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第12話 好きな人

 ううっと恥ずかしそうに唇を噛み締めて私たちを見つめるはるか。

 私も駿太も咄嗟に反応出来ずに、まじまじとはるかの顔に見入ってしまう。

 今、はるかは何て言ったのだろう……?

 告白、された?

 誰が……誰に?

「いや、おい……」

 駿太がよくわからない呻き声を上げる。

 その声で、私は現実に引き戻された様な気がした。

「誰に告白されたの!」

 私は、思わずぐっとはるかに詰め寄っていた。

 その勢いにびくりと身を震わせたはるかは、一歩後ずさる。

「だ、だから、隣のクラスの森くんに……」

 はるかは私から目を逸らしながら、ごにょごにょと口ごもる。

 ……そういえば、森くんだってさっき言ってたっけ。

「とにかく、状況を教えて」

 私はさらにはるかに詰め寄ると、その華奢な両肩にぽんっと手を置いた。

「う、うん……」

 はるかは身を小さくしながら、こくこくと頷いた。

 今私の前で眉をひそめているはるかは、初めての告白に戸惑っているただの少女に見えた。そこに、時たま顔を覗かせる遼の面影は窺えなかった。

 その事が、私の混乱に拍車をかける。

 うちのクラスの陸上部の女子に呼び出された時は、はるかもまたいつもの陸上部の勧誘だと思っていたらしい。それが今日は、人気のない屋上へ出る階段まで呼び出され、不審に思っていたら、待っていた森くんに突然好きだ、付き合ってくれと言われたとのことだった。

