予感
お久しぶりで申し訳ありません(汗
かたん、と静かに置かれた箸を見て弓子は手を伸ばしながら訊いた。
「智明ちゃん、おかわりは?」
「…ううん、もうおなか一杯だから。ご馳走様でした」
遠慮しているわけでなく、実際何だか胸の辺りがもやもやして喉の通りがよくなかった。
作ってくれた弓子には申し訳ないが、味もあまりよくわからず口に運んでいただけだったように思う。
こんな他人事のような表現になるのも、自分が今食事をしていた間の記憶が曖昧だからだ。
そんな様子を弓子にばれてはいないだろうか、挙動不審になってはいまいか。
「あら、本当に?なんだか箸の進み具合も余りよくないし、今日のご飯おいしくなかったかしら…」
「えっ?!そ、そんなことないよ、今日もおいしかったよ!!」
やはり感付かれてしまったかと思ったが、弓子の心配はそっちではなかったようで智明も内心安堵する。
智明は慌てて弓子の懸念をそうではないと否定してみるが、失敗に終わってしまった。
「でもねえ…。ねえ、明さんもそう思うでしょ?」
「ふむ、そうだね。ちょっと元気ないかなとは思ってたけど」
「ほら、ご覧なさい。智明ちゃんが無理して隠そうとしても、おばさんたちにはわかっちゃうんだから!」
うーん。
隠してるわけじゃないんだけどなあ…。
ただ、ちょっと言えないだけで…ってやっぱ、隠してることになるのかな…。
「…なにをわけのわからんことを言ってんだか」
「なあに?そんな無関心装っててもあんたが何か知ってるのは母さんだってわかってるのよ、櫂」
「何かってなんだよ」
「それを聞いてるんじゃないの!」
ほっといてやれよとばかりに櫂が割って入ってきたが、弓子の標的は櫂にまで照準が当たってしまった。
「あ、あの…」
「飯食ってんのにうっせえなあ!いい加減にしろよ!!」
「し、森…」
眉間に大きな皺を寄せた森が持っていた茶碗と箸を乱暴に食卓に叩きつけると、怒鳴りながら勢いよく立ち上がったせいで椅子が悲鳴を上げて後ろに倒れた。
その剣幕にびくん、と肩を竦ませた智明は恐る恐る森を見上げその顔を窺い見るが、その瞬間に反対側から智明の腕に櫂の手が触れた。
驚いて振り返ると櫂がゆっくりと首を左右に振る。
黙ってろってことなのだろう。
だが智明は森とおばさんたちが自分の態度のせいでケンカするのを黙って見てられない。
そう言おうとするのを見越していたのか、櫂は小さな声で「大丈夫だから、森に任せておきな」と言われ目を丸くする。
「大声出してあんたが一番うるさいんじゃないの。ていうより森、大体あんたが原因なんじゃない?」
「…は?」
「まあ、疑わしいといえばそうだね。今までも何か起きたときは大体森が中心にいた事が多いからね」
「ちょっ」
「でしょ?ほら、明さんもそう言ってるんだし、白状しなさい!」
「おい!!なんで俺が悪いことになってんだよ!!」
「だってあの時もそうだったじゃないの、母さんまだ覚えてるわよ?」
「ああ、森と櫂が智明ちゃんの取り合いした時のことだろう?」
「そうそう!智明ちゃんが珍しく大泣きする声がして驚いて部屋へ飛んでいったら…」
「あの時はあんな子供なのにまさか間違いが起きたのかと僕は一瞬焦ってしまったよ…」
「まあ、明さんったらそんなこと思ってたの?」
「だってほら、ウチの子達は智明ちゃんに対する執着と言えばそれはそれはもう…」
「だあああああ!!いい加減にしろっつの!!あれは俺だけのせいじゃねえし、単なる事故だ!!」
怒りのせいかはたまた過去の汚点を引っ張り出された羞恥のせいか。
顔を赤く染めた森が毒霧でも吐きそうな勢いで咆哮の如く叫ぶと、楽しそうに話していた弓子と明がぽかーんとそれを仰ぎ見る。
そんな二人をびしっと指差し、「何でもかんでも俺のせいにするのはやめろ!」どんなスキルだまったく、とブツブツ言いながら森はダイニングを出て行ってしまった。
「そんなことしてないわよねえ?」
「そうだよねえ?」
弓子と明はのほほんとお茶を飲みながらにこにこと見詰め合っている。
