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第2話 別離と邂逅

 お風呂から出た私は、タオルで頭を拭きながら自分の部屋へと向かう。

 髪が短いと、乾きやすくて助かる。もっと伸ばしていた中学の頃は、お風呂上りの後始末が本当に面倒だった。

「奈々子、出たの?」

「うーん」

 台所で夕食の片づけをしているお母さんにそう答えながら、スリッパも履かず素足のままとんとんっと階段を駆け上がった私は、そのまま2階の奥の自分の部屋に入る。そして、どんっとベッドに腰掛けた。

「ふうっ……」

 タオルを首に掛けたまま、ぱたりと倒れる様に横になる。

 私の部屋は、耳が痛くなるほどしんっと静まり返っていた。

 多分今はお父さんがお風呂だし、片づけ中のお母さんはテレビを消しているのだろう。下の階からの物音も聞こえてこない。

 網戸にした窓から、微かにどこかの犬が鳴いている声が聞こえて来る。表通りを走る車の音が、微かに響いて来る。

 静かな夜。

 夜のしじま。

 半乾きの髪を頰に貼り付けたまま、めくれ上がったパジャマ代わりのTシャツのお腹もそのままに、私はぼんやりと天上を見上げていた。

 窓からは、お風呂上がりの火照った体に心地よいひんやりとした夜気が流れ込んで来る。

 今日は、まだ四月だというのに昼間から少し蒸し暑かった。夜になると、幾分か涼しくなって来たけれど。

 昼間は、もうクーラーが欲しいって莉乃が騒いでいた。

 私は、すっと目を細める。

 春先のこの暑さは、どうしてもあの日を思い出す。

 ……今晩は、まるであの事件があった夜みたいだ。

 あの日も、五月にしては暑い日だった。

 ゴールデンウィークが、1年前のあの日が近付いて来るにつれて、私はどうしても遼の事を意識せずにはいられなかった。

 ごろりと体を横にする。

 ふわりと一瞬、ボディーソープの香りが漂う。

 私は、ふと窓の外に目を向けてしまう。

 そこには、家から少し離れたところに立っている街灯の淡い光の向こう、黒々とした山のシルエットが見えていた。

 ずきりと胸が痛む。

 きゅっと唇を引き結ぶ。

 ……私の部屋から見えるあの山こそ、あの事件の舞台。

 あの不思議な、今となっては当事者の私でさえ夢ではなかったのかと思えてしまうあの事件が起こった場所だった。

 ……ううん。夢なんかじゃない。

 あの事件のせいで、遼は……。

 昔、この秋野市が街道沿いの宿場町として栄えるよりもずっと前から、神社や山城が置かれていたと言われている日置山。

 あの日。

 ゴールデンウィークの最後の日の夕方。

 3人で暇していた私たちは、いつの間にかその日置山に登ろうという話になっていたのだ。




「探検なんてドキドキするな!」

 日に焼けた顔に短く髪を刈った宮下遼は、私と駿太の方を向くと、いかにも悪ガキといった表情でニカっと笑った。

 少し大きめのTシャツにやはりダボっとしたハーフパンツを履いた遼は、後ろ向きになりながら器用に日置山の山頂に向かう坂道を上がっていた。

「小学生以来かな。前は良く来たよな、ここ」

 駿太が楽しそうな笑みを浮かべながら、遼の後に続く。

 当時まだ髪の長かった私は、女子化キャンペーンの一環で愛用していた膝丈のスカートを揺らしながら、2人からやや遅れて坂を登っていた。

「探検とか冒険とか、まったく2人とも、小学生と変わらないんだから!」

 その日は蒸し蒸しと暑くて、私の額には汗が滲んでいた。

 性に合わないスカートへの苛立ちも相まって、私は遼や駿太にぶーぶーと文句を言う。

「ははは……」

 駿太が困った様に笑い、遼が悪戯っぽく笑う。

「何だよ、ナナだって見たいって言ったじゃないか。なぁ、駿太」

 遼が軽快にステップを刻みながら、砂利敷きの坂道を駆け上って行く。

「噂になっている日置山の謎の怪鳥、いるなら見て見たいだろ!」

 遼は挑発する様に不敵な笑みを浮かべて私を見ると、くるりと身をひるがえして坂道を駆け上がるスピードを速めた。

 日置山に、未知の巨大な鳥がいる。

 そのころ、私たちの通っていた中学も含めて、秋野市の一部にはそういう噂が広がっていた。

 最初は子供や噂好きの奥様方の間で広まっていた話だったみたいだけど、いつの間にかそれは市役所や地元の警察をも巻き込んだ大掛かりなものへと変わり、秋野市民の間にちょっとした動揺をもたらしていた。

