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「扉を開けて欲しいんです」
パルシラはむすっとした表情で、素っ気なく「無理だ」と答えた。
「火急の用なんです」
向き直ったパルシラにランドは続けた。
「ラルーさんが戻ってこられていて、あの魔女に気分転換をさせるように言いつかりました」
「適当なことを言ってもらっては困る。あの魔女がお前にそんなことを頼むわけがないだろう?」
パルシラの言う『魔女』はラルーのことだ。そして、パルシラの声にはあからさまなランドへの軽蔑の色が見えた。ただ、それは研究所職員のそれとは違い、直球で「お前は馬鹿か?」という響きでもあった。
黙っているランドにパルシラは畳かけた。
「それに、あの魔女が戻って来た時点でお前の権限はなくなっている」
ランドは馬鹿みたいに笑って、特に痒い訳でもないのに後頭部を掻いてみた。
「お前の嘘くらいすぐに分かる」
「分かりますか」
パルシラのくぐってきた人生を思い、ランドは納得し頷いた。
「では、例えばあなたの仇の魔女が食事を食べずにただ衰弱して死んでいくのを待つのか、馬鹿な職員が馬鹿みたいな好奇心で魔女の部屋に一人で入り、魔女が襲ってきたのをその手で仕留めるのかを選ぶなら?」
少しだけパルシラの表情が動くのが分かった。ラルーがパルシラをこの衛兵に推した理由は、彼女が魔女を仇にしているから、職務に勤勉だからだった。彼女なら躊躇なく人間を襲う魔女を刺し殺すだろう。それは人間を守る役目として最大の武器だとラルーは言っていた。
「もちろん、私はそれを誘発させるつもりもありませんが、あなたにはその権限が与えられているでしょう?」
ランドは軽い口調で付け足した。
「心配要りません。すべての責任は私にあります」
この言葉はラルーがよく使うものだ。加えてここでのランドはパルシラよりも上位権力を与えられている。
「お前が取れるほどの責任では済まない。お前は何をしたいんだ?」
ランドは素直に答えた。
「ただ、魔女に興味があるのです」
元々ランドは魔女というものに興味があった。いや、今は、むしろあの魔女が魔女ではないことへの証明に重きを置いていた。パルシラがランドの瞳の奥をじっと覗きこむ。値踏みされている。ランドはそう感じたがその圧迫に動ずることなく耐えきった。
ランドにだって何が起きても仕方がないという覚悟くらいは持っている。
「十五分だ。鍵は閉めないでおいてやる。死んでも文句を言うな」
パルシラは黙ったままランドを引きつれ扉を開錠していった。重たい扉は仰々しくゆっくりと開いていき、ランドが中に入ると、パルシラはその外へと下がった。扉が仰々しく閉まる音がしたが、錠の下りる音は、彼女の言ったとおり聞こえなかった。鍵を下ろしてくれた方が気楽だった。
四方をコンクリートで固められた部屋は殺風景で、たった一か所だけ空気穴のような穴が天井近くの壁に開いていて、天気のいい日はそこから太陽の光が、雨の日は雨の飛沫がわずかに落ちてくる。魔女は毎日その一点を見つめて、簡素なベッドに座っている。いったい何を見つめているのだろう。ランドは不思議に思ってもう一度部屋の中を見回したが、全く分からなかった。魔女はランドでもなく、光でもなく、扉でもなく、何かを見つめて短い足をぶらぶらとさせて遊ばせていた。恐ろしかったはずの魔女が今は一番ランドを安心させる。
「こんにちは」
魔女は答えもせず動こうともしなかった。しかし、その魔女の新緑色の目にランドの顔が映るのが見えた。魔女はここにランドが来たことを知っていて、何かを考えている。もしかしたら、いつもとは違う状況に思いを巡らせているのかもしれないし、不安を感じているのかもしれない。
「すみません。驚かせてしまいましたよね、こんな時間に現れるなんて今までありませんでしたものね」
やはり魔女は答えずに微動だにしない。しかし、感覚的に何かが違うと感じた。
「そうだ、外に出ませんか。とてもいい天気なんです。室内にいるのはもったいないくらい」
外という言葉に反応したのか、いい天気に反応したのか、魔女の視線がランドに移った。ランドは気持ちが離れてしまう前に急いで続けた。
「大丈夫ですよ。内緒にして、こっそり戻ってくれば何も変わりません」
動かないと半分以上決め込んでいた行動だったが、魔女は意外なことにそのまま足を床に下ろし、ランドの手に繋がれた。パルシラが訝しさを越えて目を丸くしたのはもちろんのことで、ランドの行動を止めるのは当たり前のことだった。だから、ランドはそのままパルシラに視線を移した。
「でも、約束の十五分までまだ十分もありますよ」
ランドはにこりと笑ってパルシラを自然な形で見つめた。強靭な彼女を前に強行突破は出来ない。
「それとも話し合いが終わるまで、約束の時間を止めていてもいいでしょうか?」
腕時計をわざとらしくせかせかと睨みつけて、ランドはパルシラが答えるのを待っていた。しかし、これは本当に直さなければならない性格だと思うのだが、どうも沈黙に我慢出来なくなってしまい、先に話し出してしまう。