今のはなんだったんだろう、と智明が混乱しながら呆然としていると櫂がその腕を取った。
持ち上げられるような動きにつられて立ち上がると、そのまま腕を引かれてしまう。
「あ、ご…ご馳走様でした!」
「はーい、順番にお風呂入っちゃってね?」
「はい」
慌てて弓子に挨拶をすると智明は櫂に部屋へと連れ去られてしまった。
その様をにこにこして眺めていた弓子はふう、と溜め息を吐いた。
そんな妻の手を握りながら明が呟く。
「やっぱり何かあったんだね、あの子たち」
「そうみたいね、森がああやって庇うのはずっと変わらないもの。だけどもう私達に話せることはあまりなくなってしまったのね」
「…微妙なお年頃ってやつさ。君にも覚えがあるんじゃないのかい?」
「そうねえ、色々あったけど。私には明さんがいたから」
「そうだね、僕も同じだよ。あの子たちも大事な誰かを見つけて幸せになって欲しいね」
うふふ、と少女のように頬を染めて笑う弓子を幸せそうに目を細めて明は見詰めていた。
何が何だかわからないうちに櫂に引き摺られるようにして階段を昇ると、櫂が漸く智明の部屋の前でその腕を離した。
さっきのは何だったのだろうと、智明が櫂に尋ねようとするのをやんわりとだが意図的に遮る。
「櫂、あの、さっきの…」
「智明、俺先に風呂入るから」
「…えっ?あ、ああうん、どうぞ?」
「どうせすぐ森が言い訳しにくるから、聞きたいことは全部あいつに聞きなね」
「え、ちょ…?」
じゃあな、と智明の頬を一瞬掠めるように撫でた櫂の指先を、不思議なものを見るような眼差しで眺める。
確かにこれ以上話す気はないらしい櫂の背中を見送って、智明はまだ解決できない胸のもやもやを感じながら自分の部屋に入った。
一方森が先に戻っているだろう部屋の扉を櫂が開けると、ベッドにひっくり返っているのが目に入る。
天井を見詰めながら櫂に視線を寄越さずに「なあ」と話しかけてくる。
その声に顔を向けることで先を促す櫂を相変わらず見る事無く森は溜め息を吐きながら続ける。
「さっきおふくろが言ってたあのことお前覚えてるか?」
「…当たり前だろ。アレは俺にとっても智明を泣かせてしまった汚点だからな」
「だよなあ…」
事の発端はいつも通り。
智明を挟み森と櫂が争う、本当に日常の風景だったのだが。
確かあの時は智明と一緒の布団で寝るのはどっちだという、実に子供らしくもくだらないテーマだった。
3人で一緒に寝ればいいじゃないかと智明の提案は敢え無く二人に却下され、実際いつも通りといえどもあの時はいつになくお互いムキになっていた。
森が智明の腕を引き、引き寄せられるその智明を阻止すべく咄嗟に足を掴んだ櫂。
暫く二人の力は拮抗し手足を引っ張られる智明が痛みを訴えるが、頭に血が昇ってる兄弟にその声は届かなかった。
痛い、痛いと半べそをかきながら智明が叫んで初めて二人は自分が掴んでいた腕と足から力を抜いた。
だが、その隙に智明を奪われてなるものかとお互い瞬時に思った結果。
森はパジャマの上着を。
櫂はパジャマのズボンを。
掴みなおしたそれぞれを力任せに引っ張ると、森が持っていたパジャマの上着のボタンが一気に弾け飛んで、智明の体を包んでいたその布はあっさりと脱げた。
櫂が引っ張ったパジャマのズボンは少々ウェスト部分のゴムがしっかりしすぎていたのか、いとも簡単に下着ごと巻き込んでスルっと一緒に脱げてしまった。
森が引いたせいで上着は智明の体を少し浮かせた状態だったため、脱げた瞬間に数センチ背中から着地した衝撃とまだ新しいお気に入りのパジャマの末路に、智明は大泣きしてしまった。
「あれはなんていうか…未だに俺も何であんなことになったのかよくわかんねえんだよな」
「どういう意味だ」
誰に言うともなく呟いた言葉を勿論会は聞き逃さなかった。
責任逃れでもする気かと殺気の篭った視線を向けるが、森はと言うと全く意に介していない。
「うーん。あのときさ、俺もお前も智明の言うことに耳を貸さなかっただろ」
「…ああ」
「俺何度も考えたけど、あそこまでムキになる理由とか、智明の仲裁する隙すらなかったあの意味が全くわかんねえんだよな」
