第24話 私たちのアクシデント
久条はるかには魔女役が相応しいという私の提案に、クラスはざわざわと賑やかになる。
委員長の制止の声も虚しく、みんな好き勝手に文化祭で私たちのクラスが演じる事になった劇についてお喋りを始めていた。
ちらほらと聞こえてくる話題には、私が意見を出した事もあって、はるかの役に関する事が多いみたいだ。
当のはるかは、先程まで驚いた顔をして私を見ていたけれど、今は席の回りの女子たちに一斉に話し掛けられて、タジタジ状態だった。
委員長の隣に立つ寺島くんも、色々と質問を受けていた。
彼がこの劇の提案者であり、脚本も彼のオリジナルなのだ。みんな、その内容に興味津々なのだ。
「うん、確かに魔女役は久条さんがいいかも。このお話は、お姫さまと魔女のダブルヒロインだけど、騎士と一緒に戦う魔女の方が出番が多いし!」
寺島くんは、興奮した様に頰を紅潮させ、ちらちらとはるかを見ていた。クラスのみんなが劇にノリノリなのが嬉しいみたいだ。
脚本作者の意見により、では久条さんは魔女役で決まりだという様な空気が出来上がる。
はるかは少し困った様に眉をひそめて曖昧な返事をしているが、多分もう逃げ出すことはできないだろう。
本人もそれはわかっているみたいで、諦め混じりにため息を吐いている。
余計な事を言った恨み半分、この状況から助けて欲しいのが半分といった感じの微妙な表情で、はるかが私をちらちらと見て来る。
なんだか嗜虐心を刺激される様な表情だけど、今はとりあえず知らんぷりだ。
私がはるかを魔女役に押したのは、まずは格好だけでも魔法使いにする事で、はるかの気持ちに何か変化が起きないかと期待した為だ。
駿太が言っていた様に、どれだけ周りが背中を押しても、はるか自身が最初から諦めているなら、魔法使いだろうと何だろうとなれるものだってなる事は出来ないと思う。
もちろん私だって、魔女の役を演じたところではるかの何かが劇的に変わるなんて思っていない。
……でも。
このままタイムリミットがやって来てはるかと会えなくなるなんて、想像するのさえ嫌なのだ。
ならば今は、出来る事は何だってすべきだし、利用出来るものは何だって利用すべきだ。
「じゃあ、久条さんと一緒に戦う騎士は誰にするの?」
「主役、主役!」
「久条さんと肩並べても大丈夫な男子なんて、うちのクラスにいる?」
「よし、オレ様の出番だな!」
「どう考えてもいないっしょ」
「酷えっ!」
周囲の声を聞き流しながら、私は目を瞑ってふっと薄く微笑んだ。
どうやらはるかの魔女役は確定だ。
ここまでは、作戦通りだ。
後は事情を駿太にも話して、今まで以上にはるかの背中を押してやればいい。
この文化祭の劇のあれこれで、昨日のデートの気まずい出来事もうやむやになってしまうだろうし……。
「はい!」
賑やかな教室の中に、不意に高くて元気のいい声が響いた。
……ん?
私の思考は、その声によって中断させられてしまう。
「はい、もう、皆さん静かにして下さい! はい、じゃあ、城山さん、発言して下さい!」
委員長が教卓をダンダンと叩きながら声を上げた。
手を上げたのは、莉乃だった。
あれ。
この流れに、何だか私はデジャブを覚えてしまう。
「はい、委員長。久条はるかさんがヒロインの魔女なら、主人子である騎士には水町奈々子さんがいいと思います」
澄まし顔で莉乃が意見を口にする。
教室が、先程までとは一転してしんっと静まり返る。
……は?
