、久条さんは」

 私は久条さんたちの方を一瞥してから、莉乃を見た。

「そりゃーね。こんな時期に突然の転校生ってだけでも付加価値高いのに、容姿端麗の美少女だからね。皆んな興味津津だよー」

 何故か自慢げにむんっと胸を張る莉乃。

 美少女、か。

 確かにそれはその通りであるけれど……。

 私は少しだけ眉をひそめ、莉乃から視線を外す。

「うーん、やっぱり奈々子ちゃんはクールだね!」

 その私を見て、明穂が何だか嬉しそうに頷いている。

 やっぱり、朝のホームルームで見せた久条さんの表情が気になる。

 ……後で話を聞いてみた方がいいだろうか、やっぱり。

「そういえば朝の会の時、久条さん、ナナを見てなかった?」

 不意に、莉乃がそんな事を口にする。

 ちょうど私の考えていた事を言い当てられて、思わず私はうっと息を呑んだ。

「ナナ、久条さんと知り合いなの?」

 曇りのない純粋な目で質問を投げかけてくる莉乃。

 私は苦笑を浮かべ、小さく首を振った。肩口で揃えた髪がはらはらと揺れる。

「知らない、知らない。何だか見られていた気はするけど……」

「おお!」

 突然そこで、今度は明穂が声を上げた。

「お嬢さまみたいな久条さんとカッコいい奈々子ちゃん。良い……」

 何だかうっとりとした表情をする明穂。

 すかさず莉乃が、すとんっと明穂の頭を叩いて突っ込みを入れる。

 私は、はははっと軽い笑い声を上げながら、件の久条さんの方をちらりと窺った。

 久条さんを取り囲む人だかりから、楽しそうな笑い声が上がっている。どうやら久条さんは、人当たりも良いみたいだ。

 クラスメイトたちの間から、口元に手を当てて上品に微笑んでいる久条さんの姿が見えた。

 新しい転入生を迎えるという事態に直面し、少し緊張した空気が漂っていた教室が、いつの間にか笑い声と笑顔が溢れる朗らかな雰囲気に包まれていた。

 ……まぁ、新しいクラスメイトがいい子であるというのは、歓迎すべき事なのだけれど。

 私がそっと観察していると、不意に久条さんがこちらを見た。

「うっ」

 またもや目が合う。

 その瞬間、久条さんがむんっと微笑み、小さく頷いた。

 どうだっと今にも親指を上げそうな表情だった。

 私は反応に困り、眉をひそめる。

 しばらく視線を交わした後、私の方から目を逸らした。

 ……もう。

 いったい、何だというのだろう……。




 その次の休み時間もその次も、私たちの教室内は大体似た様な状況だった。

 皆んなは、久条さんも含めて楽しそうだったけど、意識して久条さんの方を見ない様にしていた私は、何だか落ち着かなくていつもよりもぐっと疲れてしまった。

 教室にいては気が休まらないので、お昼休みになると私は、莉乃たちとそそくさと中庭の定位置に避難し、ゆっくりとお昼にする事にした。

 空は綺麗に晴れ渡り、眩い日差しが葉桜の鮮やかな緑を照らし出していた。ついこの間まで、この木がピンクの花びらに覆われていたなんて信じられなくなる。時の移ろいというものは、本当にあっという間なのだ。

 ふわりと流れていく青葉の香りが混じった風が、微かに私や莉乃たちの髪を揺らしていく。その風にはついでに、食堂から漂って来る美味しそうな香りも混じっていた。

 私たちがいつもお昼を食べているのは、中庭の隅、講堂へと続く校舎裏の小径の入り口に位置する休憩スペースだった。

 小径から少し入り込んだ場所にベンチがコの字型に並んでいて、ちょうど居心地の良い空間を形作っていた。脇に大きな桜の木があって、校舎側から目隠しになっているのも評価ポイントだ。

