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忙しそうなマリアがラルーにスケジュールを伝えていて、ラルーが真っ直ぐ前を見ながら、時々頷き、時々微笑みながらそれに答えていた。ランドは冷や汗を掻きながら窓を背にして彼女たちの道を空けて待っていた。もしかすると魔女が何か反応するかもしれないという期待もどこかにあったのはあったのだが、やはり、外へは連れ出してみたい。ラルーが傍に来たら、魔女が魔女の意志でランドから滑り降りるかもしれない。もしかしたら、声を出すかもしれない。ランドはお化け屋敷に初めて入る子どものように胸をどきどきさせていた。しかし、そんな期待はことごとく裏切られ、動かない、見つからないという期待だけ叶えられた。マリアが窓にへばりつくランドにそっぽを向き、お辞儀をしたランドにラルーが微笑み返した。
「副長官室へいらしてください。お話しておかなければならないことがあるようですわ」
その何もかも見透かしたような涼しい顔にランドは神妙に「分かりました」と答えた。ランドはパルシラに促されるまで、少しの間じっとその場で考えていた。何を考えていたのかはあまり定かではない。
「やぁ」
その後すぐ、ランドとは違った意味で誰にも相手にされない研究生のガントがランドに声をかけた。おそらくちょうど職員たちが昼を終えて、最後に放り出されたのだろう。ガントなら、テラスに行くと言うランドに付いてきかねない。
「いい天気だね」
「えぇ、だから、この毛布を干そうと思っていたんですが、副長官に呼び出しを喰らってしまいました」
「干すくらいなら、やっておいてあげるよ」
「いえいえ、あ、でも、じゃあ、倉庫の奥の布団の類を運び出すのを手伝ってもらえませんか?」
「いいよ。宿直用の布団って埃っぽいもんね」
頑張り屋で、真っ直ぐで優しいガントをランドは好きだった。もし、彼がこのままで出世出来る研究所なのなら、ランドだって素直にその上を目指していたのだろうか。
「ちょっと待っていてくださいね。こっちはあの人に頼んできます」
ランドはそう言って、後ろを歩いていたパルシラに声をかけた。
「申し訳ありません。これ、よろしくお願いします」
そして、一呼吸置いて「このまま持って帰っても構いませんが…」と付け足し、そうっと魔女が隠れるように毛布を包みなおした。こんもりとした毛布を見て、ガントが首を傾げていたが、ランドはそれ程気にしなかった。申し訳ない話だが、おそらくガントの口から出る言葉に人を惹きつける力はない。ここで働く人間たちが、ガントの言葉に耳を傾けるほどの余裕があるとも思えない。普段は無口のくせに、喋り出すと脈絡なく延々と話し始めるのはガントの悪い癖で、それを皆が面倒くさがっていた。
パルシラはそのこんもりとした毛布を抱き上げて最初の予定通り中庭方面へと歩き始めてくれた。それを見届けたランドはガントの許へ行き、いやいやと頭に手を置いた。
「君に頼めるんなら、テラスへ干しに行きましょう。まだまだたくさんあるんですよねぇ…」
パルシラの行く中庭とは正反対にあるテラスへ、ランドはガントに提案した。テラスは研究所所属の者しか行けないので、特に不思議な提案でもなかった。
「そうだね。ずっと思ってるんだけど、どうして研究生は水色の白衣なんだろう。薬品を零してしまったり、掃除をしたりして、汚したりする率が高いからかなぁ?」
「関係ないでしょう。きっとただ単に区別したいだけだと思いますよ」
「屋上に布団を干すくらいなら、僕一人でも大丈夫だよ」
「いいですよ。私が思い付きで始めようとしただけで、それに副長官のところへすぐに行きたい訳じゃありませんし」
「そう? ありがとう。何かしたの?」
ガントは嬉しそうに感謝する必要もないランドに謝辞を述べ、ランドを心配した。
「いいえ、いつもの指導ってやつでしょう」
子どものようにへへへと笑ったガントは、ランドの目を見ずにそれに相槌を打った。
「君は突拍子もないことを平気でするから、目をつけられるんだ。でも、きっと君は出世する。僕はそう思う」
しかし、そういうガントもおそらく認められぬ日々を送っている。ランドなんかよりもずっとそれに苦しんでいて、それでいて、人の心配をしているような、人の心配をしておかなければならないような。春の霞のようなガントの微笑みを見ていると、何だか物悲しくなる。
「出世したいですか?」
「いや、僕は上に立って指導出来る人間じゃないし…だけど、将来もし家族が出来たら、出世くらいして少しは認められるかっこいい父親になりたいなぁ、ってぼんやり思うんだ」
「それ、いいですね」
「そうかなぁ」
ランドとガントは十五組の布団をテラスの手すりという手すりに干していった。そして、ふとランドの頭の中にガントの言葉が蘇った。
「思うんですけどね、君の動植物と魔獣の研究はとてもすごいと思いますよ。あれだけ細かい実験結果を全部残して整理出来ているのはガント博士だけだと思いますよ」
「博士になれることもない気がする…」
「博士になれないんなら、本にまとめてみればどうですか? 納得のいく成果になった時に。きっと十分にかっこいい父親ですよ」
ガントはまだ「そうかなぁ」と言って青空を見上げていたが、ランドはそろそろラルーの待っている副長官室に行かなければ、いくらなんでもいけない。
「ありがとうございました。私はそろそろ叱られに行ってきますね」
「うん。ありがとう」
やはりどうしてか、ガントはランドに感謝して、一人天気のいいテラスに残った。