一瞬私は、莉乃が何を言ったのか理解出来なかった。ぽかんと莉乃の方を見詰める事しか出来なかった。
「あ、なるほど!」
「男装かー。いいね!」
「男子がダメなら、確かに水町さんという手もあるよねっ」
「女の子同士、いい……!」
ダムが決壊したみたいに、みんなが一斉に勝手な事を言い始める。
かろうじて聞き取れた中で最後に聞こえて来た危ない発言は、多分明穂だろう。
教室の中は、再びうるさいくらいにざわざわと賑やかになった。
「私も、相方がナナなら安心かな!」
わざとらしくほっとした様な声を上げたはるかが、少し意地の悪そうな笑みを浮かべて私に視線を送って来る。
周囲から、私の騎士役について肯定的な意見が聞こえて来る。男子の間からも、誰か男子の1人が演じるくらいなら、女子である私でもいいかという声が上がっていた。
……むむむ。
私は、ぎゅっと手を握って眉をひそめる。
まずい。
先程はるかを魔女役に押した時と同じ様に、私の逃げ道は刻一刻と消滅へと向かっていた。
このままでは……。
何とか流れを変える為に私が反論しようとしたその時。
「盛り上がっているところ悪いが、そろそろ時間が終わるぞー」
ここまでずっと沈黙していた田邊先生が、間延びした声を上げた。
それを聞いた委員長が、ホームルームのまとめに入る。委員長は、何だか凄い疲れた様な表情をしていた。
……うぐ。
私は、騎士役を辞退するタイミングを完全に逸してしまう。
委員長に続いて、寺島くんが演劇に賛同してくれた事への謝意を口にする。そして、明日改めて脚本の原稿を全員に配布するから、是非読んで欲しいと続けた。
配役や、その他の細々とした分担は、生徒会や文化祭実行委員会に私たちのクラスの希望を提出し、許可が下りてから決めて行こうという事になった。
寺島くんの顔は、期待とやる気でキラキラと輝いていた。クラスのみんなも、不満よりも期待の方が勝っている様子だった。
チャイムが鳴る。
ホームルームはそれで終わりとなり私たちのクラスは通常態勢へと戻ったけれど、教室の中にはまだ興奮と熱気が微かに残ったままだった。
私とはるかは、そんな中でお互い不満と不安で眉をひそめながら、それをぶつけ合う様にじっと視線を交わしていた。
私たちのクラスが演劇をすると決まった翌日。
寺島くんから改めてクラス全員に脚本のコピーが配られた。
お話の内容は、お姫さまと騎士が魔王軍と戦い、世界の平和を取り戻すというファンタジーゲームみたいなものだった。
あらすじは、こんな感じだ。
あるところに、魔王軍の攻撃にさらされる小さな王国があった。
強大な魔王軍にそんな小さな国が立ち向かえる筈もなく、もはやその王国の命運は尽きたかに思われていた。
国の騎士たちは我先に魔王軍から逃げ出してしまい、王さまやお姫さまでさえ、絶望的な状況に希望を失なっていた。
しかしとある若い騎士だけが、国を守るために1人で魔王軍に立ち向かう。
その騎士の姿に心を打たれ、お姫さまは改めて国を守る決意をする。
強大な敵を前にしても決して屈しない騎士の姿は、魔王軍の手先になっいた森の魔女にも影響を与えた。
その魔女も故郷の森を攻められ、魔王軍に服従せざるを得ない状況にあったのだ。
何度もぶつかり合う内に騎士の心の強さに触れた魔女は、諦めずに魔王軍に立ち向かう心を取り戻す。
精神的な支えになってくれるお姫さま。
そして、共に戦う魔女。
2人の協力を得た騎士は、魔王軍へと決戦を挑む……というのが、寺島くんの書いたお話だった。
本当は大作小説並みの緻密な設定と重厚な物語があるらしいのだけれど、今回は文化祭の劇用にかなり短縮したそうだ。
それでも高校生が文化祭でやるちょっとした劇にしては、内容が複雑すぎる気がするけれど……。
