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第10話 彼女の気持ち

 最近曇り空とか小雨がぱらつく憂鬱な天気が続いている。もしかしたら今年は、このまま梅雨に入ってしまうのかもしれない。

 湿気の多い上に蒸し暑い天候のせいでじわりとした汗がにじみ出る。髪が張り付いたりして、不快極まりない。

 さすがにまだクーラーを効かせるには早いかもしれないけれど、こんなはっきりしない蒸し蒸しした日は、涼しい場所でのんびり座っていたい。

 でもそんな時に限って、女子体育は短距離走という疲れる内容だったりするのだ。

 月曜日の朝1番。

 1限目からの体育に辟易しながら、私やはるかを含めたクラスの女子がグランドに集まっていた。

 十分時間を掛けてストレッチをした後、改めて女子体育担当の斎藤先生が100mを何本かやるよと告げると、クラスのみんながぶーぶーと声を上げる。

 その中で特に不満を口にしているのは、莉乃だった。

 ちなみに、運動が苦手な明穂は、既に諦めた表情で項垂れている。

 適当に4人が並んで、順番に走り始める。

 1番左のレーンに並んだ私の隣には、すっとはるかが並んだ。

 周囲の視線が私たちに突き刺さる。あからさまではないけれど、みんながこちらをチラチラと窺っている感じだ。

 ……多分、駿太を巡って私とはるかが対立しているという噂が、未だ根強く残っているからだろう。

 まったく、みんなそういうくだらない話が大好きなんだから。

 私は、足首をグリグリしながらふっと溜息を吐いた。

「……ナナ」

 そんな私に、はるかがそっと話し掛けて来る。

「昨日の事、本気なのか?」

 体操着姿にやはり長い黒髪をポニーテールにしたはるかが、眉をひそめた表情で、じっとこちらを見つめて来る。

 昨日の事、というのは、私がアミリアさんの前で話した、はるかの女の子修行を私が監督するという話のことだろう。

「もちろん。これでアミリアさんのところに出入りするいい口実が出来たでしょ」

 私がそう答えたタイミングで号令がかかり、1つ前の組みがスタートする。

 はるかはそうだけどと呟きながら、スタート位置に着いた。

 昨日。

 私が思い付きで口にした提案を聞いたアミリアさんは、しばらくの間何かを考え込む様にじっと私を見つめていた。

「ナナコ。果たして君に、淑女の何たるかを教える事が出来るのかな?」

 たっぷりの沈黙の後、そんな質問を投げ掛けて来たアミリアさんの視線は、私の足や髪を見てる様だった。

 はるかの話を聞いていると、どうもアミリアさんは女子が活動的な恰好をするのを嫌う様な、随分と古風な考えの持ち主みたいだ。ジーンズにショートカット姿の私が、他人に範を示せる様なお淑やかな女性には見えなかったのかもしれない。

 しかし、そこで怯む訳にはいかなかった。

「私だって、女性としての生活の基本は教えられます。学校での生活とか、男子の前での振る舞いとか……」

 私はそこで、駿太を一瞥する。

 駿太は、むっと眉をひそめる。

「学校ではずっと一緒だし、何よりはるかが遼だって言うなら私は姉みたいなものですから、はるかの指導役は私が適任だと思うんです……!」

 私は、ぐっと拳に力を込めて一歩前に踏み出した。

 はるかが、姉って……と小さく呟いていたが、今は無視だ。

「俺たちもはるかの力になりたいんです。その為に、またここに来るのを許してもらえませんか?」

 駿太も続けてアミリアさんに畳み掛ける。

 アミリアさんは大きな執務机に頬杖を突くと、鋭い視線を私たちに送って来る。日本人とはまた違う容姿が、その迫力を倍増させる。

 私と駿太とアミリアさんの睨み合いが続く。その私たちの間で、はるかだけがわたわたと視線を泳がせていた。

 そんな沈黙がしばらく続いた後。

「いいだろう」

 唐突に、アミリアさんがぼそりと呟いた。

「それではるかの安定に寄与出来るなら、こちらの利するところでもある。私もはるかには期待しているのだから。はるかは、それで良いのか?」

 頬杖のまま、アミリアさんははるかの方に視線を送った。

 はるかは未だ状況の流れについて行けていない様子だったけど、こくこくと頷いてくれた。

 私は、駿太と視線を合わせてそっと頷き合う。

 これで、この秘密の庭とお屋敷に通う口実が出来た。

 後はタイミングを見計らい、この場所や日置山の怪鳥、それにはるかと遼のことについて情報収集を進めて行けばいい。アミリアさんとも親しくなれれば、きっと何か新しい事がわかる筈だ。

