第13話 タイムリミット
夏休みの朝。
開け放った窓からは、気温の上がる前の爽やかな風が吹き込んで来る。
2階にある私の部屋は、もう少し時間が経てばクーラーに頼らざるを得ないけど、今はまだそれほど暑くなかった。
本当は、この朝の内に少しでも夏休みの宿題を進めておくべきなのだろうけど……。
私は未だ手付かずの問題集の上にころりとシャーペンを転がしてふらふらと立ち上がると、崩れ落ちる様にベッドへと倒れ込んだ。そしてそのまま、芝犬型の抱き枕を抱き締める。
「うーん……」
ぎゅっと目を瞑ると、勝手に呻き声が漏れてしまう。
脳裏に浮かぶのは、アミリアさんのお屋敷のバルコニー。薄明かりの月下、こちらを見つめる久条はるかの姿だ。
「うぐぐぐ……」
私は、芝犬枕にぐりぐりと顔を押し付ける。
……もう3日も前の事なのに、思い出すだけで胸の奥がきゅっとなって、全身がふわふわとして来る。顔が熱くなって、何故かじんわりと涙が滲んでしまう。
私は……はるかに告白されてしまった。
他人から見れば、女の子が女の子に告白するなんておかしな事に思えるかもしれないけれど、実際ははるかは遼なのだ。
小さい頃からずっと一緒だった宮下遼。
つまりは、遼が私の事を、その、す、好きだと言ってくれた訳で……。
「うぬぬ、うぐぐ……!」
……正直に言えば、嬉しかった。
私も、多分遼の事が好きだったから。
あの告白の時、思わずはるかを抱き締めてしまったのは、私の中に確かにそういう気持ちがあったからだと思う。
こうして遼から、はるかから告白してもらって、そんな自分の気持ちを改めて見つめ直す事が出来た。
遼は、はるかは、私にとって大切な人だ。
……でも。
私は芝犬枕を抱き締めたまま仰向けになると、パタンと両腕を開いて大の字になった。そして、じっと自分の部屋の天井を見つめる。
舞い上がってドキドキして何も考えられない私がいるのと同時に、冷静な部分の私は、色々な不安要素を告げて来る。
例えば、遼の好きに応えてしまったら、今までの私たちの関係が壊れてしまうのではないかという事だ。
遼と駿太と私の関係は、少なくとも私にとっては、本当の家族と同じくらい大切なものだった。それが、何か別の形へと変化してしまう事が何よりも恐ろしい。
遼がいなくなってしまった時の様な喪失感は、二度と味わいたくない。ましてやそれが、私のせいで起こってしまうなんて事は、あってはならない事なのだ。
他にも、私とはるかが同性だという問題もある。
仮に私たちの関係に影響がないとしても、遼の今の姿は黒髪の少女である久条はるかなのだ。その、お、お付き合いするにしても、ただ一緒にいるにしても、世間的には私たちは女の子同士だ。
私には、その事を受け入れる覚悟があるのだろうか?
わからない。
どうしたらいいのだろう。
どうすればいいのだろう。
私は、どうしたいのだろう。
私の目を真っ直ぐに見つめ、自分の想いを告げてくれたはるかの姿を思い浮かべてしまう。
俺はお前が……。
「ああ、もうー!」
あの瞬間を思い出すだけで、頭の中が真っ白になってしまう。やっぱり、何も考えられなくなってしまう。
私は顔の上に芝犬枕を乗せて、きゅっときつく目を瞑った。
そのまましばらく、ベッドの上をゴロゴロと転がる。
転がりながら、机の上に置きっぱなしの携帯をちらりと一瞥する。
はるかから告白を受けた日、ふらふらになりながら、しかし表面上は駿太に気取られない様に平静を保って家に帰って来てから、私はほとんど携帯を見ていない。
もしもはるかから何か連絡があったらどう答えていいのかわからないし、携帯をいじっていると、逆にこちらから変なメールやメッセージを送ってしまいかねないと思うのだ。
……あの秘密の庭にいる限り、はるかは圏外なのだけど。
「……はぁ」
「……子」
今が夏休みで良かったと思う。
こんな状態では、どんな顔をしてはるかに会えばいいのかわからない。それに、駿太や莉乃たちにいつまでも隠し通せる自信もないし……。
私はベッドの上でうつ伏せになると、ギュムっと顔を芝犬枕に押し付けて静止する。
じっとしていると、胸の奥の鼓動がトクトクと普段よりも早く鳴っているのがよくわかる。
「奈々子!」
不意に、お母さんの声が響いた。
私は、ドキリとしてガバっと勢いよく起き上がる。そして、ぺたんとベッドの上に座り込んで周囲を見回した。
「さっきからずっと呼んでるのに、何してるのよ、あんたは」
半分開いた扉から、呆れ顔をしたお母さんがこちらを見ていた。
さっきまでの葛藤、見られた……!
