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彼と時間を潰したのは十分にも満たない程度だった。時々彼と話をするのはとても新鮮な気持ちになれる。これから注意を受けるにあたっては、ちょうどいいギャップがある。時間通りなら、パルシラは魔女を中庭からまたあの部屋へと連れて帰っているはずだ。そう思いながらランドは研究室の奥にある副長官室の扉を叩いた。研究室にいる他の職員たちの好奇の目に、ランドは肩を落とした。
「どうぞ」
ラルーの声は扉という障害物があたかも無いように、はっきりと聞こえた。
「失礼します」
ランドは背後にざわめきを感じながら、扉を開き、ざわめきを切り落とすように扉を閉めた。そして、緊張と共に静けさが走った。
「参るのが遅れてしまい申し訳ありません」
「お友達とのお喋りは楽しかったようですね?」
すべてお見通しのラルーは微笑みをランドに向け、ランドは苦虫をつぶし、それに答えた。
「えぇ。ここに来るにはやはり少し覚悟がいります」
「覚悟? あなたでもそのくらいのか細さはありますのね。では、どうして呼ばれているかもお分かりなのかしら?」
「だいたいは…」
「では、話は早いですわね」
誰かが来ていたのだろうか? 眼下に映るローテーブルの上には紅茶の入ったティーカップとクッキーの載せられた皿があった。叱られるのに、こんな場所に座れるとも思えなかった。
「あなたには魔女の監視役を下りてもらおうと思っております」
「はぁ」
心の中では荒波を越える船のごとくざわざわとしているにもかかわらず、曖昧な返事を返し、ランドはやはり立ち尽くしていた。
「納得出来ませんか?」
「いえ、不服ございません」
本当は不服だらけだった。ただ、その不服申し立てがあまりにも子供じみているようで、ランドはそれを呑んだのだ。表情には出していないはずだった。しかし、ラルーが見兼ねたように溜息を吐いた。
「少しお話しましょう。ただ、少し待って頂かなければなりませんから、お座りください」
ラルーはランドが座るのを見届けると、またペンを走らせ始めた。
おそらく本当は目を通さなくてもいいような文書で、サインや、印鑑を求めたものばかりなのだろう。ラルー不在時に職員たちがこぞって副長官室においた伝票や経過報告、実験結果。今後の予定、会議報告、必要経費予定表を載せていく。たくさん載せればそれだけ監査が甘くなるとでも言わんばかりに。ランドの文書もその中に雑じっている。ランドの場合は無理なお願い一覧、とでも言えそうなもの。例えば、魔女の名前を教えてくださいとか、午前勤務を減らし、宿直を増やしてください、とか。一番真面目なもので、確か、あの魔女をもう少しまともな場所へ移動させるための計画表というのがあったような気がする。卓上の紙束を見ているとその意見書をつらつらと平気で書いたランドは少し申し訳ない気分になった。
顔を上げたラルーの第一声は、やはりさっきのことだった。
「無事に戻ったようですわ。だけど、もしわたくしが不在で、もしものことがあったらどうなさるおつもりでしたの? それとも何も考えずにあなたはあの子を連れ出したのでしょうか?」
「いえ、そんなことは…」
もしも、あの時の惨事がここで起きていたらどうなっていたのか、ランドは別にそれを軽く見ていたわけでもなく、重く見ていたわけでもない。何か起こそうとすればパルシラが魔女を殺すだろうということ。そして、万が一があったとしても、ここの敷地の面積と城を合わせれば、町に被害が出ることもない。ときわの森の魔女の村とはその程度の小さな村だった。一度言葉を詰まらせたランドは、それでも言葉を繋ぎとめた。
「そんなことはない、と思っていました」
「不思議な自信ですこと」
ラルーの話し方はまるで水面に波を立てないように船を進めるようとしているような感じだった。そう、決して波は立ててはいけない。ラルーは一体どちらの立ち位置で話を進めているのだろう。魔女だろうか、ここの副長官だろうか。
「あの魔女はとても落ち着いておりました。魔女の村にあった損害面積はここと同じくらいです。それに、もし、副長官が魔女の力での被害を心配なさっていたのなら、私と出会ったあの時に止められていたはずで、もし、…」