 森くん曰く、何度も勧誘に来る自分を邪険に扱わず丁寧に対応してくれたはるかの優しさに惚れてしまったという事らしいのだけれど……。

「……あの野郎!」

「……それで、どうしたの」

 私と駿太が同時に口を開く。

 あの穏やかな駿太が、ぐっと手を握り締めて怒りを露わにしている。

「その、俺もびっくりして、ごめんって行って、真っ直ぐこっちに来てしまって……」

 はるかは、しばらくきゅっと目を瞑ってから、改めて私を見た。

「俺、どうしたらいいかな、ナナ。このままじゃ、ダメだよな……?」

 不安そうに瞳を揺らすはるかには、いつもの凛としたお嬢さまの風格はなかった。

「はるかは……断るんだよね」

 問い掛けるというより独り言の様に呟いた私の言葉に、一瞬はるかの顔に怒りが浮かんだ。

「当たり前だろ!」

 険しいはるかの声に、今度は私が身を引いてしまう。

「俺は宮下遼なんだそ! 男同士で付き合うとか、ある訳ないだろ!」

「ご、ごめん……」

 肩に置いた私の手に自分の手を重ねたはるかが、私の方へぐいっと一歩詰め寄って来た。

「それに、俺にはもう好きな人が……」

 私の目を真っ直ぐに見てそう言い放ったはるかは、そこで突然はっと息を呑んで黙ってしまった。

 はるかの好きな人……。

 私は、むっと眉をひそめる。

 つまりは、遼の好きな人という事だけど……。

 でも私には、いまいちそれが遼の事だというのが実感出来なかった。

 だって、目の前で恥ずかしそうに頬を赤くして目を逸らしている少女からは、やっぱりいつもみたいに遼を感じる事は出来なかったから。

 私の目の前にいるのは、ただの恋をしている女の子だ。

 胸の内側がぞわぞわする。

 せっかくはるかの事を遼だと思えて来たのに、何だか得体の知れない不安が私の中で広がって行く。遼が、また私の前からいなくなってしまうのではないかという不安が……。

「遼……奈々子」

 駿太が何か言いたそうに、じりっと一歩、私とはるかに近付いて来る。

「くくくっ」

 私が何か言わなきゃと口を開き、はるかも何か言おうと口を開きかけた瞬間、そこで不意に、喉を鳴らす様な静かな笑い声が響いた。

 私は、それがアミリアさんの声だという事にしばらく気付く事が出来なかった。

 私とはるかは、ちらりと視線を交えてからアミリアさんを見る。

「いや、失敬。嬉しかったものでな。つい笑ってしまった」

 先程の笑い声が嘘の様に、アミリアさんは既にいつもの平板な調子に戻っていた。

「人間の様に考え、人間の様に生活し、人間の様に恋をする。これは良い傾向だぞ、ハルカ。君の我儘を聞いて、ナナコらを招き入れた甲斐があったというものだ」

 アミリアさんはぱたりと閉じた本をテーブルに置き、僅かに顎を上げてはるかへと流し目を送る。

 じっくり見ていないと気のせいだと思える程度の微笑が、その白い顔に浮かんでいた。

「このままいけば、君の望む通り、私の弟子になる事も難しくないかもしれないな」

 ゆっくりとした口調でそう告げたアミリアさんは、黒いドレスを揺らして席を立つ。そして、私たちに背を向けた。

「ナナコ。これからもハルカに力を貸してやってくれ」

 こちらを見ずにそう告げたアミリアさんは、ゆっくりとお屋敷に向かって歩き出した。

「あ、あの……!」

 私は咄嗟に呼び止めてしまったけど、アミリアさんは本を持った腕を僅かに上げるだけだった。

 弟子、というのはどういう事だろう。

 私は、制服のスカートをさっと広げてはるかに向き直る。

「はるか、アミリアさんの言ってた事、どういう事なの?」

 人間らしいとかアミリアさんの弟子になる事を望んでいるとか、色々と聞きたい事が沢山あった。

 ……私や駿太の知らないところで、遼とはるかを巡っていったい何が起こっているのだろうか。

 はるかは、しかし私の問に答えてくれなかった。

 ただ、気まずそうに眉をひそめて、目を伏せているだけだった。

 ……何かにぐっと耐えている様なそんな顔を見ていると、さらに強く問い質すなんて事が出来なくなってしまう。

 しばらくの沈黙の後、はるかは小さなため息をすると、私と駿太を交互に見た。

「……悪い。今度ちゃんと話すから。今はまだ、俺の中の整理もついていないから」

 はるかはそう言うと、小さく息を吐いてぎゅっと唇を引き結んだ。




 しんと静まり返った教室に、カリカリとシャーペンが走る音だけが微かに響く。

 普段はふざけ合っているクラスメイトたちも、今この時ばかりは目の前のテスト用紙に集中しているのだ。

 とうとう期末テストの期間が始まってしまった。

 待ち遠しい事はなかなかやって来ないのに、嫌なものはあっという間に来てしまうのは、本当に何故なんだろう。

 とりあえず数学のテストの全問を解答し終えた私は、まだ若干の時間の余裕がある事を確認し、ほっと息を吐いた。

 出来は、まぁまぁといったところだろうか。良い点は取れなくても、赤点という事はないと思う。

 解答用紙をざっと確認してから、私は斜め前方のはるかの背中へとちらりと目をを向けた。

 はるかは、既にペンを止めて窓の外へと視線を向けていた。

 はるかへの告白騒ぎは、最初こそ私たちに大きな混乱をもたらしたものの、何とか期末テスト前に決着させる事が出来た。

 男子から、心は男子であるならば同性から告白された事になったはるかは、本当の女の子みたいに狼狽していたけれど、少し時間を置くことによって、冷静になれたみたいだった。