 あまり目立たない場所なので、他の人がいる事もあまりなかった。私と莉乃と明穂は他に気兼ねすることなく、いつもその場所でのんびりとお昼の時間を過ごしていた。

 今日もそこに先客はおらず、私たちはおしゃべりしながらお昼を済ましてしまう。

 もっぱら話しているのは莉乃で、私や明穂は聞き役、ツッコミ役なのだけれど、今日の話題は、やはり久条はるかさんの事ばかりだった。

 私は気がつかなかったけれど、転入生の話が広まると、周囲のクラスからも見学者が来ていたらしい。

 美少女転入生現るの報は、既に校内をくまなく駆け巡っている様だ。

 私は食後のほうじ茶をごくりと飲んでから、ふーんと頷いた。

 皆、刺激に飢えてるんだなぁと思ってしまう。

 もっとも、新入生である私たちの学年でさえそうなのだ。既に高校生活に慣れ切っている上級生たちにとっては、格好の話のタネなのだろう。

 ……私も、これが他のクラスの、私に関わり合いの無い子の事なら、もう少し興味を持ったかもしれないけど。

 現状では、好奇心よりも混乱の方が大きいのが実情だった。

 お昼ご飯が終わると、莉乃と明穂はトイレに寄って行くというので、私だけ先に教室へと戻る事にした。

 次の日本史の授業では席順的に解答を指名される可能性があったので、少し教科書を見ておきたかったのだ。

 お弁当箱を手にしたまま、ざわざわと混み合っている廊下を進む。おしゃべりに興じている女子集団の脇を通り抜け、お昼休みももうあまり時間がないというのにどこかへ走っていく男子集団とすれ違い、階段を上がる。

 ひらひらとスカートを揺らして、中央階段から一年生の教室棟に向かう。

 お弁当箱を後ろ手に持ちながら角を曲がって教室前の廊下に出ると、廊下を行き交う生徒たちの向こうに背の高い男子の姿が見えた。

 駿太だ。

 廊下で何をしているのだろう。

 一瞬悩んだ後、私は、たまにはこちらから声をかけてやろうかなと思った。

 最近、2人で話す事もなかったし。

 ……まぁそれは、私が駿太と2人きりになるのを避けているからなのではあるのだけれど。

 私がパタパタと駿太の方へ向かって駆け出した瞬間。

 ブレザーを脱いでワイシャツ姿になっている駿太の隣で、ひょこっと黒い頭が揺れているのが見えた。

 思わず私は、はっとして立ち止まる。

 廊下にたむろする生徒たちの向こう、駿太の隣に立っているのは、私のクラスの転入生、久条はるかさんだった。

 久条さんは楽しそうに微笑みながら手を伸ばし、駿太の二の腕あたりをぺちぺちと叩いていた。

 駿太の方も少し恥ずかしそうに微笑みながら、満更でもない様子だった。いや、明らかに嬉しそうだった。

 その大きな体をわなわなと震わせ、今にも久条さんをがばっと抱き締めてしまいのではないかと思うほど満面に喜色を滲ませている。

 久条さんが優しく頷きながら、ニコリと微笑む。

 駿太が唇を引き結びながら、天井を仰いだ。

 それはまるで、ずっと離れ離れになっていた愛しい人と再会した、恋人たちみたいで……。

 ない!

 恋人とかそんなの、ある筈がない!

 ……でも。

 少なくとも2人は、今日初めて会った間柄には見えなかった。

 でも、私と駿太とは小さいころからずっと一緒なのだ。基本的に駿太の知り合いは私の知り合いだ。駿太と久条さんが知り合いだったという事はないと思う。

 という事は、昼休みまでは久条さんはずっとうちの教室にいた訳だから、駿太と久条さんが出会のはこの昼休みの筈だ。

 それなのに、いつの間にかあんなに仲良く……。

 私は、思わずむうっと眉をひそめた。

 久条さんは、お淑やかなお嬢さまみたいな雰囲気なのに、意外とアグレッシブなんだ。コミュニケーション能力が高いのかも知れない。

 ……駿太の方も、いつも人畜無害な熊みたいな、熊は熊でも熊のぬいぐるみみたいな奴なのに、あんな嬉しそうな顔をして。

 確かに駿太は体格も良く、顔もそんなに悪くないと思う。物静か過ぎるところはあるけれど、女子の間ではそれが落ち着いていて良いという話があるのも聞いた事がある。

 でも、初対面の女の子とあんなに打ち解けられる奴ではなかったと思っていたのだけれど……。

 私は廊下の真ん中で立ち止まったまま、少しの間考える。

 このまま前に進むべきか。

 踵を返して立ち去るべきか。

 ……いやいや、なんで私が逃げなくてはならないんだ。

 駿太が誰と仲良くしていようと関係ない。久条さんが私を見ようとも臆する必要はないんだ。

 ……そうだ。

 私はすっと息を吸い込んでから、大股で歩き始めた。

 ふわふわとスカートが揺れる。

 意識して、キッと前方を睨み付ける。

 すぐに駿太が私に気が付いた。

 駿太は私の顔を見るなり何が嬉しいのか、ぱっと顔を輝かせた。その隣で、久条さんも少し驚いたようなそぶりをしてから、やはり嬉しそうに私を見た。

 2人揃って同じような表情を浮かべ、私を見る。 

 ……もう。

 何なのだろう、いったい!

