8
自分の足が向かわなかったこともあり、ランドは長い期間ワカバに会いに行かなかった。そのせいか、研究所での風当たりも和らいだ。事務仕事や講義をマニュアル通りに進めて行けばいいだけなので、時間もたくさん余ってきた。お陰で国立図書館の常連にもなった。
そんな中、ランドは突如アーシュレイ王の呼び出しを食らった。いや、言い方が悪い。拝顔の栄を浴する機会を与えて頂いたと言うべきだ。それはランドがここに来た最初の目的であり、出来れば果たさずにおきたいものだった。
国王はまず世間話というようなところからランドに話し始めた。
「なかなか優秀だと聞いておる。主席卒業、主席入所だそうじゃな。孫のアイルゴットもそなたのように優秀であればよかったのじゃが、あれは儂に似てよく道に迷う。弟グラディールが、健康であれば何も心配なかったのじゃが。…このご時世でなければ、ラルーにアイルゴットを鍛え上げてもらいたいものじゃ」
アーシュレイ王はそう言いながら痩せ細った肩を上下に震わせ笑った。魔女狩りをしたアーシュレイは魔女ラルーが教育係だった。だから、アーシュレイは信頼するラルーをここに残した。それは言わずもがな誰もが知っていた。
ラルーはその頃から容姿を変えていない。魔女と呼ばれる所以だ。
「魔女を狩った張本人が、魔女に孫を任せるなんて発言する。滑稽極まりないわな。もしかしたら、狩られた魔女が城のどこかで働いていてもおかしくない…そう思わんでもないわな」
深くランドを見据えるアーシュレイはもう笑っていなかった。ランドの妹のことを言っているのだ。
カラスが妹の肩に止まったのだ。突かれるのが怖くて彼女はじっとしていた。そして、カラスが飛び立ったのと同時に彼女も家に飛び帰ってきた。ランドの妹なのだから、おそらく少し変わったところがあるとは思われていたのかもしれない。色々なことに興味があり、行動的だったということも小さな村では仇にされたのかもしれない。いや、それよりも妹は村の誰よりも天気をよく当てていた。
「だって、雲を見てたら分かるんだもん」
あの頃だってここで働く職員なら、雲の動きと天気が関わっていることくらい知っていただろう。
妹は『魔女憑き』だと言われ、当時、アナケラス王が指揮を任されていたリディアス軍の魔女狩りで連れ去られた。そして、両親は妹なんていなかったかのようにして過ごし始めた。妹の友達も隣に住んでいる者たちも同じだ。妹は存在しなかった。ランドなんかよりもずっと信心深かった妹が魔女になった。
時期が悪かったのだ。ちょうど、過去の栄光に陰りも見え始めた頃だった。隣国のワインスレーが力をつけ始めていた時だった。奇しくもワインスレー地方には魔女を崇拝する習慣があった。ワインスレーなんて小国にまで…そう、他国に対しての威厳も保たねばならなかった。リディアス国民全ての命を守るため。
時期が悪かった、運が悪かった、ただそれだけの話。いや、妹が悪いのだ。
それなのに全てが激流にさらわれていくようだった。最後の詰めさえ押さえなければ、人は希望を失わずにいられる。そのどうしようも出来ない虚脱感、無力さ、情けなさ、それらがランドの中に流れ通り過ぎた。そして、怒りや憎しみ、悲しみなどが混沌と入り混じる感情がランドを飲み込む。あの時に生まれた疑問が息を潜めて、今もずっと胸の奥の方で冷たい瞳を光らせていたということを認識させられた。病に伏せていたせいもあるだろう。目の前には弱々しい年を取って皮と骨とも言えそうな色白の老人が、ランドに頭を下げている。
「どうか頭をあげてください。陛下は英雄なんですから」
「アナケラスが魔女狩りに拘るのは、儂が銀の剣で魔女を刺したからだ。だが、分かっていて欲しい。アナケラスは少し、強さに固執してしまうが、儂よりもずっとこの国の行く末を思う王なのだ。だから、『トーラ』を求めぬようラルーと共に支えてやって欲しい」
どうして魔女狩りで英雄になったアーシュレイ王が、魔女狩りを強行させていた息子アナケラス王の業績をランドなんかに詫びるのか。魔女狩りで名声を得たのは、リディアスの地位を確固としたのは、誰を置いてもアーシュレイその人だ。息子はその名声や、地位をさらに強固にした。それだけのことじゃないのだろうか。それだけのこと、でなければいけなかった。