 そうすれば、きっと……。

「いずれにせよ、限られた時の内での事だ。影響は然程ないだろう。よろしい。やってみなさい、ナナコ」

「……はい!」

 アミリアさんに対して、私は力を込めて返事をする。

 限られた時という言葉は少し気になった。もしかしたら、何かしらタイムリミットの様なものがあるのかもしれない。例えば、このお屋敷に入れる時間とか、滞在していられる時間とか。

 しかしそれについて尋ねる暇もなく、昨日はそこで一旦帰る様に言われてしまった。

 本当はアミリアさんからもはるかからももっと話を聞きたかったのだけれど、一応私たちの提案は受け入れてもらえたのだ。昨日のところは、大人しくアミリアさんに従う事にした。

 はるかは、例え建前でも私が女子化訓練をするという事にブーブー言っていたけれど、そこは駿太が上手く言ってくれたみたいだ。

 隣のレーンでクラウチングスタートの態勢に入ろうとしゃがみ込んだはるかが、ふっと息を吐いた。

「心配してくれるのは本当に嬉しいけど、俺はナナと駿太ともう一度一緒にいられるだけでいいんだぞ」

 はるかが、私を見て少し困った様に笑う。

「例えそれが、一時の奇跡だったとしても」

 こちらから視線を外し、小さな声でそっと呟いたはるかは、今までないほど弱々しく儚げな雰囲気を漂わせていた。

 私はふっと息を呑む。そして、眉をひそめてどうしたのと尋ねようとした瞬間。

「じゃあ、次。位置について……」

 タイミング悪く、斎藤先生の掛け声が響く。

 はるかが、ふっと表情を変える。

「……負けないからな、ナナ」

 再びこちらを見たはるかは、既にいつもの通りの不敵な笑みを浮かべていた。

 む……。

「よーい、ドン!」

 斎藤先生が、大きく上げた手を振り下ろす。

 次の瞬間。

 はるかが、勢いよく前方へと飛び出した。

 長い黒髪が尻尾の様に大きく弧を描き、その体の動きに合わせて舞い上がる。

 他のクラスの子みたいな手を抜いた走りではない。女子独特のふわふわした走り方でもない。

 完全に、全力疾走の態勢だ。

 遼は、昔からこういう競争が大好きだった。

 何かにつけて駿太と勝負していた。

 小学生くらいまでは私も2人と競い合っていたけれど、大きくなるにつれて遼も駿太も私に気を使う様になって、近年はもっぱら私は2人の勝負の立会い人や審判扱いになっていた。

 勉強でも運動でも、遼は、はるかは基本的に負けず嫌いなのだ。

 同じ女子同士なら、私とも気兼ねなく勝負出来るという事か。

 なら、ここは付き合ってあげるか……。

 私もぐっと歯を食いしばり、勢い良く地面を蹴って加速する。

 こちらも、走るのは嫌いじゃない……!

 周囲の形式が後ろに飛んでいく。

 視界が、ゴールに向かってすうっと収束していく。

 酸素を求めて、胸が苦しくなる。

 くっ!

 はるか以外の走者の気配は、既にない。

 でも、視界に居座るはるかの背中には全然近付けない。

 前方で、既に走ったクラスの子たちが声を上げているのが見える。

 ゴールが近付く。

 あと少し!

 そう思った刹那。

 目の前のはるかが、何かに躓いた様にぐらりと傾く。

 はるかのスピードがぐっと落ちる。

 次の瞬間。

 私たちは、ゴールラインを超える。

 くはっ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……!