これまでとは別の意味で、顔面がカッと熱くなる。
「も、もう! ノックくらいしてよね!」
私は胸元に芝犬枕を引き寄せるとぎゅっと抱き締める。そして、むうっと上目遣いにお母さんを睨み上げた。
「したわよ、何度も。それより、駿太ちゃんが来てるわよ。リビングで待ってもらってるから」
早く来なさいねと告げて、お母さんはあっさりと扉を閉めた。
駿太……何だろう。
いずれにしても、はるかの事、気取られる訳にはいかない。今はまだ……。
私は大きく深呼吸をすると、しばらくきゅっと目を瞑ってからベッドを降りた。抱き締めたままだった愛用の芝犬型抱き枕は、ベッドの上にそっと返しておく。
ささっと髪型を手櫛で整えながら、私は階下のリビングへと向かった。
Tシャツに短パンという人前に出られる様な格好ではなかったけれど、待っているのは駿太だから別にいいだろう。
どこに行ってしまったのだろうか、お母さんの姿は見当たらなかったけれど、リビングに入ると、ソファーの上にまるで我が家にいるみたいに堂々と腰掛けた駿太が待ち構えていた。
「おはよう、奈々子」
剥き出しの私の足へと視線をやりながら挨拶する駿太。その前には、山盛りのお菓子やジュースが並んでいた。
お母さんだ。
昔からお母さんは、駿太や遼がやって来るとやり過ぎだというくらいもてなそうとするのだ。
「おはよう」
私は努めて素っ気なく挨拶すると、そのままぽすっと駿太の対面に腰掛けた。
「で、どうしたの?」
「ああ、奈々子、携帯見てないのか? 城山から、奈々子から返信がないからって、俺に見てこいって連絡があったんだが」
駿太が眉をひそめて、心配そうに私を見る。
……む。
そういえば、あの日から携帯は見ない様にしているんだった。はるか以外から何か連絡があった時のこと、何も考えていなかった。
今まで、それどころではなかったから……。
私が顔をしかめていると、駿太はふっと息を吐いた。
「……その様子だと、はるか、ちゃんと言ったんだな」
そして、低い声でそうぼそりとそう呟いた。
私は、ドキリと身を震わせて駿太を見る。
「駿太、知ってるの!」
思わずそう声を上げてしまう。
言ってしまってから、今の台詞は、はるかから告白された事を認めてしまったも同然のものだったと気が付く。
……墓穴だ。
でも、駿太は特に驚いた風もなく静かに深く頷くだけだった。
「……あいつがどんな風に言ったかはわからないが、それはあいつなりに深く悩んだ結果なんだ。奈々子がどう思うかはあれだが、無碍にはしないでやって欲しい」
私から視線を外して、ゆっくりと噛み締める様に言葉を紡ぐ駿太。
最初は、複雑そうな何かを悩んでいる様な表情だったけど、直ぐに駿太は、多分はるかを思い浮かべているのだろう、少し遠い目をした優しい表情になっていた。
……何だか、はるかを大切に思っているのが良くわかる様な顔だった。
駿太は、もともと優しい奴だ。
遼に対してもはるかに対しても、駿太なりに気を遣ってくれているのだと思うけど……。
私がじっと見つめていると、こちらの視線に気が付いてはっと顔を上げた駿太が、ギリギリと気まずそうに私を見た。
「いや、その、何かな……」
大きな体を小さくして、少し慌てた様にもごもごと繰り返す駿太。時折チラチラと、窺う様に私を見る。
明らかに動揺している様だ。
私は、ふっとため息を吐いた。
「駿太。はるかが気になるの?」
私はそこで、ふと思い付いたそんな事を口にしてしまっていた。
何でそんな事を思ってしまったのかわからない。もしかしたら、私自身がずっと好きとかどうとか、そういう恋愛的な事をずっと考えていたからかもしれない。
駿太は一瞬呆然とした様子だったけれど、直ぐにキッと私を睨み返して来た。