 駿太が代わりに断ってやろうかとか言っていたけれど、結局はるか自身が森くんに対して、きちんとお断りの返事をしたみたいだ。

 断って来たと私や駿太に報告してくれたはるかは、女の子の顔形だったけれど、しかし内側に遼を感じさせる、いつもの力強さを秘めた表情に戻っていた。

 それで、この騒動は終わりになる筈だったのだけれど……。

 あれ以来、何かが変だと私は感じていた。

 表向きは何もかも元通りになった様に思えるけど、何だか私たち3人の間にギクシャクとした空気が漂っている気がするのだ。

 具体的には、何だか少しはるかがよそよそしい気がする。

 私と話している時もきちんとこちらを見てくれないし、かと思えば遠くからじっとこちらを見ている時がある。

 これではまるで、出会った最初の頃に戻ったかの様だった。

 はるかは、何かを悩んでいるみたいだ。

 それが、私にもモヤモヤした気持ちを呼び起こしてしまう。はるかが告白されたと告げた時の様な、得体のしれない不安感と一緒に……。

 はるかを悩ましているのは、あの時言い掛けた好きな人がいるという事についてだろうか。

 はるかの好きな人。

 つまりは、遼の好きな人。

 ……そう想像するだけで、胸のドキドキが止まらない。

 それに、気になる事がもう1つあった。

 あの告白騒ぎの後、期末テストが始まる前、はるかと駿太がこそこそと何かを話しているのを目撃した事があった。

 放課後、2人が何かを話しながら中庭の方へ行くのを偶然見かけてしまった。2人とも、何だか真剣な表情をしていた。

 その時にどうしたのと声を掛けていればよかったのだけれど、咄嗟に私は動けなかったのだ。

 小さい頃は殆ど無かったけれど、大きくなるにつれて駿太と遼の間に微かな隔たりを感じるという事は以前から良くあった。それは、私たちが男子と女子である以上はある程度はしょうがない事だと思っていたけれど……。

 容姿が女の子でも中身が遼であるはるかには、駿太の方が相談しやすいという事もあるのだと思う。つまり、今はるかが抱えているのは、私にではなく駿太にしか相談出来ない様な事なのだ。

 私は、どうしたらいいのだろう。

 私がはるかに、遼にしてあげられる事はないのだろうか?