 勢いを殺して減速しながら、むさぼる様に空気を吸い込む。

 結局私とはるかは、ほぼ同着だった。

 そのはるかは、膝に手を突いて荒い息をしていた。

「はぁ、はぁ、うー、ミスった」

 顔を上げたはるかが、悔しそうに片目を瞑って私を見た。

「……最後、どうしたの?」

 周囲の注意が次の走者に移る中、私は深呼吸しながらゆっくりとはるかに歩み寄った。

 身体を起こして額の汗を拭ったはるかは、ぐにっと片腕で自分の胸を押さえた。

「うーん、何だか走ってるうちに体のバランスがおかしくなってな。バレーとかしてる時は、あまり感じなかったんだけど……」

 はるかは、眉をひそめながら自分の体を見る。

「この姿になってから100m全力なんて初めてかもしれないから、何だか違和感があって……」

 はははと苦笑するはるか。

 昔の遼は、運動も得意だった。その感覚のまま今のはるかの体を動かせば、噛み合わない部分が出て来てしまうのも当然、という事なのかもしれない。

 筋肉の付き方はもちろん、胸とか、そもそも前の遼の時とは体型が違うのだ。アミリアさんじゃないけど、そういう点では女子の体に相応しい動きをする訓練というのも、必要な事なのかもしれない。

「でももう一度走ったら、今度はぶっちぎりで勝つからな、ナナ」

 はるかが、私を見て無邪気に笑う。

 私は、ふっと溜息を吐く。

 ……こういうところは、本当に遼そのままなのだけど。

「よし、じゃあ次に……わっ」

「はるか!」

 走り終わった人の列に向かって歩き出そうとしたはるかが、よろめく。

 私は、咄嗟にはるかを抱き止める。

 密着したところから、はるかの柔らかな感触と熱い体温が伝わって来る。艶やかな黒髪がふわりと私に掛かり、甘い香が微かに漂う。

「大丈夫?」

「ナ、ナナ、悪い……!」

 私に抱き着くような姿勢になってしまったはるかと、至近距離で顔を見合わせる。

 その瞬間、はるかは真っ赤になってしまった。

 同時に、何故か周囲ならおおっとどよめきが上がる。いつの間にかこちらを見ていたクラスのみんなが、期待に満ちた目を私たちに向けていた。

 私は、うぐっと眉をひそめた。

 周囲からは何かを求められている気がするけれど、この状況、えっと、私はどうすればいいのだろう……?