 曰く怪獣だとか未確認生命体だとかいう眉唾な話から、どこかの動物園から逃げた孔雀だとかハシビロコウだとか、色んな説が駆け巡っていた。

 ランニングしている人が見かけたとかお散歩途中のお年寄りの頭上を飛んでいたとか、真偽のわからない目撃情報が飛び交っていたのだ。

 挙げ句の果てには、日置山の向こうで謎の発光現象があったという話もあり、あれはきっとUFOに違いないという、もはや怪鳥とは関係ない盛り上がりさえ見せていた。

 ゴールデンウィーク最後の日の夕方。

 どこかに遊びに行くにはもう時間がないけれど、このまま連休が過ぎ去ってしまうのも何だかもったいなくて嫌だなと思っていた私たちは、何しようかという話から、いつの間にか日置山の怪鳥を探しに行こうぜっという事になっていた。

 もちろん、私たちだってもう中学生だった訳だし、本当にそんな鳥がいるとは思っていなかった。

 ただいつも通り、3人でわいわいとお休みの日の貴重な時間を過ごしていたかっただけなのだ。

 日置山の頂上に向かう坂道は、一応は山頂にある小さな公園へ向かう遊歩道として整備されていた。

 ただ市民の憩いの場にしてはあまり手入れされておらず、道脇からは草がぼうぼうに伸び、頭上には鬱蒼と木々の枝葉が生い茂っていた。それに、舗装されていない砂利の坂は、散歩をするには滑りやすかった。

 時折その道の上に、木々の合間から差し込む黄金色の夕陽が、輝く斑らの模様を描いていた。

 私は腰の後ろで手を組みながら、その模様をそっと避ける様に足を動かし、遼と駿太の後を追い掛けていた。

 木々の向こうには、だんだんと夕景に包まれる秋野市の家々の屋根が見えていた。

 怪鳥騒ぎなんて起こっているけど、日置山はそんなに険しい山ではない。

 市街地に密接した、人の出入りがある山だ。

 おしゃべりをしながら適当な経路をぐるぐると歩き回ったけれど、案の定怪鳥なんて見つかる筈もない。

 少し疲れた私たちは、山頂近くにある元お城だか神社だかの跡地に作られた狭い公園に落ち着いた。

 その場所は、私たち3人のお気に入りの場所だった。

 昔から私たちは、特にする事もない時はこの場所までやって来て、適当に時間を潰していたものだ。

 こんな山の上では他にやって来る子供もあまりいなくて、この公園は私たち3人の秘密基地の様になっていた。

 あの時も、日が落ちて眼下に広がる住宅街が夜景に変わってしまうまで、私たちはその山上公園にいた。

 何を話したのだろう。

 今となっては良く覚えていない。

 ただその日の夜景はいやに綺麗に見えた気がして、傾いた古いベンチに腰掛けた私は、遼と駿太のバカ話から抜け出して、その慣れ親しんだ町の風景を何となくぼうっと見ていた記憶がある。

