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二日後、一方的に魔女が悪いとされたガントの筆跡ではない始末書がランドの許に回ってきた。
魔女が部屋を破り、それを国の衛兵が捕まえたということがつらつらと、悪びれもせずに書かれているものだ。衛兵の失態も、ガントの脱獄幇助も何も触れられていない。そして、その始末書に書かれていた魔女を捕まえた衛兵が、おそらく偽名のあの衛兵だったことにも驚いたが、捕まえた場所がリディアス城の城壁沿いだったことにはさらに驚いた。あれだけの衛兵が町へ繰り出し、見つけられずにいる中、ワカバはあの青年に捕まえられるべくそこにいた、とは考えられるのだろうか。そんな事を考えながら、ランドがその始末書を持っていくと、ラルーが躊躇わずそれに最後の判を押してしまった。
「そんなに簡単でいいんですか?」
「悪いのは、魔女、それでいいんじゃありませんこと? だから、あなたもここに判を押してもらわないと、滞りなく進みませんわ」
ラルーはいつものようににっこりとした。
「あなたのお友達はあの金魚のために塩を取りに行っていたそうです」
そういえば、金魚の病気には大概が塩水と表示されている。
「しかし、ガントはここを去るつもりです」
「構いませんわ。彼が辞めるのは彼自身の意志ですもの。それも受理してあげてください。あと、あの子に会いに行ってあげてください。これは長官命令です」
だから、仕方なくランドはワカバに会いに行くことにした。といっても、決意するまでにまた一週間程かかってしまった。言い訳をするならば、忙しかったのだ。その一週間でグラディール補佐兼仮の国王だったアイルゴットが正式に即位し、それに伴い傭兵解雇が周知された。研究所付きの兵達の解任を認める判を押さなければならなくなり、ガントの辞表すらその同じ判を同じ流れで押していた。ラルーは命令だと言いつつ、急かしはしなかった。ただ、魔女に会いに行くという止めを刺したのがミシェルだったのには、内心驚いた。なんとミシェルがお守りになるという石をもって、以前の約束を果たしたのだ。
だから、仕方なくランドは腹を括ったのだが、少し心細さもあった。だから、少し好奇心を擽られていそうなミシェル誘をってみたが、講義に託けて丁寧に断られてしまった。本当に不思議な青年だ。いや、不思議というよりもおかしな青年だった。ランドに最後通牒を突き付けたくせに、行きたいくせに行かない。
ここにいた二人の衛兵は配置換えされ、新しい三人の衛兵がランドを迎えた。魔女専属になっているというわけではなく、選抜される見ず知らずの衛兵が一日交替で入れ替わるようになっていた。仲良く酒を飲むことはもう出来ない。が、名前も顔も覚えるのに時間がかかりそうだった。そして、危機管理はより強化され、外へつながる扉には全て毎日変わる暗証番号付の錠に取り付け変えられた。
ワカバは静かだった。いつもと変わらない。足が伸びて、ベッドから垂れる爪先がその床に付くようになっていた。
あの晩は特別だったのだ。彼女は彼女が大切にしている物を壊されるということに耐えられない。しかし、あの魔女の村を消し去った時よりも随分力の制御が出来るようになってきている。それが何を意味するのかはまだよく分からない。ただ、喜ばしいことだと諸手を挙げることが、ランドには出来ない。
「こんにちは」
ランドの声に、小窓を見上げて立っていたワカバが、はっとランドを見て、悪戯を隠したいように目を伏せた。
「何してたんです?」
ワカバは押し黙ってうつむいた。唇を噛んで話すまいとしている。それは、ランドにとても堪えた。ランドがワカバと同じようにして小窓を見上げると、小鳥が窓を覗いていた。
「小鳥と話していたんですか?」
「お話をすると人間が怖がるから…」
慌てて頭を振ったワカバがランドと同じように小窓を見つめながら寂しそうに呟いて、そっと立ち上がった。そして、ベッドの脇にあった木の椅子を引き摺りながらランドの前へ置くと、自分はベッドに座った。
「ありがとうございます」
ランドはにっこり笑い、そこへ素直に座った。ワカバの座る場所はいつもベッドで、ラルーの座る場所が椅子だということは知っていた。そこでラルーはワカバに本を聞かせたり、一緒にご飯を食べたりしているらしい。そして、おもむろに話し出した。
「ランドと話をしてもランドは殺されない?」
ワカバはとても不安そうだった。そこには自分が金魚と話をしたから、金魚が殺されたのだと思っているワカバがいる。
「もちろんです。案外私は強いんですから」
ちゃんと笑えているだろうか。誤魔化せているだろうか。それ以上言葉が思い浮かばなくなった。グサッと刺さった物を取り除こうと、手を突っ込んだ白衣のポケットの中に何か触れた。そうだ。これを渡しに来たのだった、と思い出した。
「お守りなんですって」
あまりにも唐突にランドが言ったせいで、ワカバは何のことか全く理解出来なかったようだ。ワカバはゆっくりと首を傾げランドの顔に穴が開くほど見つめていた。
「私の秘書にミシェル君という人間がいましてね、それで、ワカバさんにお守りを買ってきてくれたんです。どんな敵からもワカバさんを守ってくれる青い石らしいですよ」