少し、顔を赤くして。
「ば、馬鹿な事言うな! 俺だってあいつとおなじ……」
そこまでガッと勢い良く口にしてから、はっとした様に止まってしまった駿太は、そのまま黙り込んでしまう。
私の家のリビングが、耳が痛くなる様な沈黙に支配されてしまう。
……怒らせてしまった、のだろうか。
何も考えずに変な事を言ってしまって……。
「その、ごめん」
私は小さな声でぼそりと謝ると、唇を尖らせて視線を伏せた。
「あ、いや、奈々子が悪い訳じゃない! あー、俺も、その、悪い……悪かった」
駿太は、慌てた様子で手をぶんぶんと振った。
「……でも、まぁ、はるかの事は、ほっとけないとは思っている。あいつも、色々と大変みたいだし」
そこで駿太は視線を落とし、同時に声を低くした。
「俺は、出来る限りはるかの力になってやりたいと思っている。それは本当の事だ。でも、奈々子もそうだろう?」
そうはっきりと言い切ると、駿太は改めて顔を上げて真っ直ぐに私を見据えた。
私も、その視線を受け止める。そして、こくりと頷いた。
それは、その通りだ。
私だって、遼の、はるかの力になりたいとは思っている。
……でも。
そういった気持ちではるかの告白を受け入れるのは、また違う気がするのだ。
好きとか嫌いとかには、他の事情なんて関係ない。自分の気持ちで、きちんと答えを決めなくちゃいけない気がするのだ。
でも、私ははるかの告白に対してどう応えたらいいのだろうか。
どう応えるべきなのだろうか。
そう考えると、また胸がドキドキし始める。顔がカッと熱くなり、頭の中はこの3日間考え続けている事と同じ事を考え始めてしまう。
……ダメだ、ダメだ。
軽く頭を振って気持ちを切り替えると、私は改めて駿太を見た。
「えっと、それで莉乃の用事って何だったの?」
私は、意識して明るい声を出す。
「あ、ああ。海に行く計画で相談したい事があるみたいだぞ。何か凄い勢いの命令書みたいなメールが俺のところに来てな」
命令書……。
その単語だけで、何だか内容は想像出来てしまう。
私は、はははと苦笑を浮かべた。
「了解。後で携帯見て返信しとく。わざわざごめんね」
「海、いいな。しばらく行ってないな。一昨年か、遼のおじさんとかと一瞬に行ったのは」
駿太は力を抜いてぐったりとソファーに体を預けながら、記憶を確かめる様に天井へと視線を向けた。
「ああ、そうだったね。泊まりで行ったやつでしょ。あ、そうだ、今回の海も、駿太も行く?」
「え、いいのか?」
私の提案に、がばっと身を起こした駿太が目を輝かせて私を見た。
「莉乃に連絡するついでに聞いとくよ。私と莉乃と明穂とはるかだから、メンバーは女子ばかりだけどいいよね。私たちも、荷物持ちがいれば助かるし」
「俺、荷物持ちしに行くのか……?」
「そう。それに、泳いでる間の荷物番とかも必要だし、莉乃たちも歓迎してくれるよ、きっと」
私は駿太に向かって、悪戯っぽくにっと微笑んでおく。
もちろん荷物持ちとか荷物番は冗談で、ただ久しぶりに、私と駿太とそしてはるかの3人で一緒に、海に行ってみたいなと思っただけなのだ。
莉乃からの問い合わせ内容は、海に行く予定の確認と、はるかにも同じ件で連絡が取りたいという内容だった。
沢山のメールやメッセージが来ていて、最後の方になると海行きの事は一言もなくて、返信しない私への罵詈雑言と化していた。
私は莉乃にメールとメッセージを送ってから電話もして、丁寧に謝っておく。悪いのは私だ。
でもこれで莉乃はOKなのだけれど、問題ははるかの方だった。
あのアミリアさんの秘密の庭にいては、どういう訳か携帯が通じない。直接赴くしかないのだけど、それを莉乃にさせる訳にはいかない。
私が行くしかないのだけれど……。