 そんな迷いのせいで、期末テストの時期になっても、私ははるかにアミリアさんの弟子になるという話についても尋ねる事が出来ていなかった。

 チャイムがなる。

 私の思索は、そこで打ち切られる。

 テストが終わる。

 今日の学校はこれで終わりだけれど、早く帰ってまた明日に備えなければならない。明日が、今回のテストの最終日だ。

 でもそんな状況は別にして、今日の分が終わったという一時の解放感に教室全体がぱっと明るい声に包まれる。

 私も莉乃や明穂やはるかと一緒に集まると、お疲れーと互いを労いながら、先程のテストの答え合わせを始めた。

 私は莉乃の冗談に微笑みなが、らちらりとはるかの様子を窺う。

 こうして皆んなで騒いでいる時は、はるかの様子は今まで通りに思えるのだけれど……。

 誰からともなく、最後のホームルームの前にトイレに行こうという事になる。

 僅かな時間でも取り合えず教室を抜け出したいという生徒たちが溢れる廊下へと出ながら、莉乃が私とはるかを見た。

「テストも明日で終わりだけど、ナナと久条さんは夏休み、どこ行くか決まってる?」

「うーん、特には決まってないかな」

「……私も」

 私とはるかは、何となくお互いの顔を見る。

 目が合った瞬間、はるかははっとした様に私から視線を外してしまった。

「だったらさ。前話したみたいに海行こうよ! 日帰りでもいいし、泊まりでもいいし!」

 私たちの前を歩いていた莉乃が、くるりと振り返ってニッと笑った。

「いいね! 海行きたい!」

 明穂が目を輝かせてうんうんと頷いている。

 私も、そうだねと微笑んだ。

 莉乃や明穂も周囲の皆んなと同様に、夏休みが待ち遠しくてたまらない様子だった。学生なら、それは当然の事ではあるのだけれど……。

 夏休みの計画について話しながら、人だかりを縫ってずんずんと進んで行く莉乃と明穂。

 私もそれについて行くけれど、いつの間にかはるかだけが少し遅れてしまっていた。

 それに気が付いた私は、歩調を落としてはるかに並んだ。

「……大丈夫、はるか」

 私は、長い睫毛を伏せて僅かに俯いているはるかの顔を覗き込んだ。

「……うん」

 はるかは、しかし短くそう答えるだけだった。

 私は腰に手を当てて、ふっと息を吐いた。

 ……これでは、夏休みどころではない。

「はるか。何か悩み事があるなら言って。私も……」

「ナナ!」

 相談に乗るからと言おうとした私の言葉を遮って、はるかがばっと勢い良く私を見た。

「その、もしよかったら、今週末、テストが終わってから、また泊まりに来てくれないか!」

 大きな目を見開き僅かに潤ませながら、唇をぐっと噛み締めたはるかが真っ直ぐに私の目を見つめて来る。私の方を見たその動きに合わせてふわりと舞った黒髪から、甘い香りが微かに漂って来る。

 はるかのそのあまりの勢いに、思わず私はびくりと肩をすくませてしまった。

「べ、別にいいけど……」

 私がそう答えると、はるかはほっとした様ににこりと安堵の笑みを浮かべた。

 それは、思わずこちらもつられて笑ってしまいそうな程の満面の笑みだった。

「よし……!」

 ぐっと手を握り締めながら小さく頷き、身を離すはるか。

 これまでアミリアさんのお屋敷でお泊まり会をした事は、もう既に何度もあった。今更改まってどうしたというのだろうか。

「じゃあ、残りのテストも頑張ろうな!」

 何だかすっきりした様子で頷き掛けて来るはるか。

 その眩しい笑顔を見ながら、私だけがいまいち状況がわからず、むうっと眉をひそめていた。




 期末テストが終わると、祭日を1日挟んで終業式が行われた。

 校長先生の長い話と中学の頃と大して違わない注意指示が行われ、解散になると、そこからが待ちに待った夏休みということになる。

 終業式の後、私は莉乃やはるか、それに何人かのクラスの女子と一緒に、秋野駅の駅前商店街に繰り出して何か甘いものを食べに行くことになった。

 街には私たち以外にも夏休みに突入した学生が溢れていて、解放感と期待感で、ちょっとしたお祭り騒ぎみたいになっていた。

 はるかは、あのお泊まり会の話をしてからは特に何か悩んでいるという様子を見せなくなり、莉乃や明穂たちと楽しそうに笑い合っていた。

 そんな終業式から2日後。

 はるかとお泊まり会の約束した日がやって来た。

 朝、と言っても既にお昼前頃。

 私は、カーキ色で小さくスリットの入ったカプリパンツに白のTシャツといったラフな格好で家を出た。

 少し伸びて来た髪は、簡単にヘアゴムでまとめて尻尾みたいに束ねていた。荷物は、着替えや諸々を入れたトートバッグが1つだけだ。

 何日も泊まりに行く訳じゃないし、お泊まり会の参加者ははるかと駿太だけだ。特段気の張るメンバーでもないし、これで十分だろう。

 家の前で合流した駿太も、普通のズボンに半袖シャツといった部屋着みたいな格好をしていた。

 ただし駿太は、背中には巨大なリュックを背負っていた。

 その中身は、はるかに読ませてあげるマンガや雑誌、それに携帯ゲーム機なんかだそうだ。

 果たして一晩で、それだけ遊びきれるのだろうか。

 私と駿太は、アミリアさんのペンダントの導きで、何事もなく秘密の庭にたどり着いた。

 秋野市の方では、むき出しの肌が痛くなる様な厳しい日差しと風が熱風になってしまう様な暑さの夏晴れが広がっていたけれど、秘密の庭はまるで秋口の様な爽やかな陽気だった。

