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ランドが研究所を出たのはもう丑三つ時と言われる時間で雨が降り始めていた。雲の様子からすれば、明け方には止む雨だろう。城内は喧々囂々という状態をやっと逸脱した感じだったが、何となく大通りを歩かず、兵士の声のしない静かな場所を選んで歩いていた。細い裏路地に入ると傘が民家の壁に擦れ歩きにくかったが、その日はそれすら苦にならないくらいずっと兵士の喧噪が耳に障った。そして、だいぶ研究所から離れた場所で、ランドはやっと大きな息を吐き出した。やっと静かになった。そして、そこでラルーを見つけた。
ラルーは降り始めの雨に濡れて、やっと壁にもたれている状態だった。
「どうしたんですっ」
「あら、…あなたこそどうしましたの? こんな雨の中…」
「どうって。それはこっちの台詞ですよっ」
手を伸ばしかけたランドにラルーが「大丈夫ですわ」と突き返した。ラルーの状態は誰が見ても重傷だ。いや重傷を越えて、奇跡的に生きていたレベルではないか。
「ただ、少し貧血が酷いだけ……で」
「貧血? そんなレベルじゃ…ワカバさんはどうしたんです? 一緒じゃないんですか?」
ランドがラルーの腕を掴んだ時にその異常さがその手に伝わってきた。ぬるりとした物が手に塗れた。このまま引っ張って立ち上がれる状態ではない。
「どうしたんです?」
ラルーは苦しそうに微笑んで、「あの子は…」と囁いた。
「すぐに医者に」
「心配なさらないで。このまま雨で毒さえ流れ出てしまえば何とでもなりますもの。人間が、魔女を…少し休ませて……」
涼しい声色とは裏腹にラルーは崩れるようにして、壁を伝い倒れた。壁にはその伝い跡が赤くくっきりと残り、雨が線を描き流れていく。
「そんな、肩くらい貸しますから、捕まってください。何とでもなる訳ないじゃないですか。こんなに血が出て…私だってこれでも一応…」
そこまで言ってランドは言葉を呑み込んだ。ランドの医師免許の軽さと言ったら何の説得材料にもならないと思えたのだ。魔女の血は赤い。そして、人間と同じ温もりがある。それだけで充分、何も人間と変わらないのではないのだろうか。ラルーが目を瞑ったまま呟いた。その唇には僅かな微笑みが湛えられていた。
「…ありがとう」
ラルーはもう喋ることがなかった。ただ、何もしないよりは、助けたい。あの老婆もそんな気持ちだったのだろうか。だとすれば、ランドにも魔女罪が問われるのだろうか。しかし、真夜中の雨は人を家に閉じ込めていて、兵たちも遠方へと捜索場所を変えていた。それはこの状況にとても好都合だった。
ランドは重傷のラルーを背負うと傘を肩に預け歩き出した。
自宅に帰り、ほっと息をついた頃には空が白み始めていた。あぁ、朝か。そんな感想を浮かべながら、ランドは食卓にしている小さな机で肘を突いて窓の外を眺めた。
小鳥の鳴く声がする。ワカバは今どうしているのだろう。どこかで、小鳥と話をしているのだろうか。それとも……。
あの傷を負ったラルーがすぐにでも起きてきてそんな質問に答えてくれるとも思えない。
ラルーの心臓部には大きな傷があった。出血量も極めて多い。人間なら即死だろう。それなのに、ラルーの心臓はそれ自身に意志があるかのように鼓動し続けていた。
ランドの縫合が上手くいっていれば起き上がってくるかもしれない。しかし、その保証はない。そこまで考えて、大きく息を吐き出すと疲れがどっと押し寄せてきた。少し眠るのも悪くないだろう。眠れば何か良い考えも浮かぶかもしれない。今のランドの頭ではただ堂々巡りになった疑問に答えを探すことすら出来ない。
ワカバのことについても、ラルーのことについても。研究所についても。これからのことは山積みだった。ベッドではラルーが眠っている。ランドはそのまま当たり前のように腕の中に顔を突っ込み、机の上で眠りに就いた。静かで深い眠りだった。
コトリと音がした。普段ならその深い眠りの中気づくことのないような小さな音だった。やはり神経は過敏になっているのだろう。ランドは周りを慎重に見回し、息を呑んだ。
ラルーは立てるはずもないのに立っていた。目を見張ると、ラルーはにこりと笑い、縫合したはずの糸をひらひらとさせていた。
「これに気をよくしてあなたの技術で人間を切ろうとなんてしないことを忠告させて頂きますわ」
「それが助けた人間に対する物言いですか」
「あら、わたくしはあなたに助けられたのではなく、わたくしだから助かったのですわ」
反論空しく崩れ去る。そんな感じだった。ラルーの言い分の方が正しい。ランドの持っている医師免許は知識だけの物だ。だいたい、ランドは医師の知識しかないのだ。下手をしなくても研修医以下。
「毒をもらったのは不慮の事故ですが、あの子の心配なら要りませんわ。あるべき場所へと行くだけですから」