 きらきらと広がる町の明かり。

 私たちの暮らす町の風景。

 ベンチに片足を上げ、その足を抱える様にして微かに首を傾げ、じっとそれを眺めていると、ふと視線を感じて振り返る。

 そこには、こちらもやはりぼうっと私を見ている遼と駿太がいた。

 2人とも同じ様な惚けた様な表情で、じっと私の方を見つめていた。

 その顔が馬鹿っぽくて何だか可笑しくて、私はふっと笑ってしまった。

「何?」

 私がそう声を掛けると、2人は揃って顔を赤くしてそっぽを向いてしまった。

 その姿がやはり面白くて、私はケラケラと笑ってしまう。

 ここまでは、私たち3人の日常の風景だった。

 ここまでは……。

 そのままだらだらと時間が過ぎて、さすがにもうそろそろ帰ろうかと話し始めた頃。

 唐突に、それは起こったのだ。

 所々にぽつぽつと立つ街灯に照らされた日置山の山上公園に、突然奇妙な鳴き声が響き渡った。

 びくりと身を竦ませる。

 私たちは、思わず顔を見合わせた。

 一瞬頭の中が真っ白になった後、最初は、近くに雷が落ちたのかと考えた。又は、飛行機が落ちて来たとか古くなった大木が倒れたとか、色んな考えが駆け巡る。

 しかし2回目の声が響き渡り、山の木々がざわりと揺れた瞬間、私はそれが噂の怪鳥の声なのだと思い至った。

 遼や駿太も、同じ結論に達した様だった。

 3人同時に、顔が青ざめた。

 背中に氷を入れられたかの様にひんやりとした悪寒が走り、胸の奥が騒ついた。

 心臓が100メートル走の後の様にドクドクと震える。

 逃げなきゃと思った。

 逃げなきゃ、ここにいては危険だと思った。

 私と遼と駿太はお互い顔を見合わせて、次の瞬間には私たちの家の方へと下る坂を駆け下り始めていた。

 遊歩道にも所々に街灯があるとはいえ、暗い坂道が私たちの恐怖心をさらに煽った。

 その上、砂利が敷かれた坂道は走りにくい。油断すると滑って転んでしまう。

 しかしそんな事を気する余裕もなく、私たちはとにかく麓へと急いだ。

 街灯がない暗闇に飛び込み、そしてその中から飛び出した瞬間。

「え……?」

 ふと気が付くと、周囲が斜面から平地に変わっていた。

 山の下にたどり着いたのか?

 ……いや、違う。

 私たち3人は、いつの間にか周囲を鬱蒼とした大木に囲まれた暗い池のほとりに立っていた。

「遼、駿太……!」

「駿太、どこだ、ここは!」

「わ、わからないけど……」

 みんな同時に、混乱した声を上げた。

 思わず私は、隣にいた遼の腕にしがみ付いてしまった。

 遼が私を守る様に引き寄せてくれた。その私たちの前に体の大きな駿太が立ちはだかり、周囲を見回した。

 そこは、私たちの知らない場所だった。

 日置山の山頂から麓までは基本的に一本道だ。暗くても迷う事なんてない。仮に迷ったとしても、小さい頃から探検し尽くして来た日置山だ。こんな池があれば、知らない筈なんてなかった。

 その池に漂う不思議な雰囲気は、今でも忘れる事が出来ない。

 周囲の木々は奇妙に捻じれ、しかし日置山で見る事が出来るどの木よりも遥かに太くて巨大だった。そしてその中心に広がる池は、まるでコンパスで描いた様な綺麗な円形をしていた。