私は、莉乃の後にもう一度駿太に連絡を取って、一緒に秘密の庭に行ってくれないかと頼もうとした。ところが、駿太はどこかに行ってしまって捕まらなかった。
はるかに会いに行こうかどうか悩み始めると、きっとまた数日くらいは掛かってしまう。そうなれば、また莉乃に迷惑を掛けてしまうだろう……。
その日の午後になってから、私は思い切ってはるかに会いに行く事にした。
意識して深く考えないようにして、そう決めた。
はるかに対して具体的にどう向き合うかはまだわからなかったけど、部屋の中でゴロゴロしていてもしょうがない。取り敢えず行動してみようと思ったのだ。
眩い夏の午後の陽射しが降り注ぐ中、蝉の声がうるさいほど響き渡る中、私はアミリアさんの秘密の庭に向かって家を出た。
クーラーの利いた家を出ると、何をしていなくても直ぐに汗が吹き出して来る。日陰にいないと、Tシャツから出た部分の肌が、じりじりと焼かれていくのがわかる様だった。
快晴の夏のお昼下がりの町は、あまりの暑さに人気がなく、強い陽光に炙られてアスファルトの上に立ち昇る陽炎とか延々と尽きない蝉の声とか、何だかいつもと違う、どこか非現実的な不思議な雰囲気が漂っている様に思えた。
まるで白昼夢の中にいる様な……。
私はアミリアさんから貰ったペンダントを握り締めて、そんな町中をふらふらと歩き回る。
今日の秘密の庭の入り口は、日置山に向かう坂道の住宅街から少し入った路地の先にあった。
アンティークな木戸を押し開いて、秘密の庭へと足を踏み入れる。
……そういえば、はるかも駿太もおらず、1人でここに来るのは初めてだ。
鉄柵の向こう側に足を踏み入れると、一瞬にして周囲の空気が変わるのがわかった。
むわっとした暑さが消えて、濃い緑の匂いが混じった涼やかなものへと変化する。それはまるで、外からクーラーの効いたコンビニに入った時みたいな劇的な変化だ。
まったく、どういう仕組みなのだろうかと思ってしまう。
ハンカチでさっと汗を拭ってから、緑のアーチを抜けて、色とりどりの草花が咲き乱れる秘密の庭へと出る。いつもの通り綺麗に整えられた庭を見渡して、私はふっと息を吐いた。
……さて、と。
私はそっと気合いを入れて、お屋敷へと足を向けた。
その時。
視界の隅に、人影が映った様な気がした。
目の前の木立の中だ。
……はるかかな。
私はぎゅっと手を握ってから、石畳の道を横切ってそちらの林へと向かった。
爽やかな風が吹き抜ける。
大きな木が疎らに広がる林の中には、さわさわと梢が揺れる音が響き渡っていた。
木漏れ日が一面に広がっている周囲を見回すと、直ぐにこちらに背を向けて座り込んでいる人影を見つける事が出来た。
はるかじゃない。
アミリアさんだ。
下草の上にふわりとスカートを広げてしゃがみ込んだアミリアさんは、小さな黄色の花を摘んでいた。
日本人とはまた違う容姿のアミリアさんのそんな姿は、まるでファンタジー小説の挿絵の様に思えてしまう。
「ん、ああ、ナナコか」
私が声を掛ける前に、アミリアさんが私に気が付いた。
顔だけで振り返り、こちらを見るアミリアさん。
「残念だが、ハルカはいないぞ。つい先程出掛けた様だからな。入れ違いだ」
「あ、そうなんですか……」
私は、思わずほっと安堵の息を吐いた。
なんだ、はるか、いないのか……。
全身を包み込んでいた緊張感が解けて、思わず脱力しそうになってしまう。
「最近のあれは、いい表情をしているな。数日前からは、特に活き活きしている様に思える」
アミリアさんが、すっと目を細めて微笑んだ。笑っているかどうか、ギリギリわかるという程度の笑みだったけれど。
私はアミリアさんの言葉に、ドキリと肩を震わせる。