私の中では、同じ劇をするにしても、童話とかもっとメジャーで簡潔な話でいいような気がしていた。衣装とか大道具とかにも、その方が手間もお金もかからないだろうし。
しかしクラスの大半は、この寺島くんの劇に乗り気みたいだった。
体育祭の時と同じで、口では面倒だとか文句を言っているけれど、みんなそれとなく劇の事を気にしている。
クラス全体が、何だか落ち着かないそわそわとした雰囲気に包まれていた。
そんな状態のまま次の週になると、各クラスの文化祭での出し物を決定する文化祭実行委員会を開かれた。
私たちのクラスが申請した演劇という出し物と体育館の舞台使用については、そこで生徒会と文化祭実行委員会により正式に認めらる事になった。
これは、まぁ予想通りの結果だ。
しかし予想以上に、私たちのクラスが演劇を行うという事が生徒会や先生たちの注目を浴びる事になってしまった。
あまり他のクラスがやりたがらない舞台での出し物を積極的に行い、さらに話題性のある演劇を行うという事が文化祭を盛り上げる事にもなると評価されているみたいなのだ。
実行委員会の後、生徒会長自ら私たちのクラスのホームルームにやって来て、協力出来る事は生徒会や各部活で出来る限りバックアップすると宣言された。生徒会としても、私たちのクラスには大いに期待しているとも……。
……まぁ、盛り上がるのはいいのだけれど。
普段の私なら一歩下がって状況を見ているところだけど、しかし残念ながら、今回は他人事では済ませられなかった。
何故なら。
結局、劇の主役の騎士役は、私になってしまったから。
……うぐぐ。
演劇の許可が下りた後のホームルームで、正式な配役についての話し合いが行われた。
そこで私は、はるかを魔女役にする事に成功したのだけれど、以前のホームルームと同様に騎士役は男子よりも私の方が相応しいと言い出した莉乃のせいで、私が騎士役に、という流れになってしまったのだ。
投票の結果、ほぼ満場一致で私が騎士役を務める事になってしまった。
魔女役のはるかは、ぱっと輝く様な笑顔を浮かべて、一緒に頑張ろっと私の肩をぽんぽん叩いていた。
笑顔ではあったけど、その可憐な顔には、ナナだけ逃すものかと書いてあった気がする。
……私は、もうため息しか出なかった。
私を騎士役に推薦した仕返しに、お姫さま役には莉乃が良いと提案してやったのだけど、これについてはあまり盛り上がらなかった。
どうも莉乃では、清楚で気高いお姫さまとキャラクターが合わない、という事らしい。
遠回しにそんな事を言われてお姫さま役を否定された莉乃は、残念でしたー、と私に勝ち誇った顔をしていたのだけれど……莉乃、それでいいのだろうか。
配役だけでなく裏方やそれぞれの各分担が決まると、衣裳や小道具の作成、そして役者の稽古など、やる事は山ほどある事に気が付いて、愕然となる。
しかし、学校全体の注目を集めてしまった以上、もう引き返す事は出来なかった。
それから連日、放課後には劇に向けた準備が始まった。
なんだか、体育祭のクラス対抗リレーの練習をしている時よりも忙しかった。
はるかの魔女役は、最初から素晴らしかった。
ちょっとツンっとして、男っぽいところのあるワイルドな魔女の役柄を、見事にこなしていた。
もっともはるかが元男子であると知っている私にとっては、少しだけ地を出しているだけの様に思えたけれど……。
それに対して私は、散々な状態だった。
台詞に抑揚がないとか目つきが鋭すぎるとか、少し怖いとか酷い言われようだった。
……怖いと言っていたのは、寺島くんだけだけど。
そんな事を言われても、演劇なんて、まして主役なんてやった事ないんだから、しょうがないと思う。
てんやわんやが続く忙しい毎日のせいで、週末になると私は、肉体的にも精神的にもへとへと状態だった。
土曜日。