 アミリアさんとの交渉が成立してから一週間ほど経過した後、本格的に梅雨の様な空模様が続く様になった頃。

 はるかが、私と駿太にと荷物を持って来た。

 アミリアさんからだ。

 お昼休みに食堂の一角に集まって確認すると、それは不思議な輝きを持つ石が埋め込まれた、銀細工のペンダントだった。

「これは、アミリア先生の庭園の入り口を示してくれるのと同時に、俺の付き添い無しでも秘密の庭に入れるようになる鍵みたいなもの……らしい」

 俺も詳しくはわからないんだけどなと、はるかが苦笑いをしながら首を傾げた。

 私は、革かビニールかわからない不思議な質感の紐を首に回して、取り敢えずそのペンダントを身に付けてみる。

 デザインや装飾は悪くないと思うのだけれど、いかんせん普段からアクセサリーなんて身に付けた事がないから、何だか違和感を覚える。

 無くすといけないので、常時身に着けていた方がいいだろう。

 私がそのまま制服の胸元にペンダントを押し込んでいると、隣で駿太がぐえっと奇妙な呻き声を上げた。

 はるかが、ぷっと噴き出す様に笑い声を上げた。

 どうやらアミリアさんのペンダント、紐部分が駿太の太い首には短すぎたみたいだ。銀細工のペンダントヘッドが、喉仏のあたりで止まって首にめり込んでしまっている。

 私には、余裕の長さだったのだけれど。

 紐を解こうと悪戦苦闘する駿太のその姿に、私もふっと笑ってしまう。

 今度、紐部分を延長してあげよう。

 そのプレゼントをもらった日の午後、学校が終わると、私と駿太は早速アミリアさんの秘密の庭に向かう事にした。

 まずは、はるかが置かれている状況を良く確認しなければならない。

 再びやって来た秘密の庭は、やはり私たちの側とは違っていた。

 外はポツポツと雨が降る蒸し暑い天候だったのに、秘密の庭は雲1つない快晴で、秋を思わせる爽やかな風が吹いていた。

 草花の香りがふわりと漂い、庭木がさらさらと音を立てて揺れている。

 乾いた芝生の上に寝転がれば気持ちよくお昼寝が出来そうで、何だか傘を持っている私たちが酷く場違いな様に思えてしまった。

 私たちは、取り敢えずアミリアさんの所に向かう事にした。

 アミリアさんは、最初に出会った時と同じ様に、一階のテラス席で書き物をしていた。

 私が代表して、来訪のご挨拶とペンダントお礼を伝える。

 アミリアさんはギロリとこちらを見ると、なんでも見透かしてしまいそうな緑の目をすっと細めて、ああと頷く頷いただけだった。

 歓迎されているのか迷惑がられているのか、多分後者だとは思うけど、やはりアミリアさんが何を考えているのかは全然わからなかった。

 綺麗に整っているのに、一切の感情が窺えない無表情なその顔を見ていると、失礼ながら何だかまるで人形みたいだなと思ってしまう。

 気を取り直して、私と駿太ははるかが生活しているという部屋へと案内してもらう事にした。

 アミリアさんのお屋敷には無数の部屋があったけれど、住んでいるのはアミリアさんとはるか、それにお手伝いさんが2人だけだそうだ。

 たまにアミリアさんのお客さんが来るみたいだけど、基本的にはその4人だけなので、お屋敷の中は閑散としていた。静まり返った洋館というのは、やはり少し不気味に感じてしまう。

 はるかは、しかし特段何を気にする風もなく、慣れた調子で無人の廊下を軽快に進んで行く。長い黒髪が、その動きに合わせてふりふりと揺れていた。

 最初は、建前とは言え女子化訓練を行う為にお屋敷に行くという事に、はるかはあまり乗り気ではなかった。そんな事よりも、3人でどこかに遊びに行こうと繰り返していた。

 でもいざこうしてお屋敷にやって来ると、駿太と話し込んでいるはるかは、とても楽しそうだった。まるで、初めて友達を自宅に招いた子供みたいだ。

 活き活きとして明るく微笑むはるかは、同性からみてもとても可愛いらしく見える。

 駿太も、遼の間合いで近づいて来るはるかに、少し顔を赤くしてドギマギしている様だった。

 ……話ている内容は、中学の頃のアニメとかゲームとか、比較的どうでもいい事ばかりだったけど。

「おっと、ここが俺の部屋だ」

 はるかが、私を見てこくりと頷く。

 ……はるかの、遼の部屋。

 私は、学習机があって漫画やプラモが並ぶ棚がある、私や駿太も入り浸っていたあの遼の家の部屋を思い浮かべる。

 はるかが、ぎっと軋む古い扉を開く。

 その向こうに広がっていたのは、遼の部屋なんかとは比べ物にならないほど広い、ホテルのスイートルームみたいな立派な部屋だった。

 ぎゅむっと信じられないところまで足が沈み込む絨毯。私と駿太とはるかと、多分3人で寝ても余裕のあるベッド。可愛らしい猫足の丸テーブルとお揃いの椅子。その上に置かれた白磁のティーセット。窓際に置かれたどっしりとした書き物机は落ち着いた飴色で、一目で高級なものだとわかる。

 壁にはクローゼットらしき両開きの扉と、別の部屋に繋がっているのだろうか、もう1つドアがあった。

 凄い豪華な部屋だ。テレビで見る外国の宮殿みたいな。

 だけど……。

「汚い」

 私はむうっと眉をひそめながら、思わずそう言い放つ。

 その私の感想が聞こえなかったのか聞こえないふりをしたのか、「入れよ、駿太」「おう、お、お邪魔します……」と、はるかと駿太はさっさと部屋の中へと入って行く。

 はるかの部屋は、何もかもがやりっぱなしで、恐ろしく片付いていなかった。

 ベッドは、今まさに布団から出ましたと言わんばかりの形だったし、その上には脱ぎっぱなしのパジャマが放置されていた。椅子にも服が掛かっていたし、クローゼットの扉も半分開いたままだ。