 全く波の立っていない池は、鏡の様に周囲の森と星空を写していた。

「あれ、空!」

 私は思わず声を上げてしまう。

 池に映り込んだ夜空には、見た事もない程無数の星々が輝いていた。

 今にも溢れて来そうな満天の星空。

 星が爛々と輝いているその音までもが、今にも聞こえて来そうだった。

 周囲は、空気が凍り付いてしまったかの様に静かだったと思う。

 私たちの周りに広がっていたのは、何だか体が宙にい浮いているかの様に居心地の悪い、非現実的な光景だった。

 私たちはどうしていいのかわからず、3人でぎゅっと固まっていた。あまりにも突然の異変に、みんな言葉を失っていた。

 その時。

 再び、雷鳴の様なあの鳴き声が響き渡る。

 そして。

 今まで作り物の様に微動だにしなかった池の表面が、ゆらりと揺らいだ。

 その次の瞬間。

 星を映す水面を押し破る様に、池の中から巨大なモノがぬっと姿を現した。

 それは、巨大な赤い鳥だった。

 動物園で見た象やキリンなんかよりも遥かに巨大だ。大型のバスよりもさらに大きいかもしれない。

 あの時はただ恐ろしかっただけだけど、後になって思い返すとその鳥は、鷹や鷲みたいな猛禽類ではなく、ひょろりと長い首と長い嘴をした鶴とか鷺みたいな感じだったと思う。

 それまで池に潜っていたからだろうか、その巨大な鳥の体はテカテカと輝いていた。まるで、金属で出来ている様な質感だった。

 さらにその体は、全体的に淡く赤く輝いていた。

 微妙に色味の違う赤い羽が幾重にも折り重なっているその姿は、まるで炎をまとっているかの様に刻々とその赤の色相を変化させていた。

 赤い鳥が、ゆったりと体を伸ばす様に首と翼を広げる。

 巨大な翼やその頭部からは、複雑な形状をした飾り羽が幾本も飛び出していた。

 再び鳥が声を上げる。

 やはりあの雷鳴の様な声は、この巨大な赤い鳥のものだったのだ。

 暗い巨木の森と満天の星空を背景に、その鳥は黄金の鋭い目でゆっくりと私たちを睨みつけた。

 あの時。

 その美しも異様な姿を、私は呆然としながら見上げる事しか出来なかったのだ。




 そこからの私の記憶は曖昧だった。

 遼か駿太が逃げろと叫び、私たちは一目散にあの赤い怪鳥に背を向けて森の中へと逃げ出した。木々の根に躓きながらも、必死に走った。

 でも私たちのすぐ後ろからはあの雷鳴の様な鳴き声が続けて響き、嵐の様なゴーゴーという音が聞こえて来た。それが私たちを追い掛けてくる赤い鳥の羽ばたき音だと気が付くのに、そう時間は掛からなかったと思う。

 私は、恐怖で頭の中が真っ白になっていた。

 その時。

「行け、駿太! ナナを守れ!」

 遼がそう叫ぶのが聞こえた。

「遼!」

 私が悲鳴の様な声を上げた時には、遼は既に踵を返して怪鳥の飛んで来る方向に向かって行く所だった。

 ……その遼の背中が、未だに脳裏から離れない。

「遼!」

 私はもう一度叫んで、遼を引き留めようとしたと思う。

「奈々子!」

 その私をしかりつける様に叫んだ駿太が、私の手を取って走り出した。

 走り去る遼。

 それが、私と駿太が目撃した、元気な遼の最後の姿だった。

 ぼうっとあの日の出来事を思い出しながら秋陽台高校の廊下を歩いていた私は、髪をかき上げてからその手で顔を半分覆うと、ふうっと長く深く溜息を吐いた。

 立ち止まりしばらく俯きながら、気持ちを切り替える。

 少し目を瞑ってから今度は後頭部の髪を撫で付け、私は再び歩き出した。

 昨夜はきちんと髪を乾かさないまま、日置山を眺めながらいつの間にか眠ってしまった。そのせいであの事件の夢は見てしまうし、髪には変な寝癖が付いてしまうし、今日の私は文字通りボロボロの状態だった。

 ……まったく。

 今朝も、朝から新学期の爽やかで気持ちの良い青空が広がっている。

 それに対するには、私のコンディションは最悪の状態だった。

 心も体もどんよりと重い。

 しかしそういう時に限って、面倒事というのはやって来るものなのだ。

 私は登校してからずっと、莉乃や明穂のおしゃべりに乗る事もなく机に突っ伏していた。しかし一限目の英語が始まると、担当の先生が私に、職員室に忘れた資料を取って来て欲しいと言って来たのだ。