 日差しは眩いほど降り注いでいたけれど、時々吹き抜ける風は微かに冷たさを含んでいてとっても気持ちいい。緑が輝いている様な庭園の活き活きとした芝生と、その上に斑ら模様を描く木漏れ日のコントラストが鮮やかで、ごろんと横になってしまえば心地よくお昼寝が出来るだろうなと思ってしまう。

「ナナ! 駿太!」

 お屋敷の前まで来た所で、はるかの声が聞こえて来る。

 先日アミリアさんが座っていたパラソルの下で、今日ははるかがこちらに向かって手を振っていた。

 はるかは長い黒髪を背中に流し、糊の効いた白のブラウスにリボンタイを締め、黒のベストと黒のロングスカートを身に付けていた。

 明らかにアミリアさんの趣味といった感のある服装だ。

 でも、夏の鮮烈な日差しの下で、趣のある洋館と緑を背景に優雅に佇む少女の姿は、思わず目を奪われてしまう様な完成された雰囲気があった。

 はるかは席を立つと、スカートを揺らしてこちらに駆け寄って来る。

「むう、やっぱりこの長いスカートは動きづらな……」

 開口一番、その深窓のご令嬢然とした少女から飛び出して来た台詞は、そんな文句だったけれど……。

 思わず私は、ぷっと吹き出してしまった。駿太も、苦笑を浮かべていた。

 私たちはまずはるかの部屋に荷物を置くと、以前アミリアさんが本を読んでいた一階のテラス席でお茶する事にした。

 アミリアさんに挨拶しておいた方がいいかなと思ったけれど、今日は姿を見かけなかった。はるかに確認すると、今は少し出掛けているとの事だった。

 緑の香るテラスで、はるかが出してくれたハーブティーと見た事のない焼き菓子を食べながら、私たちはおしゃべりを始める。

 ちなみにこれらのお茶やお菓子は、本当はお屋敷のお手伝いさんが準備しておいてくれたものらしい。私がはるかが用意してくれたのかと思ったと言うと、はるかは苦笑を浮かべて首を傾げた。

「そんな女子力の高い事、俺が出来る訳ないだろう」

 そう言うと、むんっと胸を張るはるか。

 まぁ私も、お菓子を作れと言われても出来ないのだけれど……。

 ちなみにお屋敷のお手伝いさんには、私はまだ会ったことがなかった。はるかの話によると、あまり人に会いたがらない寡黙なお爺さんらしい。

 そうして最初は和やかな雰囲気で始まったお泊まり会だったけど、時間が経つにつれて、私ははるかの態度がだんだんとそわそわとして落ち着かなくなって来ている事に気が付いた。

 しかしそのまま、何か特別な事が起こる訳でもなく夜になる。

 夕食をご馳走になると、私たちははるかの部屋へと戻った。

 淡い照明が灯る中、私ははるかのベッドに腰掛けて、駿太の持ち込んだ漫画を読んでいた。駿太とはるかは、絨毯の上にさらにクッションを置いて座り込み、携帯ゲーム機で対戦をしていた。