 駿太が何か言いたそうにしていたけれど、それを久条さんが引き止める。

 私はそんな久条さんを一瞥し、駿太をぎろりと睨み付けてからさっと視線を外す。そしてそのまま、さっさと2人の前を通り過ぎた。

 ……ふんっ。




 放課後。

 私はカバンを手に図書室の閲覧ブースを出ると、そっとため息を吐いた。

 朝から、今日は本当にばたばたとした1日だったなと思う……。

 もちろんその原因は、主にあの転入生、久条はるかさんにある。

 私はいつもより幾分ぐったりとしながら、図書室を出た。そのまま、通学カバンの持ち手に腕を通しながら、ゆっくりとした歩調で昇降口へと向かう。

 帰りのホームルーム直後は下校する生徒たちでごった返す廊下も、少しタイミングを外した今は静かなものだった。

 今日の帰りは、私1人だった。

 莉乃は何か用事があるとさっさと帰ってしまった。明穂は一緒に帰ろうと言ってくれたけど、今日は先に帰ってもらった。

 ……今日の私は、その、何だか皆んなと同じタイミングで帰りたくなかったのだ。帰り際駿太と一緒になってしまうのも、避けたかったし。

 ホームルームの後、いつの間にかクラスの女子の有志で久条さんと一緒に帰ろうという事になっていた。

 その話がこちらにも来そうだったので、私は用事がある振りをして、すっと図書室へと逃げ込んだのだ。

 幸い秋陽台の図書室は広くて綺麗で居心地が良く、私は図書室内をふらふらと探検し、時間を潰してから帰路につく事にした。

 ……でも、なんで私がこんな事をしなければならないのだろう。

 私はお昼に目撃した駿太のだらしない顔を思い出し、少し憮然とする。そして優雅に微笑む久条はるかの顔を思い浮かべ、むむむっと眉をひそめた。

 ……まぁ、1人で考えても仕方がない。今日のところは早く帰って休もうと思う。

 たんたんっと階段を降りて1階に向かう。

 音楽室のある上階からは、新人さんだろうか、ぷうっと気の抜ける不安定な金管楽器の音が響いて来る。昇降口のある前方からは、運動部員の男子生徒の気合いの入った声と、女子生徒たちの規則正しい掛け声が聞こえて来た。

 夕方の学校。

 いつもの私ならもうとっくに帰っている時間。まだ残って部活に励む人たちが沢山いるのだ。

 ……皆んな、一生懸命に打ち込めるものがあって羨ましいなと思う。

 私は……。

 脳裏に遼の顔がよぎる。

 何だか勝ち誇った様に私を見て、にかっと不敵に笑う遼の顔を思い出す。

 私は、ふっと小さく溜息を吐いた。

 どうするべきなんだろう、私は……。

 どうしたいんだろう。

 どうしたらよいのだろう、遼……。

 登下校時はいつも大混雑している昇降口も、今の時間は静かだった。

 斜めに差し込む西日が、ずらりと並ぶ生徒たちの下駄箱をオレンジ色に染め上げている。

 私はさっさと上履きをしまい、学校指定の茶革のローファーに履き替える。

 恋人同士なのか、楽しそうに話し込んでいる上級生の男女をやり過ごしてから、私も学校を出ようとした。

 その時。

「ナナ」

 昇降口の脇から、私のあだ名を呼ぶ声がする。

 女の子の透き通った声だ。

 莉乃かなと思ったけど、違う。

 この声は……。

 夕景に、夜の様な黒髪が舞う。

 私の方にゆっくりと歩いて来るのは、微笑をたたえたうちのクラスの転入生、久条はるかだった。

 私は、思わず怪訝な顔をして久条さんを見てしまう。

 帰りが一緒になるのを避けた筈なのに……どうして久条さんがここに?

 それにナナって、私をそんな風に呼ぶのは莉乃とか中学からの親しい友達くらいなのだけれど……。

 久条さんは男子生徒みたいに学校指定の鞄を肩に担ぎ、ふわふわと髪を揺らしながら大股で歩み寄ってくる。

 その姿は何だかワイルドというか荒々しいといか、お嬢さまみたいな外見の久条さんには似合わない仕草だった。

 困惑して反応出来ないでいる私の前に、久条さんが仁王立ちになった。

「待ってたんだぞ、ナナ」

 久条さんは悪戯っぽい微笑を浮かべながら、その大きな目で真っ直ぐに私を見た。久条さんの口調は、教室で他のクラスメイトと話していた時とは明らかに違っていた。

「さぁ、今日は俺と一緒に帰るぞ、ナナ。久しぶりになっ!」

 男子みたいな口調で、しかし外見上はふわりと優雅に微笑む久条はるかさん。

 ……えっと、俺?

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