数日前というと……あの告白の時からという事か。
「良い傾向だ。このままいけば、はるかの望みも叶うやもしれぬな」
アミリアさんは静かにそう告げると、ゆっくりと立ち上がった。
いくら外よりはましとは言え夏の陽気の中なのだけれど、アミリアさんは黒いドレスと黒いシャツをしっかり着込み、アッシュブロンドの髪を丁寧に結い上げていた。
そのクラシカルな姿があまりに堂々としていて、Tシャツ姿の私の方がなんだかおかしく思えて来てしまう。
はるかの望み、か……。
私は胸の中でアミリアさんの言葉を繰り返す。
望みという言葉が引っかかる。
この前言っていた、アミリアさんの弟子になるとかどうとかいう話だろうか。
アミリアさんは私に視線を送ると、ゆっくりとお屋敷の方へと歩き始めた。
……アミリアさんと2人きりのこの状況は、色々と話を聞くには良い機会かもしれない。
もともとこの秘密の庭に出入りする様になったのは、その為なのだ。でもついつい日常に流されて、その、色々な事があって、今まできちんとアミリアさんの話を聞けていなかったけれど……。
私は、ぐっと手を握り締める。そして、小走りにアミリアさんを追い掛けた。
「あの、アミリアさん。その、はるかの望みって、アミリアさんの弟子になりたいって話、どういう事なんですか?」
私はアミリアさんの隣に並ぶと、その白い顔をじっと見据え、質問を投げかけた。
「ふむ」
アミリアさんは、すっと私に視線を送った。
「ハルカが私の弟子になりたいと言い出した時は、違う世界に行きたくないだけだと思ったが、今なら少しわかるな」
……違う世界?
独り言の様にぶつぶつと呟いたアミリアさんは、小さくこくりと頷いた。
「いいだろう。今のナナコなら、ハルカの状況を知っておいても問題はないだろう」
アミリアさんはそう言うと、僅かにこちら向いて薄く微笑んだ。そしてお屋敷に向かってゆっくりと歩きながら、話を始めた。
「以前私は人形師だと話したが、あれは副業、趣味の様なものでな。本当の私の仕事は、異なる世界に溢れた獣や災害の鎮圧、駆除にある。異世界同士の過剰な干渉を防いでいるとでも言えば良いか。例えば、君たちを襲った五位の火の鳥の討伐、みたいにな」
えっと……?
アミリアさんはすらすら話を始めるが、私は最初から理解出来ない。
それは、ゲームとか小説の話だろうか。
しかし疑問符を浮かべる私に構わず、アミリアさんは話を続ける。
「この境界の庭園は、世界と世界の狭間にあり、他の世界に影響を及ぼすものを制し、元の世界に帰還させるための拠点だ。本来この場所に留まれるのは、その任にある者のみであり、そうでない者の長期逗留は認められない」
つまり、はるかがここにいるのはイレギュラーな事なのだとアミリアさんは付け加えた。
「直接世界を渡る事の出来る異界種の管理はもちろんだが、その異界種の作用により落命した者の管理も私の役目である。異界種がもたらす影響によって命を落としたものは、その世界の因果から切り離されてしまう。元の世界に属する事が出来なくなり、命を奪った異界種の属する世界へと無理矢理連れ去られてしまうのだ。そうした命に新たな体を与え、異界に導くのも私の仕事だ。新たな体を作る役故に、私は人形師とも呼ばれる」
はるかの今の体も、そうしてアミリアさんが用意したのだという。
「本来異界の存在へと転じた命は、元の世界の事など忘れて、産まれる前の真っさらな状態へと戻るものだ。魂の情報が上書きされ、最適化されるのだな。しかしハルカは、五位の火の鳥に呑まれても、元の形を保っていた。これは、稀有な事だ」
アミリアさんは、そこで嬉しそうにふっと笑った。