「そういうことか…」
「揉めた原因も毎日やってたことと大差ねえしさ。ある意味日常の中の異常だったなあれは…」
智明が人前でああして泣いたのは後にも先にもあれっきりだった。
ルルの傍で人知れず泣いていたのだろうけど、あんな智明を見てしまったのは衝撃だった。
どう考えても智明が痛がるのに暫く気が付かないほど、自分たちがあんなに大事にしてきた智明の体を引っ張り合うなんておかしいと櫂も思っていたことだ。
本当はいつだって智明を困らせたくなかった。
独り占めしたくてケンカばっかりだったけど、それでも森も櫂も大事だよっていう智明こそが自分たちにとって大切だった。
怒ったり呆れたりしょっちゅうだったけど、そんな顔も勿論可愛いと思ってたし好きだったけど。
智明には幸せに笑っていて欲しい。
そこだけは森も櫂も想いは変わらなかった。
とすれば、あんなことが起こった原因は恐らく…櫂は一つの仮説に辿り着いた。
「…必要だったから、じゃねえの?」
「あ?なにがだよ?」
「俺らがあそこまでムキになったこと」
「…なんだ?」
「確かにあの時はガキだったけど、俺も森もあそこまで感情がコントロールできなかったのには、なんらかの意図を感じるって意味だよ」
「意図?誰のだよ?」
「さあ、そこは俺に聞かれてもな。ただ俺が思ったのは智明がああして泣くための、って感じかな」
「…お前ってさ、たまに変なこと言うよな」
「森に言われたら俺も終わったな…」
「………」
森と櫂が部屋でそんな話をしているとき、智明も一人でさっきの弓子達の会話で同じことを思い出していた。
いつもの言い争いのはずだったのに、何故か自分の声が二人に届かなかった。
痛いと言ってもその力は緩むことがなかった。
腕と足は確かに掴まれているはずなのに、二人の視界には自分なんか存在してないかのようで、なんだかとても怖かった。
必死で叫んだ声にはっとしたように掴まれていた箇所から力は消えたのに、依然違うところが引っ張られていた。
次の瞬間胸で何かが弾け、背中と後頭部を少々打った衝撃が走り、床の感触がダイレクトに感じ自分の体が何も纏ってないことに気付いた。
まだ買ってもらったばっかりだったお気に入りのパジャマだったのに。
あの衝撃はもしかしてパジャマが破けたものだったかもしれない。
それを森と櫂がやっただなんて、信じられなかった。
普段泣かない智明のその声を聞きつけ弓子と明が慌てて子供達の部屋に駆けつけると。
仰向けで何故か素っ裸で大泣きしている智明と、その智明の着ていたはずのパジャマをそれぞれ手に握り締めて呆然とする森と櫂。
家族の誰もが智明のこんなに泣いた姿を見た事がなかった。
その衝撃で森も櫂も暫く何も言葉にすることが出来ずにいた。
それは弓子も明も同じで、弓子は泣き続ける智明を抱き上げ背中を擦った。
明に目配せをして森と櫂を部屋から出し、もう大丈夫だからねと別のパジャマを着せて泣き止むまで何も聞かずに傍に居てくれた。
智明が何より悲しかったのは、森と櫂が自分の仲裁を一切聞いてくれなかったからだ。
もう二人が自分のことなどどうでもよくなってしまったのかと思ったら、我慢できずに大声で泣いてしまったのだ。
だがそれは誰にも言えない理由だった。
弓子に聞かれたとき「痛かったから」とだけ話した。
知っているのは、ルルだけ。
みんな智明に優しくしてくれるけれど、本当の家族じゃないのはわかってる。
もしみんなに嫌われてしまったら、自分はどうなるのだろう。
幼い頭で何度も考えた。
森達は自分が可哀相だから優しくしてくれて、一緒に暮らしてくれているんだ。
そんなことを面と向かって言われたことがあった。
だからいい気になるなと、お前は特別なんかじゃないと、その子はまだ言い募ってた気がする。
じゃあ可哀相じゃなくなったら?
おじさんもおばさんも森も櫂も自分の事は好きでもないのに、その上可哀相でもなくなったら?
だからこうなってしまったのだとしたら、僕はどうすればいい…?