絹の織物で出来ている巾着の紐を解きながら、ランドはその青い石をワカバに見せた。ちょうどビー玉くらいの大きさの青く深い半透明の石が、ワカバの掌に転がった。「なんて罰当たりなことをするんですか」と言いそうな人間はここにはいない。ワカバはそれを人差し指と親指で摘み、太陽に透かしてみたり、ランドを透かしてみたりしていた。不思議なものだったのかもしれない。そして、ワカバは嬉しそうにしていた顔を曇らせ、視線を斜め下方向へと移した。
「どうしたんです?」
「ランドは怒ってる? だから来なくなったの?」
「まさか、怒ってないですよ。謝らなければならないのは私の方です。だから、あの時はすみませんでした」
頭を下げると、あの衛兵にはしてやられたようだが、肩の荷がすっと下りた。ワカバは首を傾げたまま呟いた。
「あのね、ラルーが、ランドに伝えなさいって」
「何をです?」
「コンヤっていう言葉を」
「今夜…」
ランドが慎重に言葉を置くと、ワカバは大きな息をして静かな声を出した。
「よく分からないの」
ワカバの顔はその言葉の意味を飲み込めずに不消化を起こしているように見えた。そして、ワカバはすぐに言葉を続けた。
「あのね、わたし、あの金魚ちゃんのお墓を作ってくれたおばあちゃんに薬を渡したいの。マゴが病気なんだって。わたし、ここから出ても、追いかけられない?」
ワカバの中にある気持ちは大切にしたいが、嘘は言えない。孫を助けたいという気持ちがあるのなら、おそらく、この間の脱走劇に使われた魔法の威力から考えても、大きな惨劇につながることはないのかもしれない。しかし、それは、リディアスの兵がワカバを追いかけて来ないという理由にはならない。ワカバを殺しにかかってくる相手に、その制御が通じるのかどうかも分からない。
いや、一番の理由はもっと別だ。あの老婆はワカバを匿った罪で磔にされている。国王の判断を覆すことは、魔女を逃がすよりも難しい。病状を考えれば、息を引き取るまでにそんなに時間はかからない。しかし、今日明日のはなしではない。久し振りに使われた磔台の前には野次馬がたくさんいる。それをワカバに見せたくない。
「それは無理ですね」
ランドの言葉がワカバを深海の底へと沈めてしまったように思えた。
「ワカバさんはどうして戻ってきたんですか?」
ランドを見つめた新緑色の淡い緑の瞳が丸くなっていた。
「ここがわたしのいる場所だから」
さも当たり前のようにワカバは答えたが、それが抜けることのない剣になってランドの胸へと刺さってしまうことなんて、ワカバは知りもしない。
「この石、あの人間の目と一緒の色」
ワカバが掌に転がした青い石が太陽の光を吸い込んで、青い光を落としていた。
「あの人間?」
「犬と一緒にいたの。襲いかかってきそうな犬を止めてくれたの。ラルーみたいに」
ランドの顔を覗き込むようにワカバが呟いた。その表情はとても真剣だった。止めたのではなく、もしかしたらその犬がワカバに向かって放たれていたのかもしれない。あの傭兵の顔を浮かべながら、その時にどんな顔をしていたのだろうと思った。いや、ワカバが言うように、あの魔女に頭を下げることが簡単だと言った傭兵なら、犬を止めたのかもしれない。
「ランドは、どうしてあの時黒いメガネをしていたの?」
「えっ?」
驚いて見たワカバの顔が首を傾げてランドを見ている。
「あ、あれは…」
ワカバの顔が少し緩む。いや、ランドが照れ隠しに笑っているのを真似ているのだろう。あの時ワカバはちゃんとランドを見ていたのだ。しかし、ランドは研究所内で素顔を曝け出していられるほど強くなかった。自分が一体どんな表情をしているのか、それすらも分からなかった。そして、自分でも分からないものを他人に見られるのが怖くなったのだ。
「内緒です」
「……内緒って何?コンヤは内緒だって」
ワカバが思い出したように付け足した。
「そうですね。そう、内緒っていうのは、誰にも言ってはいけないということです。だから、これも内緒の話ですね」
ランドは無理やりに微笑みを作り、ワカバを見つめた。
「じゃあ、どうしてランドに内緒を伝えるの?」
どこか寂しい気がした。遠く回り道をするワカバとの会話をもっと続けたかった。
「それは、三人の内緒だからですよ」
ワカバはきょとんとランドを見つめていた。しかし、ランドにはそれがとても遠いものに思えた。ワカバがあの力を完全に制御出来ないのならば、まだそれは叶わない。だが、ラルーは今日、ワカバを逃がすらしい。
だから、過去一度も鳴ったことのない警鐘がゴルザム中に鳴り響いた。深夜になっても魔女は見つからず、衛兵達の苛立ちは最高潮に達していた。
民家は壊され、何の疑いなのかよく分からない疑いを掛けられた民衆たちが城下に集められ、松明に照らされている。ランドもしばらくは面通しの役を仰せつかっていたが、結局役立たずということで解任されてしまった。
松明を持った衛兵たちが行き来して、壁の中だというのに、松明の光で染められていく町が窺い知れるくらいだった。ランドはその中で、自分の研究室に籠り、『長官』と呼べるだけの人材が研究所にも軍にもいないだろう、と思い浮かべていた。
ランネルにしろラルーにしろ、千年に一度出るか出ないかの逸材であることには間違いない。あの二人の後を継ぐ人間なんているだろうか。ガントはいい潮時にここを出たものだと羨ましく思えたくらいだった。