ラルーは見透かすように笑い、少し血が足りないので何か食べるものを、と要求した。血は足りていないはずだ。ラルーはベッドに座り、ランドが食べ物を持ってくるのを待っていた。体を支えるようにして片手をベッドに突っ張っているところを見ると貧血、だというのは嘘ではないのだろう。それに、ワカバは大丈夫だと言う。ラルーが言うのだから、それも信じられる。
ハムにパンにチーズ。皿に乗せたものはワカバに出していたものと同じだった。要するにランドの主食。
「こんなものしかありませんが…」
滋養にもなりそうもないことで後ろめたいランドにラルーが力なく微笑んだ。
「…恐ろしい物でしょ」
遠くを見つめたその姿はとても切なかった。ラルーはため息の様に言葉を発した。
「まさか銀の剣が人類にとっての頼みの綱に成り得る時がくるとは思いもしませんでしたわ」
「銀の剣ですか?」
ランドにはどうしてラルーが銀の剣の話を持ち出すのかが分からなかった。
「えぇ。ご存じでしょう?」
「でも、銀の剣でなくても魔女は死んでしまうのではないのでしょうか? ワカバさんが死ねばこの世が消えるのでしょう? 保護を考えるべきではありませんか?」
ラルーが微笑み、少し声に生気が現れた。
「あら、よく御存じですのね。その通りですわ。銀の剣が護っている者はあなたたちではありませんもの。そうなれば保護を、とも考えられるのでしょうが、どこにいてもあの子がこの世を滅ぼそうと考えるようになればお終いじゃありませんこと?」
でも矛盾している。
「でも、トーラは人間の望みしか叶えられないと。有効なのは彼女の周りから望む人間を排除するということではありませんか」
自分で言っていて心痛が起きた。望む人間を排除するということは、ワカバをあの小さな部屋へと押し込めておくことに変わりない。ある意味、ワカバのあの状況は間違っていないということになる。そして、ラルーはランドの顔を覗き込んで、ふふと笑った。
「奇跡の復活を成し遂げたばかりの者によくそんな反論できますわね。あなたからは労わりの気持ちが全く感じられませんわ」
「あっ、いや、大丈夫なんですか?」
慌ててそう尋ねはしたが、もちろん大丈夫なのだろう。ラルーは静かな微笑みを唇に乗せて言葉を続けた。ランドの取り繕った質問なんて全く無視した態度だ。
「今までの魔女と同じなら、あるいはトーラ自身ならばそうなのでしょう。だけど、あの子は望まずしてトーラを持つ子。意志を持つトーラ。そうですわね…」
そして、その後に続いた言葉にランドは一瞬息を呑んだ。いわば、滅びの魔女。世界を滅ぼす恐ろしい者。
「枷の取れた猛獣とも言えそうですわね。しかもその血は毒を孕む。切り裂けばその毒に殺られ、放っておけばその牙に殺られる。そうですわ。あなたの望みならあの子は喜んで叶えてくれるでしょうね。願い主があなたなら看視者としても歓迎いたしますわ」
そう言った時のラルーは楽しそうだった。ランドは全く楽しくない。その枷を外した猛獣使いがラルーなのだ。
「そんなことしません。私は、ワカバさんに魔女になって欲しくないんですから。それに、以前はあの子にそんな力ないとおっしゃっていたじゃないですか」
「えぇ。言いましたわ。あの子は確かにトーラを持っています。いえ、手にしていますわ。でも、今のあの子自身にそんな力はありませんのよ。それにしても本当におかしな方ですわね。今、ご自分であの子の保護をと訴えたばかりではありませんか。そんな力がないのなら、保護しなくてもいいのではなくて?」
ランドは自分の支離滅裂な疑問を呑み込んだ。結局ワカバをあの状態に戻すということが最善になってしまう。何を言っても同じだった。ラルーが微笑んだ。
「トーラに掛けられた願いも、銀の剣に託された望みも、あなたが言った傍からご自身の言葉を否定されるのと変わらないのでしょうね」
言った傍から全てを否定しなければならない条件を出してきたのは、目の前のラルー自身だ。いったい、ラルーは、と言うよりもワカバは何者なのだろう。
「私は何もおかしなことは言ってません。ワカバさんが危険なことは分かりました。保護しようとも捕らえようとも変わらないことも分かりました。でも、もし彼女がここに連れ戻されたら、あなたがここに必要なのではないですか?」
例えば、猛獣なのならば、猛獣使いがいれば危険度は下がる。それなのに、ラルーはランドを否定した。
「あなたがいれば大丈夫でしょう?」
ラルーの顔は、そう、白磁の女神のように動かない微笑みを浮かべている。
「魔女は信用に値しない生き物。世界を滅ぼそうとしたのは、誰でもなくわたくし自身です。そして、わたくしはあの子に阻止された。覚えておいでなさい。あの子にはもう一つ、人間にとっての枷がある。それは、この世界はあの子が生きるためにあるということです。あの子のいないこの世界は存在しません。銀の剣をもってすれば、ある一定で滅びは止まるでしょうが、今は確実に滅びます。だから、もし崩壊させたくないのなら、あの子が消えてしまうまでの澱みの間に、あの子を探し出し、この世界を望ませなければならないでしょうね」




