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 それから数ヶ月、ランドがワカバと一緒にご飯を食べるということも、少し食べてくれるようになってきたことも、その部屋に金魚を置いてきたことも問題にされることなく過ぎていった。ワカバは相変わらず何も話さないが、ランドの問いかけに対し、首を傾げたり、頷いたり、横に振ったりするようになってきた。それなのに、ランドの業務は日々増え続け、魔女との時間を作れなくなってきた。


 そして、二度目の草木が芽吹く季節、最終学年の新しい研究生を迎える季節になった。新しい研究生を各学者の部屋へと案内する。ランドが彼らを案内するのはこれで二度目だが、今回は魔女部門主任という肩書が付いていた。部下は誰もいないが、異例の出世ということで、相変わらず風当たりは悪い。新しい顔は様々な年齢と男女が含まれていて、上級学校の講義の際に見た顔もあったが、誰もが不安と喜びの間の表情を浮かべ、緊張しながらランドについてくる。自分の興味ある研究分野の部屋に入る時、今まで取っていたメモの量が増える。ランドはその部屋の説明をし、何の反応もない研究者たちの紹介を一生懸命な研究生に伝える。


 若い研究生はどうも最近出来たばかりの魔女研究室に興味があるようだった。おそらく、活躍の場を広げている魔女部門に所属する長官、ランネルに憧れている者が多いのだろう。ほぼ全員の期待が満足に満ちてきた中、最後にガントのいる研究室に入った。


 ランドは今までどおり説明をして、職員の紹介をしていった。手を止めて会釈をしたのはガント一人で、他の職員は実験道具をそろえたり、成分表を眺め、次の指示を飛ばしたりしていた。その中で、一人の研究生のメモを書く手が早くなっていた。身なりにあまり気を使わなさそうなぼさぼさ頭の研究生だった。最近では珍しいので、気にせずとも気になってしまう存在だ。そして、全ての案内が終わるともう昼近くになっていて、研究生たちを学校へ返す時刻になっていた。


「お疲れ様でした。それでは解散します」


研究生たちが「ありがとうございました」と一礼し、帰路へついた。やっと自由な時間を得た。


 ワカバに会うのはとても久し振りだった。それでも他の職員に比べると、ラルーの次にワカバと会話をする人間なのかもしれない。ワカバはランドを見つけると、明るい緑の目が子猫のように丸くなり、その頬を緩め、小さな口にうっすらと微笑みを見せるようになった。警戒はあるが、ランドはワカバに認められている存在になった気がした。


「こんにちは。お久し振りですね。私がいない時もちゃんと食べていましたか?」


ワカバが笑って頷くのを見ると、ランドはトレーに二人分のサンドイッチを乗せて部屋へ入った。


「今日は、ツナサンドにしました。ラルーさんに叱られそうなので、レタスも挟んでみました」


そう言いながら、ワカバのいる部屋を改めて見回した。文机、椅子が増えており、椅子の上にはランドのあげた黄表紙の本や色鉛筆、紙が置いてあり、机には金魚鉢があった。


「置き換えたんですね」


そこはちょうど朝の柔らかい陽しか当たらない場所だった。以前よりも血色のよくなったワカバは僅かに頷き、首を傾げた。最近、ワカバは絵を描くことに興味があって、よくその金魚を描いているらしい。机の上に金魚を置いて椅子を机にして。


「ちょうどいい場所だと思いますよ」


それを聞いていたのかどうか分からなかったが、ワカバはランドの手渡すサンドイッチを摘み、一口かじった。そして、ランドの言葉を待ってから咀嚼を始める。それでもかなりよくなった方なのだ。最初は持ってくる物を全部分解し、それぞれの具を摘みながら、具とランドを見比べているだけだったのだから。


「それも魚なんですよ」


ランドが何気なく言った言葉に、ワカバの表情が固まった。どんどん血の気が失せていくようで、その両目から涙が溢れそうになっている。ワカバが涙を見せるのは初めてだった。魔女にちゃんと感情があるのを確かめることが出来たのは成果だと思えた。しかし、金魚がちゃぽんと音を立てた。


「違うんですよ」


しかし、ワカバの顔はどんどん蒼白になっていくのが目に見えて分かった。ランドは『慌てる』という動作を一生懸命になって思い出していた。慌てなければ、この状況を収拾出来ない。それなのに、その動作が思い出されるどころか、全く淡々と、言い訳がましく言葉をつなげていく自分しかいなかった。


「でも、あの金魚とは全く別のものなんですよ。そして、生き物は生き物の命をもらわないと生きていけないんです。あの金魚にもご飯をあげているでしょう?」


涙を落としたワカバが大きく頷いた。しかし、納得いかないようだった。


「金魚も食べないと生きていけません、それはみんな同じで」


ランドが話している途中に、今まで聞いたことのない小さな声が聞こえた。


「なんて言ったんですか?」


ランドは自分の耳を疑った。


「わたし、生きない」


「そんなこと言わないで下さいっ」


ランドの声は自分でも驚くくらい大きなものだった。言葉を飲み込んで、魔女を見下ろすと、自分のやってしまったことに対しての後悔が津波のように押し寄せてきた。目の前にあった物がどんどん手の届かない場所へと行ってしまうようだ。ワカバは膝を抱え、蹲って心を閉ざしていた。きっと何を言っても、何も反応しない。ここに来た時に逆戻りだった。


「本当にすみません。ワカバさんは悪くないんですよ。ワカバさんはとても優しい気持ちを持っているだけなんですから。だから、そんなこと言わないで、あなたは生きないといけません」


ワカバはもちろん動かない。拗ねた状態、とも言えそうだが、それよりももっと状態は悪い。まるで、開きかけていた扉が閉まり、見え始めていた光が窄んでいくようだった。


「今日は失礼します。絶対にまた来ますから」


ワカバとは全く目が合わなくなっていた。それが、来なくていい、と言われているように思えた。肩を落としたランドを見て、パルシラが可笑しそうに笑っていた。ランドも自分に呆れてそれにつられた。


「失敗しました」


「そのようだな」


パルシラは言葉少なにランドを肯定した。


「可笑しいですか?」


「いや、自分に呆れただけだ。私は、もうここを辞めることにするよ。だから、お前の心配をしてやるのも最後だな」


暗い、というよりも漆黒に近い影がパルシラの瞳に映っていた。


「どうしてですか?」


「ここにいても意味がないからだ」


「そうですか」


ランドの中には人を励ますだけの力は残っていなかった。



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