本当は朝一番からアミリアさんの秘密の庭に出向いてはるかの花結びの訓練を監督しなければならないと思っていたのだけれど、私は自分の部屋で芝犬枕に突っ伏したまま、うとうとと居眠りをしてしまっていた。
やっとの事で起きて動き出したのは、もうお昼を過ぎてからの事だった。
ベッドの上でぺたんと座り込んだ私は、ふうっと息を吐いて髪を搔き上げる。最近きちんと髪を切っていないから、はるか程ではないけれど、私も伸びたなと思う。
「……私は、決して戦う事を諦めなどしない。この剣が折れるまで、退いたりはしないのだー」
まだぼうっとしたままの状態で、夢の中でも出てきた劇の台詞をぶつぶつと呟く。
……むう。
私はのそのそとベッドから下りると、丸テーブルの前に座った。そしてそのまましばらくぼうっとする。
たっぷり時間が経ってからもう一度深く息を吐いた私は、おもむろに鏡を引き寄せると、じっと自分の顔を見た。
髪を掻き上げておでこを出す。
劇の本番は、こうやってオールバックにしなければいけないみたいなのだ。
……男の人の役をやるなら、髪はもう少し短くした方がいいだろうか。
主役を演じるというのは重荷だし恥ずかしいし凄いプレッシャーだけど、皆んなから主役に相応しいのは私だと言ってもらえるのは、正直悪い気はしなかった。容姿を褒められるのも嬉しいし。
ただ、可愛いとか美人だという表現ではなく、かっこいいとか凛々しいという誉め言葉が多いのは、女子としてはどうかとは思うけれど……。
私は髪を上げたまま、顔を動かして角度を変えてみる。
うーむ……。
その時。
不意に、携帯が鳴った。
ドキリとしてしまう。
別に誰が見ている訳でもないのに、私は慌ててパタンと鏡を倒した。
うう、何をしているんだろう……。
私は、うぐっと肩を落とす。
気を取り直して、携帯を手に取る。
クラスメイトの前原さんから、メッセージが来ていた。
前原さんは、お姫さま役になった子だ。
小柄で癖っ毛でふわふわとした感じの可愛い子で、はるかと共に私のクラスの美人さんの代表だった。美人の方向性ははるかと少し違うけど、前原さんならなるほどお姫さまだなとみんな納得出来ると思う。
メッセージの内容は、どうやら月曜日の放課後に舞台衣装の採寸をするみたいだから、少し居残りして欲しいという根回しだった。
了解と返すと、はるかに連絡が取れないから、私から知らせる事は可能かと即座に返信が来る。
まぁ、あの秘密の庭にいては携帯は通じないからしょうがない。
前原さんには、はるかには私から伝えておくと答えておく。
……用事も出来たし、さて、そろそろはるかのところに行きますか。
私は重い体に気合を入れて立ち上がると、うんっと全力で伸びをした。
身支度を整えて、コートを羽織る。
マフラーをどうするかしばらく熟考したけれど、まぁいいやと私は1階へと下りた。
冬装備をするにはまだ少し早いと思う。来るべき冬本番の為に、今からそんな厚着は出来ない。それに、多分アミリアさんの秘密の庭は、今日もぽかぽかと暖かいだろうし。
私はキッチンに立っていたお母さんに友達の家に行って来ますと告げると、そのまま家を出た。
外は、やっぱり寒かった。空には薄く雲が掛かっていて、あまり天気も良くない。
そうだ。
私はコートの前を合わせながら、うむっと小さく頷いた。
どうせ花結びの練習をするのだから、駿太も連れて行こう。
私はとととっと直ぐ近くにある駿太の家に向かうと、呼び鈴を押した。
にこやかに出迎えてくれたおばさんが、直ぐに駿太を呼んでくれる。
だらしなく気崩したジャージ姿で眠そうな顔をした駿太は、私の話を聞くと、二つ返事ではるかのところに行く事を了承した。
5分もかからず、出掛ける準備をした駿太が出て来る。
男子のこういう身軽なところは、少し羨ましいなと思う。女子は、お出掛けするにしても色々と手順が必要なのだ。