 ちなみに2台あるゲーム機本体の片方は、駿太が今日の為に友達に借りて来たものらしい。

 そのゲームの間も、はるかはチラチラとこちらを見ていたけれど……。

 いまいち漫画にも集中出来ず、私はぼんやりと駿太とはるかを見ていた。

 そのうち、だんだんと眠くなって来てしまう。

 漫画を放り出して、私は微かにはるかと同じ匂いのするベッドにぼすっと横たわった。

 期末テストの疲れと、ベッドのあまりの柔らかさとひんやりとしたシーツの手触りのせいで、私は抗う術もなく眠りの淵へと沈んで行く。

 意識が無くなる直前、はるかが「あ! ナナ、寝てる!」と悲鳴の様な声を上げた様な気がしたけれど……。

 そのままどれくらいの時間が経ったのか。

 不意に私がぱちっと目を開いた時には、はるかの部屋は真っ暗になっていた。

 ……私が寝てしまってる間に、皆んなも就寝態勢に入ったみたいだ。

 どれくらい寝てしまったのだろう。

 私は、うんっと体を伸ばしてからゆっくりと起き上がった。

 巨大なベッドの片隅、私が寝ていた場所から1番離れた所で、はるかが眠っていた。

 黒髪が、真っ白なシーツの上に広がっている。

 はるかはベストだけを脱ぎ、ブラウスやスカートはそのままだった。あれじゃシワになっちゃうと思ったけれど、先にそのまま寝てしまった私が言える事ではない。

 照明の落ちた薄暗い部屋に、駿太の姿は見えない。

 今日は、別に借りている男子部屋にちゃんと行ったみたいだ。

 私はまた眠る気にはなれず、そっとベッドを降りた。そしてそのままスリッパを引っ掛けると、カーテンの閉じていないガラス戸へと向かった。

 ちょっと外の空気が吸いたいなと思ったのだ。

 キッと音を立てる戸を押し開いて、バルコニーに出る。

 ふわりと流れ込んできた夜気が、私を包み込む。

 思わず私は、目の前に広がる光景にそっと息を呑んだ。

 夜が明るい。

 はるかの部屋のバルコニーから見渡せる秘密の庭は、その細部が見て取れる程、青白い月の光に照らし出されていた。

 昼間とは違う濃淡のはっきりした陰影が、目の前の庭園をいつもとは違う不思議な世界へと作り変えてしまっていた。

 しんと冷えた夜の空気が、微かに私の髪を揺らす。温かい布団に包まれて火照った体には、ちょうど心地よい冷たさだった。

 夜独特の澄んだ空気には、微かな草花の匂いが混じり合っていた。

 そしてその庭園の上空、漆黒の夜空には、異様な程大きく見える月が輝いていた。

 青白いその光が、あまねく柔らかく世界を照らしている。

 私はペタペタとスリッパをを鳴らしてバルコニーの手すりに駆け寄ると、その夜の世界をじっと見つめる。

 何回かこのお屋敷に泊まりに来た事はあったけど、こんな素敵な光景を見たのは初めてだった。

 ……凄い。

 単純にそう思う。

 世界には、こんなに綺麗な光景があるんだ。

 私たちが気が付いていないだけで、私たちのすぐ傍に。

 そのまましばらく月光の庭園に目を奪われていると、背後で不意にキッと音がした。

 振り返ると、はるかが立っていた。

「凄いよ、遼。月明かりの庭、綺麗だね」

 私ははるかを一瞥してから、庭へと視線を戻した。

 一瞬遅れてはるかを遼と呼んでしまった事に気がつくが、まぁいいかと思う。

 何も言わず、はるかがすっと私の隣に並んだ。

 月下のはるかは、多めにボタンを外したブラウスの胸元から覗く白い肌と、何かを決意したかの様な強い表情のせいか、いつもより大人びて見える様な気がした。

「ナナは、俺の事、遼って呼んでくれるんだな」

 はるかが、庭を見たまま静かに口を開く。

 私は、むっと眉をひそめた。

 何を今更。

 そうだと主張したのは、はるかじゃないか。

「……独りでこの屋敷にいる時は、そんなに思わなかった。戸惑いはあったけど、女になっても俺は俺だと思っていた」

 はるかが淡々と話し始める。

 私は笑顔を消すと、はるかの方を向いてその横顔をじっと見つめた。

 胸が、トクンと鳴る。

 はるかが、何か大事な事を言おうとしているのがわかったから……。

「でもナナや駿太に会いたいと思って、無理を言って学校に行く様になって、俺ははるかとして扱われる事が多くなった。もちろんそれは、俺が選んだ状況なんだけど、それで最近、少しわからなくなって来たんだ。俺は遼じゃなくて、はるかで良いんじゃないかって。いや、はるかこそが俺なんだって」