堰を切ったように言葉が口を突いて出てきた。しかし、ラルーを見ることは出来ず、紅いお茶の表面を見つめて言葉に詰まった。その表面が弧を成し光の輪を作る。ランドの肩には力が入っていた。ラルーとは逆にランドの方は水面に轍を生み出そうとする。
「もし?」
ラルーの涼しい表情が気に食わない。もし、ラルーがあの魔女の力を使って、偶発的にでもここを吹き飛ばそうと考えている魔女だったのなら…。ランドはそれも否定出来た。ラルーに限ってそんなことはしないし、あの時ラルーはランドに忠告を与えたのだ。しかし、ランドは身勝手にこの世を滅ぼしてしまうかもしれないことをしていた。それには変わりがない。
「彼女がどれだけ魔女を憎んでいて、どれだけ機会を窺っているのかをご存じないわけがないでしょう?その気持ちを利用するのは、どうかと思いますわ」
ラルーの視線がランドに真っ直ぐ注がれていたが、ランドはラルーを見つめ返すだけの勇気も根性も備わっていなかった。そして、目を瞑ろうにも瞑れない恐怖があった。ランドは僅かに視線を逸らしながらラルーを見ていた。ラルーは怒っているのだ。とても静かに波も立たないくらいに、静かに深く。ランドはそこから逃げようとしている。だから、あの場所にパルシラを配置したのはあなたではないですか?という言葉が頭の中に巡り回った。
「例えば、あの子がそれだけの力を発さなくても、危害を与えに来る人間を一人吹き飛ばすくらい、とは考えませんでしたの? それとも彼女の命は奪われてもいいものだったのかしら?」
「そんなことは思っていません」
一息ついたラルーは、まるで小さな子どもに言い聞かせるような口調に変わった。
「確かに彼女を配置させたのはわたくしです。それは、彼女があの子を決して許せないからです。全く、他の職員はいつまであの子が何も口にせずに生きていられるか、に興味があるようですのに」
ラルーの言葉が止まったので、ランドは出された紅茶をやっと口に運んだ。少し苦く、目が覚めるような味だったが、口の中に広がっていた砂漠状態には効果があった。しかし、ランドは震えていた。この震えは、怒りからだろうか、不安からだろうか。
「でも、まだほんの小さな子どもじゃないですか。だから、あの魔女にも普通に…」
普通に、なんて敵わない場所にいる魔女を思うと今度はランドがそれ以上言葉を繋げなかった。
「人間は信じるに値しない生き物。あの子にはそう伝えております。でも、あなたにはその逆を伝えなければなりませんわね」
ラルーの声色が変わり、やっとランドは正面からラルーを見た。ラルーの表情は全く魔女には見えなかった。あれに似ている。リディアスの聖堂に祀られている女神像。威厳高く優しさに満ちた、何も答えてくれない像。ラルーがそれに溜め息のような微笑みを浮かべた。
「魔女は信じるに値しない生き物。どうか、それを肝に銘じておいてください。全くどうして人間のあなたに、こんな説教をしなければならないのかしら」
そして、まるでランドとパルシラのやり取りを聞いていたかのように、ラルーがランドを見つめた。
「食事を摂らせたいのなら、まずは一緒に食べてあげてください。だから、二度と外なんかに興味を持たせないでください」
「あの魔女のもとに行ってもいいのですか?」
ラルーが諦めた人間のするように微笑み、一呼吸した後、ランドから目を逸らせた。その視線は秘書の机の紙の束にあった。
「勝手なことをされるより知っている方がいいですわ。会うのは一日一度、あなたの休憩時間に。そうですわね、三〇分程度で十分、食事は摂れますわね。後、右の分は破棄、左の青い付箋のある方が長官室へ、とマリアさんに伝えておいていただけませんか。それから、残りの分をそれぞれに返しておいてください。あと、そこにある物も片付けておいてもらえますか」
そこにあるものとは、ランドの前に用意されていた茶器のセットだ。
「あの子の名前は、ワカバです。くれぐれもお願いします」
そう言うとラルーは立ち上がり、副長官室を後にした。
紅茶を飲み干し、紙に食べなかったクッキーを包み終え、片手に書類を抱え、片手にティーセットのお盆を持ち、ランドは誰もいない席に向かって立ち上がり一礼した。書類には一つ一つ丁寧に一言ずつ小さな文字が書き込まれてあった。不躾な態度ばかり取っている人間に対してラルーは丁寧だ。
魔女研究室の扉を開けると、さっきまでいたはずの職員たちは、それぞれの研究室へと戻ったようでしんとしていた。