駿太を誘ったのは、別にはるかと2人きりになるのが気まずかったからではない。
この前のデートでの衝突は、劇の準備に奔走している内にうやむやになってしまっていた。私とはるかは、今では特にわだかまりもなく普通に接している。
私とはるか、つまり遼は、もう長い付き合いだ。
遼とは今まで沢山喧嘩をして来たけれど、いつも自然と仲直りしてしまう。家族みたいに毎日一緒にいると、否が応なしにもそうなってしまうのだ。
それが気心の知れた仲の強みではあるけれど、問題点もある。
自動的に元の関係に戻る故に、根本的な問題の解決には至らないのだ。
今回もはるかは、アミリアさんの弟子になるのを諦めるという事、つまり、私や駿太の側にいる事を諦めるという考えを改めた訳ではない。
もちろん、私がそれを認めた訳でもない。
私もあのデート当日の動揺から立ち直ったし、本当なら改めて顔を付き合わせてきちんと話し合いたいと思っていたけれど……。
駿太と話をしてから、はるかも何か思うところがあったみたいなのだ。じっと何かを考え込んでいる様子を、最近よく見かけるし……。
それに、劇の練習で忙しい中、一応きちんと花結びの訓練もしている。
だから私は、今のところは、はるかの考えがまとまるまで少し待とうと思っていた。
あまりお尻を叩いてばかりでは、はるかを焦らせて混乱させる事になってしまうと思う。だからここは、どっしりと構えて待ってあげるのも、姉的立場にある私には必要な事だと思う。
駿太と並んでお休みの昼下がりの町を歩く私は、腕組みをしながらうんっと小さく頷いた。
タイムリミットの一年にはまだ時間がある。
……焦らずにいこう。
とりあえず、はるかの前で取り乱して泣くような事は、もう無い様にしなければ。
……うむ。
「何だか気合いが入っているな。文化祭の準備、順調なのか」
隣から低い声が響く。
駿太が、目だけで私を見下ろしていた。
「あ、うん、そっちね。えっと、まぁ大変かな」
私は、ははっと笑った。
「奈々子のクラスが凄い事するって、学校中の話題になってるからな。色々と大変そうだな」
駿太は、そこでニヤリと悪戯っぽい笑顔を浮かべた。
「その大注目の劇の主役が、うちの奈々子とはるかってのが凄いよな。関係ないのに嬉しいよ、俺。俺に出来る事があったら、なんでも言ってくれ。協力するからさ」
頑張れよっと私の肩をガシガシ叩く駿太。
その馬鹿力に、私の体がグラグラ揺れる。
うぐ、うちのって何だ。
何だかお父さんみたいな物言いが、少しだけ腹立つ。
「……そっちのクラスは喫茶店だっけ?」
私は駿太の手を弾き返すと、横目でその顔を見上げた。
「ああ、まぁな。喫茶店というか、ただの休憩所に毛が生えた程度のヤツだな。飲み物とかバリエーションはほとんどないし」
こちらのクラスもそれぐらいでよかったのになと思う。その方が文化祭を楽しめただろう。
「そういえばさ、金井さんが喫茶店のメニューに詳しいらしいんだよ。色々バイトしてるらしくて。ラテアートとかも出来るらしい」
「ふーん」
文化祭に関してお互いのクラスのあれこれを言い合いながら、私と駿太はゆっくりと、秘密の庭の今日の入り口へと向かう。
吹き抜ける風は冷たかったけど、お喋りをしていると気にならない程度だった。
……そういえば。
「駿太」
「ん、何だ」
私は手を振り上げると、少し背伸びをして隣を歩く駿太の後頭部をぽんっと叩いた。
「何だ?」
「寝癖、ついてるよ。こんなんじゃはるかに笑われるかもね」
今度は私がニヤリと笑う。
「う、そんなに跳ねてるか……?」
はるかの名前に、明らかな動揺を見せる駿太。
私はふふっと笑って駿太の少し前に出た。
何だか少し勝った気分になる。
よしよし。