 書き物机には教科書や難しげな本が積み上げられ、やはり今まで勉強していたかの様にノートやペンが広がっていた。

 男の子の部屋。

 そんな表現が自然と思い浮かぶ。

 遼のおばさんと駿太のおばさんが、男の子は全然片付けないと嘆いていたのを思い出す。奈々子ちゃんがお嫁に来てくれればねーとか、いつもそんな冗談を言っていたっけ。

 私もそれほど綺麗付きというわけではないけれど、これは酷いと思う。

 腰に手を当て、ふっと深くため息を吐く。そして私は、大股でのしのしとはるかの部屋に足を踏み入れた。

 はるかと駿太は、窓から外を見たりここはテレビがないんだよなと話しながら、部屋の中をうろうろしている。

 私はそんな2人の脇を通り抜けて、勝手にばっとクローゼットを開いてみた。

「やっぱり……」

 案の定、クローゼットの中も無茶苦茶だった。

 私たちと一緒に買った服が乱雑に散らばり、洗濯が終わったらしい衣類が籠に積まれたままになっていた。

「はるか……!」

 私はさっと踵を返し、実家から漫画でも持って来るかと呟いているはるかをキッと睨み付けた。

「もう少しきちんと片付けなさい! だらしない!」

 私の指摘に、びくっと身を竦ませたはるかがこちらを見る。

「女の子なら身だしなみの事にも気を使わなくちゃ。これじゃ、服にシワがついちゃうでしょ!」

「いや、俺、中身は女じゃ……」

 私の指摘に、はるかがごにょごにょと言い訳をする。

「服のたたみ方とかしまい方とか教えてあげるから、散らばってるの、集めなさい!」

「えっと、女子化訓練は建前じゃ……」

 えっとショックを受けた様にびくりと肩を震わせるはるか。

「片付けなんて、普通に生活していく上での常識だよ」

 私は、声を引くしてそう言い放つ。

 考えてみると、遼は今までずっとおじさんとおばさんと一緒に暮らして来たのだ。だから、このお屋敷での生活が、初めて親元を離れての生活という事になる。色々と、慣れないことやわからないことが多いのかも知れない。

 ここのお屋敷のお手伝いさんというのが、どのくらいお世話してくれているのかわからないけれど……。

 私は渋々な様子のはるかと一緒に、服を片付けていく。もちろん、駿太にも手伝わせる。

 しばらくして、突然駿太が悲鳴を上げた。

 何事かと思ったら、クローゼットから運び出す様にお願いした衣類籠から中身を落としてしまった駿太が、それを拾おうと手を伸ばしたまま固まっていた。

 駿太が手を伸ばしていたのは、はるかの下着だった。

 なんの装飾もないシンプルな白のブラだった。私も体育の着替えの際にはるかが身に着けているのを見た事がある。

 そんな駿太の様子を見たはるかが、口元を三日月型に歪めてにやりと微笑む。私とはるかの視線に気が付いた駿太が、真っ赤になって言い訳をし始める。

 ……親友をからかい始めたはるかはとても楽しそうだけど、これではいつまでたっても片付けが終わらない。

 まったく、これだから駿太もはるかも、弟に思えてしまうのだ。

 ……あ、はるかは妹か。

 そんな脱線ばかりで、結局片付けを終えるのにかなりの時間が掛かってしまった。圏外になっている携帯を見ると、既に時刻は夜9時を回ろうとしていた。

 空間がずれているとかそういう話は良く理解出来ないけれど、こちらとあちらは、時間はだいたいあっているとはるかが言っていた。そろそろ帰るか連絡しておかないと、お母さんとお父さんが心配してしまうだろう。