「人形師が与えた新たな体に入っても、以前の心の形を保てる強い魂。それは、私の様な仕事を行うための要件でもある。私も、そうだった。だからハルカには、私の仕事を継ぐ資格があるのだ。しかし、それだけでは足りない。異界種を制圧する魔素の力を使いこなす事も、私の仕事を継ぐのに必要な事だ。しかしナナコらの世界に起源を持つハルカには、未だその力はない」
アミリアさんは、そこで少しの間黙り込む。
私は、アミリアさんの次の言葉を待つしかない。質問を挟めるほど、理解が追いつかない。
「ハルカが必要なものを備え、私の後継となるには、強い意志の力が必要だ。そのためには、今の姿で生きるという意思を強く持つ事が必要だ。そうすれば、おのずと魔素の力も発現しよう。ナナコとシュンタには、その手伝いをしてもらいたいと思っている」
……それがつまり、アミリアさんの弟子になるという事か。
でも、本当にはるかは、遼は、そんな訳の分からない事を望んでいるのだろうか。今聞いてもほとんど理解出来ない、ゲームとか漫画みたいなアミリアさんの話を、はるかは受け入れる事が出来たのだろうか。そもそも、信じる事が出来たのだろうか。
……それとも、自身の姿が女の子に変わっていれば、異世界がどうのという話も受け入れざるを得なかったのかな。
「……はるかは、自分からアミリアさんの弟子になりたいって言い出したんですか?」
私はきゅっと眉をひそめ、思わずアミリアさんにそう尋ねてしまっていた。
「ああ、そうだ。それがハルカにとって、ナナコたち元の世界と関係を保てる唯一の手段だからな」
「え?」
唯一?
私は目を丸くして、アミリアさんの顔を凝視する。
「先程話した通り、ハルカは五位の火の鳥に喰われた時点で君たちの世界の人間では無くなった。本来なら、ハルカという人間として速やかに正しい世界に送らなければならない。君たちからしたら、異世界になる場所へとな。しかし、ハルカには素養があった。だから、私の後継に挑戦するという事を条件にして、ナナコの側でもない、あちら側でもない、この境界の庭にいる私の元に留まる事を許したのだ。一時的にな」
アミリアさんは、僅かに顎を上げ、前方に迫って来たお屋敷をすっと見据えた。
「ハルカは既に君たちの世界の人間ではない。あれがそちらに干渉する為には、私の様に境界の管理者になるしかない。しかしハルカがどうしてあれ程に元の世界に執着するのか疑問に思っていたが、間違いなくその一因はナナコらだな。それは、最近のあれを見ていれば良くわかる」
胸がドキリと鳴る。
……もう私たちの世界の人間では、ない?
一時的に、留まっている?
「もし、はるかがアミリアさんの弟子になれなければ、どうなるんですか?」
私は、立ち止まる。そして、嫌な予感にドキドキと震え始める胸を無視して、アミリアさんに向かって何とかそんな質問を投げ掛けた。
数歩先に行ったアミリアさんも立ち止まる。そして、ドレスの裾を揺らしてすっと振り返った。
「期限は一年だ。その間にハルカが私の後継足りうる能力を備えられなければ、あれも他の者と同様に、あるべき世界に送らなければならない」
淡々と平板な声で、アミリアさんはそう告げた。
まるで、夏休みが終わる前に宿題を終わらせなければというくらい当たり前の事を口にする様に……。
私は、目を見開き、僅かに口を開けて固まってしまう。
以前どこかで聞いた、タイムリミットみたいなものがあるという話を思い出す。
一年。
一年が経てば、もしかしたらはるかは、遼は、また私や駿太の手の届かないところに行ってしまうというのか?
そんな、そんな事が……。
呆然とする。
体の中で色々な感情が暴れ回るのに、頭の中は真っ白になる。
私はただその場に立ち尽くし、古めかしいお屋敷の前に立つアミリアさんを見つめる事しか出来なかった。