アナケラスが取り仕切った魔女狩り全てが、国のために必要不可欠なものでなければならなかった。
だから、リディアスはどこの国よりも医療が発達した。どこの国よりも強い兵を持っている。『魔女』を敵にすることで国民が一つになった。そうでなければ、いけない。
頭の中でそう繰り返しながらランドは敬礼して、その広間を退出した。
ランドが大人しくしていたせいだろう。研究所の人間は英雄アーシュレイと話をしたというランドを羨ましがり、話をよく聞きたがるようになった。
そんなことも影響しているのか、ランドの仕事量がさらに増え、出張に振り回されるようになっていた。パルシラはその後、数か月城壁回りなどの仕事もしていたのだが、結局リディアスという組織から姿を消した。
そして、アーシュレイ王が崩御された。ランドは国王と話した数少ない英雄の一人になった。もしかしたらアーシュレイを呪い殺したと言われるかもしれない経歴の癖に、だ。
間もなくすると世の中は完全にアナケラス王の天下になった。それを境にして魔女への実験が再開された。動物と魔獣の違いを遺伝子レベルでどう違っているのかを調べていたガントにその実験を監督する役目が与えられ、出世コースに乗った。その研究の中で、動物がどのようにして魔獣に変わり、その反対に魔獣を動物にというところまで詳しく説明されている。もちろん大名目は後半部分だ。人間を恐れる動物に魔獣が戻れば、国民は安心して生活を続けられる。
ランネルに見初められたガントはそれを実験で証明するだけの力を持った。研究者としてはありがたい抜擢だっただろう。しかし、A→BになってもB→Aにはならないのが現実だった。理屈としてはゆで卵が生卵に戻らないということとあまり変わらないのかもしれない。違いは、その両者ともに生きていると思わせること。
あの魔女の場合、一体どちらに所属しているのだろう。
そして、その実験は一度消炎したものを再燃させるものになった。魔女への目も当てられない実験が月に一度どころか数回行なわれ始めた。ワカバの場合、吐き出させる秘密はないはずだから、拷問はないのだろうが、限界実験はあるのかもしれない。どの時点で気を失うのか、どの時点で精神を崩壊させるのか、どの時点で…魔力というものが発せられるのか。
ラルー以外の人間に対して敵意を見せるので誰も近寄ることが出来ない。精神錯乱者のように泣き崩れ、あの一室の片隅で膝を抱えて動こうとしない。実験室へ連れて行くのは至難の業だ。
あの人間を睨みつける目を見たか? あれは、手のつけられない恐ろしい魔女だ。
ランドは鈍器で殴られたような痛みを感じた。あんな実験を繰り返せば、ワカバが人間を恐れるのは必至事項じゃないか。体中を使っても拒絶するのは当然じゃないか。
ガントが生み出した魔獣を魔女のいる実験室へと放り込む。魔女は魔獣を操ることが出来るのか、もしくは、それを魔法で消し去ることが出来るのか。
魔獣は魔女に噛みつき、その肉を引き裂いた。魔女があげた悲鳴、いや、絶叫に魔獣がもう一度飛び掛かろうとするところで実験はやむなく中止だった。
赤い血が流れたという。噛みつかれた腕の肉が削げて骨が見えていたという。気を失った魔女の傍には銃殺された魔獣が横たわっていたという。
彼らは魔女の生死をその足先で確認したという。魔獣はごみ袋に詰められたという。
残されたのは紅い海。
「まさかその格好で会議に出席なさるおつもりですか?」
ランドを監視するように長官秘書マリアがランドを補佐していた。ランドが「えぇ」と答えると、糸が切れたように金切り声をあげて反対した。
「そんなふざけた格好で。いい加減になさってください」
「そうですか?」
「絶対にそんな眼鏡はいけません」
マリアが言うのは、ランドがつい最近に購入した顔を大きく隠すサングラスのことだ。
「いいじゃないですか。会議室の光は目に悪いんですよ」
「いいえ。誰がそんなことを信じると思うんです? だいたい、亡くなる前にアーシュレイ様があなたをお呼びになったからって、誰がそれを特別視すると思うんです?」
「あっ、そろそろ時間ですね。心配いりませんよ、だって、これ以上お荷物にはならないでしょうし」
「私は、あなたの将来を思って」
ランドは背中でその忠告を聞いて「わかりましたぁ」と答えた。特別視なんてするはずはない。これはただランドの弱さからなるものだ。