アミリアさんからもらったペンダントの導きのおかげで、私たちは今日も無事に秘密の庭にたどり着く事が出来た。
黄金の秋色に染まった秘密の庭も、木々が徐々にその葉を落とし、冬の装いへと変わりつつあった。
常緑樹なんかは別に冬枯れしている訳ではないけれど、夏場は輝く様な緑に溢れていた庭園がどこか色あせて見えるのは、見る者の、私の感傷が入っているからだろうか。
それでも秘密の庭の空は、外とは違って今日も見事に晴れ渡っていた。気温も、コートが要らないほどぽかぽかと暖かい。
外と空が違うという不思議な現象には、もう慣れてしまった。むしろ、ここに来ると何だかほっとしてしまう。
秋野市の町中を歩いている時よりもゆったりとした歩調で、私と駿太は石畳の道をお屋敷へと向かった。
さらさらと爽やかな風が吹き抜けて行く。
私の髪がふわりと揺れて、コートの裾がひるがえる。
軽く目を閉じると、私は大きく息を吸い込んで深呼吸した。
最近は、この秘密の庭を訪れる機会が増えていた。体育祭以降、体調不良のはるかのお見舞いもあって、平日も休みの日もほぼ毎日くらいここに来てしまっている気がする。
……残念ながら、はるかの体調不良は、文化祭の準備期間に入った今も続いている。
何日も学校を休む様な事はないけれど、それでも定期的にはるかはお休みを繰り返していた。
はるかの体調不良は、私にとってアミリアさんの弟子になるためのタイムリミットと同じくらい大きな不安要素だった。
当のはるか本人が、特に問題なさそうにしているのが不幸中の幸いではあったけれど……。
お屋敷にたどり着いた私たちは、勝手知ったる様子で中に入る。
この古いお屋敷には、チャイムなんてついていない。大きな扉に古びたノッカーがあるだけだ。だから特に誰にも私たちの来訪を知らせる事はないのだけれど、自由に出入りしていいという許可はアミリアさんからもらっていた。
私と駿太は、そのまま2階のはるかの部屋に向かう。
その途中。エントランスホール中央の階段を上ろうとしたところで、私は左の廊下の奥に人の気配を感じた。
私やはるかが集まる事も多い、レストランみたいなホールがある方向の廊下だ。
そちらに目をやると、アミリアさんがこちらにやって来るところだった。
相変わらず古風な漆黒のドレスに身を包んだアミリアさんは、人形みたいに綺麗だった。
私たちは、直ぐに挨拶する。
軽く頭を下げながら、私は少し驚いていた。
アミリアさんの後ろには、見たことのない男の人がいた。
すらりと背の高い人で、お爺さんというにはまだ若そうだけど、お父さんよりは年上みたいだ。
白髪の混じった髪を丁寧にオールバックにして、高そうな黒いコートを身に付けている。暗殺者みたいな黒革の手袋をはめ、革靴はピカピカに磨かれていた。
アミリアさんと違ってその人は日本人に見えたけれど、秋野市の街中では見かけた事のない様な凄い気品が漂っていた。貴族という単語が自然に思い起こされる。
このお屋敷では、アミリアさんとはるか以外の人を見たことがなかったので少し緊張してしまう。
はるかが良く言っている使用人さんという雰囲気でもないし……。
「管理者殿。この子らが例の弟子候補のご友人かな?」
男の人が私たちに目を向け、口を開く。
低く、冷ややかな声だ。
「その通りだ」
アミリアさんの声も、負けず劣らず冷たい。いや、平板だ。
「ふむ。弟子の件も重要だが、我らの要請も忘れないでいただきたいな」
私たちに視線を送りながら、男の人はカツカツと足音を響かせて歩みを進める。
「了解している。この世界の意向は把握しているつもりだ」
男の人とアミリアさんは、こちらを一瞥して前を通り過ぎると、そのまま何事も無かったかの様にゆっくりと正面扉へと向かって行った。
「結構だ。猶予はあまりないと理解してもらいたい」