「それじゃあ、パルシラさんも一緒に行けばいいことですね。こういうことにしておいてください。ランドという横暴な職員が魔女を連れ出すと言って聞かなかった。衛兵の立場でそれを阻止する権限はないと思ったので、彼ともども監視することにした。で、どうですか? それにその方が、あなたの目的を果たしやすいのでは?」
ランドはそれ以上何も言わなかった。パルシラが、もし少しでも我欲に知恵を働かせるような人間なら、僅かな可能性をそこに見出してもおかしくはなかった。だが、彼女はきっとそんな人間ではない。
諦めかけたランドは小さな魔女の前に屈み、「寒くないですか?」と尋ねた。魔女は少し不思議そうにランドを見つめてほんの少しだけ首を傾げたように見えた。
「まだ少し風が冷たいんですが、今はちょうど草木が芽吹く季節で、生まれたての柔らかい葉っぱに日差しが優しく当たっていて、そっと命を温め始めているんです。温かさは可能性を守ってくれるものです。私はこの短い期間がとても好きなんです」
魔女の耳にランドの言葉が届いているのかどうか知らないが、小さな魔女がランドの言葉を聞いているように見えるのが少し嬉しい。
「十分だけだ」
暗い声がランドの耳に届いた。少し罪悪感が生まれたが、それを隠すようにランドは明るい声を出した。
「本当ですか? パルシラさん、あの、ここに毛布ありましたよね、あれ持ってきてもらえませんか? すみません。やっぱり姿を見られるとまずいので、その毛布を被せていきます。私が運びますから」
パルシラが渋々と毛布を持ってきてくれたが、とても埃っぽくて申し訳ないくらいの毛羽立ちようだった。ランドがそれを勢いよく広げると、煙のように埃が舞い上がった。お陰で少しは埃っぽくなくなっただろうその毛布ですっぽりと魔女の体を包んだ。魔女が小さいのでそれは魔女を隠すのには十分な大きさだった。
「後、この上に何枚か山にして載せてくれませんか」
ランドが魔女をそのまま横抱きで抱き上げると、ちょうど毛布の塊を抱えているような感じになり、毛布の塊を抱えているように思え、違和感は感じられなかった。いや、例えば他の職員がそんなことをしていると目立つが、ここで違和感の塊であるランドがすることにより、その違和感がちょうど調和されているような気がした。
居心地が悪かったのか、魔女がごそごそと動いた。その拍子に埃が立ち、ランドは咳き込んだ。
「大丈夫ですか? 苦しくないですか?」
魔女の反応は何もなかった。
「あれ、あなたもついてくるんですか?」
ランド自身がそう提案したものの、パルシラが付いてくるということで、魔女がここにいるという目印になる危険がある。
「魔女の心配よりも自分自身の心配を忘れるな。そして、魔女の傍にいることが私の仕事だ」
ランドは「ハハハ」と笑いながら、少しずり落ちてきていた魔女を抱きなおした。パルシラはランドと違って、真面目なのだ。それに多少なりともランドの心配をしてくれているのかもしれない。そして、ランドは気にしない、と決めた。
「あなたの名前はなんて言うんですか」
埃っぽい毛布に包まれながら全く反応のない魔女にランドは歩きながら尋ねたが、魔女はやはり答えない。咳一つしない。もし、彼女に温かみすら感じられなかったら、人形を抱えているとしか思えない。
「私はランドという言う名前で、あちらがパルシラさん」
「勝手に名前を教えるな。それに、呼ぶ必要のない者に、名前なんていらない」
パルシラが不機嫌に呟いた。呼ぶ必要のない者ではなく、我々が『魔女』であって欲しいだけなのではないだろうか。名前があれば、それは個として存在してしまう。パルシラの場合憎む相手が小さい女の子ではなく魔女でなければならず、魔女として連れて行かれる者が知り合いではなく魔女でなければならないのだ。
ランドはあの恐ろしい磔台を思い出した。ちょうど二年前。まだランドは学生だった。
リディアス城が解放され、その前庭に広がる公開処刑場。血の気のない青白い肌。血泥に塗れる顔。へばり付く髪の間から覗く虚ろな瞳。それが眼下のランドを恨めしそうに見ていた。そして、茶けた血跡と生々しい血糊が付く衣服の先に伸びた爪の剥げた爪先がぷらぷらと風に揺れていた。その魔女の犯した罪によってあばらの下に一点刺しの杭が突かれるか否かが決まる。ランドの見た者は一点刺しがあった。どちらが重い罪だったのかは覚えていないが、それに好奇の人々が群がり、その罪人を汚物のように見つめては去っていく。確かに強烈な臭いだった。しかし、彼らは自分たちと同一の姿形である『魔女』という異種を見て安心しているのだ。
…どうやっても自身に降りかからないように振る舞わなければ…
彼らはそう潜在的に誓う。しかし、彼らはわざわざ魔女の行く末を摺り込まれに来ていることに気付かない。
そして、おそらく不幸なことに、本当にラルーの姿が見えた。後ろにはマリアが控えている。おそらく最恐の二人だ。