 遼ではなく、はるかである事が本当になる、という事だろうか……。

「それで、そんな時に森くんに告白されて、思ったんだ。俺を久条はるかとして好きになってくれた人がいる。少なくとも彼にとっては、俺はもうはるかなんだって……」

 はるかは、僅かに目を伏せた。

 何かを迷っている様な間の後、さっと顔を上げたはるかは私の方へと向き直った。

「……だから、俺が俺であるうちに、きちんと俺の気持ちを伝えておきたいと思ったんだ」

 はるかの目には、強い光が宿っていた。

 私を貫く様な、強い意志の力が宿った光が。

「奈々子。俺はお前が好きだ」

 はるかの凛とした声が響く。

「これまで、ずっと好きだった。これからも……何があっても、俺はお前が好きだ」

 えっ……。

 私を見つめるはるか。

 私は、目を見開いて固まってしまう。

 何かを言おうと少しだけ開いた口が、そのまま動かなくなってしまう。

 はるかの……遼の言葉が、私の中に入り込んで来る。そしてゆっくりと、胸の奥に染み込んで行く。

 ドキリと心臓が震えた。

 頭の中が真っ白になってしまう。

 私の胸が震える衝撃で、まるで世界全体がグラグラと揺れ動いている様だった。

「……俺は今こんな姿だし、駿太の事もあるし、付き合ってくれなんて言えないけど……奈々子には出来る限り一緒にいてほしいと思う。その、別れなくちゃいけなくなるその時まで。ダメ、か……?」

 僅かに顎を引き、上目遣いに私を見るはるか。

 その姿は、やはり綺麗な女の子である訳で、この子が遼であり、今私に告白したのだという事に思考が追いつかなかった。

 遼が私に……。

 そんな……。

 私は手で目を覆うと、夜空を振り仰いだ。

 足に力が入らなくなりへなへなとその場に座り込んでしまいそうになるのを必死に堪える。

「ナナ、大丈夫か?」

 はるかが心配そうな声を上げる。

 私は構わずくるりと踵を返してはるかに背を向けた。

 目を覆った手の下から、ぽろりと涙がこぼれた。

 カッと熱くなった頰を伝う涙が、嬉し涙だったのか悲しさや困惑のためのものだったのか、私にもわからない。

 ただ、ぽろぽろと勝手に涙が溢れて来る。

 私は、こんなくしゃくしゃの顔をはるかに、遼に見て欲しくなかった。

 ただ単純に、そう思った。

「……その」

 何か言わなきゃと思う。

 でも、胸がドキドキするだけで言葉が上手くまとまらない。

 そんな私の肩に、はるかがぽんっと手を置いた。

「勝手な事ばかり言って悪い。でも、その、聞いてくれてありがとうな」

 優しい声が響く。

 その声の高さは女子のものだったけど、口調はまさに遼のそれだった。

 ……遼!

 私は、ばっと振り返る。

 そして、目の前に立つ黒髪の少女を見た。

 そうしなければ、私に告白してくれたその人がいなくなってしまう様な気がして……。

 降り注ぐ淡い月光の下、その少女は恥ずかしそうに頰を染めて微笑みながら、でもどこか頼もしさを感じられるくらい真っ直ぐな表情で私を見つめていた。

 胸が、きゅっと締め付けられる。

 その次の瞬間。

「ナナ……?」

 思わず私は、目の前の少女をぎゅっと力いっぱい抱き締めていた。

 はるかが、驚いた様な声を上げる。

 自分でもよくわからないけど、体が勝手に動いてしまった。そうしなければいけないと思ってしまったのだ。

 一瞬身を固くしたはるかは、しかし直ぐに私の背中に手を回して、ぎゅっと抱きしめ返してくれる。

 柔らかくていい匂いがするはるかは、とても温かかった。

「……ナナ」

「うん……」

 はるかの温もりを感じながら、温かく満たされていく自分の胸の中を感じながら、私は小さく何度も頷いていた。

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