「久条公自らの来訪だ。その意味は了解している」
アミリアさんが扉を開く。正面玄関の扉の軋む音が、エントランスホールに響いた。
男の人とアミリアさんは、そのまま外へ出て行った。
バタンと重苦しい音が響き、扉が閉まる。
あれ。
今一瞬、久条って聞こえた気がしたけど……。
「行こう、奈々子」
アミリアさんたちが出て行った扉を見つめる私に、駿太が声を掛けて来る。
「……うん」
私は眉をひそめて視線を落とし、もう一度扉の方を一瞥してから階段を上がった。
どうやらアミリアさんたちの最後の会話は、駿太には聞こえていなかったみたいだ。
「あれ、アミリアさんのお客さんだよな」
「……そうだね」
「客なんて初めてだな。なんかあったのかな」
駿太もやっぱり、このお屋敷ではるかとアミリアさん以外の人を見た事に驚いている様だった。
私と駿太は、そんな事を話しながら改めてはるかの部屋に向かった。
はるかの部屋までの道のりは、既に通い慣れている。広いお屋敷の中でも迷う事はない。
お客さんの男の人の事、はるかに聞いてみるかと言いながら、駿太が廊下の中程にある部屋のドアノブに手を掛けた。
はるかの部屋だ。
駿太は、そのままガチャリとドアを開いた。
私も、駿太の脇から部屋の中を覗き込む。
その瞬間。
「はるか、来た……ぞぉぉっ!」
部屋の主、はるかに向けた駿太の言葉の最後が、悲鳴へと変わった。
あ。
私は、むっと眉をひそめる。
「え、あ、駿太? ナナもっ!」
部屋の中からも悲鳴に似た声が響く。
室内に設えられた大きな姿見の前に立っていたはるかは、顔だけをこちらに向けて目を丸くしていた。
はるかは、学校の制服以外では見た事がない短いプリーツスカートを履き、鏡の前でその裾を両手で持ち上げているところだった。
どうやらスカートを履いている自分を、ためつすがめつ観察していたところみたいだけれど……。
どうしてそんな事をしていたのかはわからないけど、短いスカートを持ち上げているから、シンプルな白い下着が露わになっている。
そのはるかの姿に目を奪われた駿太が、固まる。
はるかも突然の事態に、固まってしまっている。
まるで、私たちを取り巻く時間が止まったみたいだった。
駿太とはるかの顔が、同時に赤くなる。そして、同時にわなわなと小さく震え始めた。
……私も注意しなかったけれど、女の子の部屋に入るのにノックしないのが悪い。
はるかもあれだけスカートは嫌いだと言っていたのに、何をしているのだろう。
私はふっと短く息を吐いて、隣の駿太のわき腹を肘でどんっと小突いた。
「駿太、取り敢えず後ろ向く。はるか、スカートを下ろしなさい」
私は胸の下で腕を組むと、先ほどのアミリアさんたちみたいに冷ややかな声でそう告げる。
我に返った様に今更視線を逸らした駿太が、ぎこちない機械人形みたいな動きで後ろを向いた。
はるかは、はっとした様にスカートを離すと、その裾をぐっと抑えた。
「ち、違うんだっ、ナナ! 駿太が女の自覚を持てっていうから、だから試しでこんなのをっ!」
はるかが必死に弁明を始める。
その顔は、恥ずかしさからか真っ赤になってしまっていた。
別にはるかは今は女子なんだから、スカートを履いていてもおかしくない。ガン見していた駿太は有罪だけど、この場合はるかは被害者になると思うのだ。
しかしはるかは、駿太の方というよりも何だか私に見られた事を気にしているみたいだった。
「違うんだ、ナナ! 違うからな、俺!」
バタバタと手を振って声を上げるはるか。綺麗な黒髪が、その動きに合わせてふりふりと揺れている。
駿太は、部屋に入った時の驚愕の表情のまま、完全に機能を停止していた。
……うーん。
私は少しだけ首を傾げてふっと息を吐いた。
この様子だと、今日も花結びの訓練を始めるまで時間が掛かりそうだ。