 ……何故私に。

 確かに今日は、私が日直だ。でも、もう一人男子もいる訳だし……。

 こうして私は、授業中で人気のない廊下をふらふらと職員室へと向かう事になったのだ。

 周囲が静かだと、ついつい昨日の夢、あの1年前の事件を思い出してしまう。

 ……遼が怪鳥の気を引く為に囮になった後どこをどうやって逃げたのか、私は気が付くと病院のベッドの上だった。

 お父さんやお母さん、事情を聞きに来た警察の人の話によると、私と駿太は日置山に入った日の次の朝、家があるのとは反対側の麓の谷で気を失って倒れていたそうだ。

 私たちは、ちょっとした擦り傷があるだけで特に体に異常はなかった。

 でも……。

 遼が見つかったのは、私たちが保護されてからさらに2日後の事だった。日置山からさらに奥へと分け入った山中で見つかった遼は、意識がなかった。

 目立った外傷はなかったみたいだけど、遼はその後もずっと眠ったままだった。

 遼のお父さんとお母さんは大きな大学病院に行ってみたり色々な検査を試したみたいだけれど、結局昏睡の原因はわからず、遼が目を覚ます事はなかった。

 それは、今も続いている……。

 もちろん私と駿太は、周囲の大人にも警察の人にも怪鳥な事を話した。あの山の中で何があったのか、何度も何度も説明した。

 でも、誰もそれを信じてくれなかった。

 時間が経つにつれて皆んな、まるで腫れ物を扱うかの様に私と駿太にあの時の事を尋ねなくなった。遼のご両親からは、逆に遼の事は気に病まない様にと慰めらるくらいだった。

 遼のお父さんもお母さんも、遼と一緒で明るくて気さくで優しい人だったから……。

 それなのに私は、こんな事になったのが気まずくて申し訳なくて、遼のご両親とも段々疎遠になってしまった。遼のお見舞いだって、最初の数度だけで、遼が遠方の大きな病院に転院すると、行かなくなってしまった。

 そんな事もあって、私の中では遼に対する罪悪感が日に日に大きくなっていた。

 ……あの日の夢を見た翌朝は、特にそうだ。

 いっそざわざわとした休み時間の廊下なら、まだ余計な事を考えなくて済んだのかもしれないけれど……。

 私は後頭部の寝癖を撫でつけながら目を伏せ、もう一度ふうっと大きく溜息を吐いた。

 我ながら、溜息が多くなってしまったなと思う。

 ……ホントに。

 重い足取りで職員室に辿り着く。あまりのろのろしていると、英語の先生に何を言われるか分かったものではない。

 扉の向こうから、ざわざわとした人の気配が伝わって来る。

 私が職員室の戸を開けようとした時、タイミングよくもう一方の出入り口から誰かが出て来た。

 なんとなくそちらに視線を向ける。

「失礼致します」

 涼やかな女性の声が、凛と響く。

 思わず私の視線は、職員室の中から現れたその女性へと吸い寄せられた。

 そこには、腰まで届きそうなほど長い、はっとする程綺麗で艶やかな黒い髪の少女が立っていた。

 彼女は、白のラインが入った緑のリボンに胸と腕に校章の入った紺地のブレザー、同じく紺のスカートを身に付けていた。

 つまり、私たち秋陽台の制服だ。

 すっと背筋の伸びた大人びた雰囲気に、一瞬大人の女性かと思ってしまったけれど、どうやらうちの学校の生徒みたいだ。

 でも、こんな綺麗な人が秋陽台にいたのかと思ってしまう。

 黒髪の少女はふわりと髪を揺らし、こちらを向いた。そして濃いめのストッキングを履いた長く優美なラインを描く脚を動かし、私の方へと向かって来た。

 少女の歩みに合わせて、スカートと背中の黒髪が揺れる。

 そのモデルさんみたいに整った綺麗な顔が私を捉える。意志の強そうな光をたたえた大きな瞳と、ふと目があってしまう。

 その瞬間。

 黒髪の少女が大きく目を見開き、歩みを止めた。

 呆然とした様子で、じっと私を見つめて来る。

 どうやら、私の姿に驚いているみたいだ。

 先ほどから黒髪の少女を観察していた私は、職員室の扉に手を掛けたままその場を動いていない。別に突然現れた訳でもないので、彼女を驚かせる様な事はしていないと思うのだけれど……。

 私と、その少女の視線が交錯する。

 何故が、ドキリと胸が震える。

 黒髪の少女は、しかし直ぐに驚きの表情を消してしまった。そして今度は、私を見ながらふっと不敵に微笑んで見せた。

 え、えっと……。

 どう反応していいかわからずに眉をひそめる私をよそに、その少女は再び軽快に歩き始める。

 すれ違う瞬間。

 絹糸の様な黒髪がふわりと舞う。

 甘く、だけど爽やかな香りがふっと鼻腔をくすぐる。

 私は思わずその姿を目で追い掛けてしまうが、黒髪の少女はこちらを振り返る事もなく颯爽と廊下の先へと消えてしまった。

 ……なんだったのだろう。

 可愛いというより綺麗という表現がぴったりの人だった。

 落ち着いた雰囲気だったけど、上級生だったのかな……。

 どこかで会った事でもあったっけ……?

 私は何か引っかかるものを感じながらも、先生から言われたお使いを果たす為に、改めて職員室のドアに手を掛けた。

 そこで私は、あの遼の事件の夢を見た心の重苦しさがいつの間にか消え去ってしまっている事に気が付いた。

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