 ……今日のところは、服の片付けしかしていないけれど、ここまでかな。

「はるか。私たちそろそろ帰るから」

 片付けに飽きたのか、何故か駿太に勉強を教え初めていたはるかに声を掛ける。

「え、ああ、もうそんな時間か……」

 顔を上げてこちらを見たはるかの顔が、きゅと曇ってしまう。誰が見ても一目瞭然でわかるほど、落胆している様子だった。

「ああ。そうか。じゃあまた来るよ、はるか」

 駿太も立ち上がり、帰りの準備を始める。

 1人書き物机に残ったはるかは、しゅんと肩を落とし、悲しそうな表情のままじっとこちらを見つめていた。

 ……胸の奥がずきりと痛む。

 初めてこのお屋敷に来た時も前回訪れた時も、私たちが帰る時には、はるかはそんな顔をしていた様に思う。

 はるかの案内で、私たちは秘密の庭の外へと向かう。お屋敷を出て、すっかり暗くなってしまった庭園を並んで歩く。

 既にはるかは、いつも通りの表情に戻っていたけれど……。

「……大丈夫?」

 駿太との話が一段落したタイミングを見計らって、私はそっとはるかに並んだ。

 はるかは、どきりとした様な顔をして私を見る。

「えっと、何だよ、ナナ」

「だって、何だか悲しそうな顔をしてたから……」

 私がそう言った途端、はるかは気まずそうな表情を浮かべてぷいっと私から顔を逸らしてしまった。そしてそのまま、眉間にシワを寄せて黙り込んでしまう。

 だんだんと、庭の出口である木戸が近付いて来る。

 先ほどまでわいわいと話していたのが嘘の様に、私たち3ん人は黙り込んでしまう。微かに聞こえる木々の騒めきと私たちの足音だげが、夜闇に包まれた庭園に響いていた。

 そのまま木戸の手前の緑のアーチに入ろうとした時、不意にはるかが立ち止まった。

 どうしたのだろうと私も足を止め、はるかの顔を窺う。駿太も、少し行き過ぎてからこちらを振り返った。

 はるかは顔を上げ、ふっと息を吐いてから私と駿太を見た。

「……ナナ、駿太。もし良かったら、今度は泊まっていってくれ」

 そう言うと、少し恥ずかしそうに少し悲しそうに笑うはるか。

「やっぱり、駿太やナナといると安心する。でも、さっきまで2人がいてくれた部屋で1人になるというのは、その、寂しいって言うかなんて言うか……」

 はるかは、腰の後ろで手を組みながら少しだけ視線を落とした。

 近くの街灯の光が、淡くそのシルエットを照らし出す。

「……もう慣れたけど、知らない部屋で鏡を見たら知らない女の顔が写ってて、声を出しても女の声で、本当に俺は俺なんだろうかって思う時があるんだ。でも、ナナや駿太が一緒にいてくれれば、ああ、俺はここにいていいんだって思える。ここにいるのが俺なんだって思える。だから、その……あの屋敷に独りでいても寂しくないって言うか……」

 私たちを一瞥してから、また恥ずかしそうにすっと視線を外すはるか。

 ああ、と私は納得する。

「もちろんだよ。今度泊まりに来る」

 だから私は、はるかが再び何かいう前にはっきりとそう告げていた。

 秋陽台高校にやって来て私や駿太に自分が遼であると告げてからずっと、はるかは自分が女の子になってしまった事について特に気にしているそぶりを見せなかった。

 もしはるかが遼なら、自分が変わってしまった事について悩みは無いのかとずっと思っていたのだ。女の子になってしまった事をなんの抵抗もなく受け入れてしまうなら、それは私たちの知っている遼を否定するという事だ。遼にそんな事はして欲しくないし、私にとっても認められない事だった。

 だから私は、はるかが遼であるという話にどこか納得がいかなかったのだと思う。

 だけど、これが彼女の気持ちなら、遼の気持ちだというのなら、やはりはるかは……。

「また来る。明日もくるからな!」

 駿太がむんっと気合の入った声を上げる。その声は、ちょっと力の入り具合が暑苦しい感じだった。

 その勢いに一瞬ぽかんとなってしまったはるかだったけど、直ぐにふっと微笑んだ。

「よし、じゃあ明日はお泊り会の計画を立てよう」

 私も笑いながら、はるかを見る。

 夜の帳が下りた秘密の庭園に、涼やかな夜風が吹き抜ける。

 ふわりと揺れる黒髪を押さえて、輝く様な可憐な笑顔を浮かべたはるかがうんっと大きく微笑んだ。

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