16
ミシェル青年はめきめきと仕事を覚え、ランドの仕事を補いながら、講義の方もうまく出来るようになって、毎日忙しそうにしていた。ランドの方はと言えば、ラルーがしていた研究とは全く無関係の仕事を引き継いで、毎日判子を押していた。この判子押しに関してもラルーと同じく、ランドの評判はあまり良くなかった。
「すみません。こっちが差し戻しで、こっちが長官室へ回す、ということで、お願いします」
「分かりました。相変わらず差し戻しが多いですね」
ミシェル青年はメモを取りながら、差し戻し分の部数を数えていた。
「全部で三一部を差し戻しして、それから、こっちの一部だけを長官へ渡したらいいですね」
「えぇ、よろしくお願いします。この研究費は以前から何度も申し入れられていて、大分詰められてきている物だから、ということも添えておいてください。後、その他の分も先に各部屋に返した後に回収して持って行くようにしてくださいね」
「分かりました。後、この間の会議結果を報告書にまとめたものはあれで各研究室へ回しておいていいでしょうか?」
「えぇ。よろしくお願いします」
ランドはランドの表情を見るのも忙しそうなミシェル青年を感心しながら見ていた。この後彼は学生の講義を二時間持っていて、その前に長官秘書のマリアと引き継ぎをし、この廃棄決定だろう書類を落書き帳として製本し、魔女の元へ持って行く。ランドも手伝いを申し入れようかとも思ったが、どうも一歩踏み出せない。ランドは代理とはいえ、各研究室へ赴き、現時点での進行状態やこれからの課題を把握しなければならないのだ。それがほぼ毎日、それだけで太陽が沈んでしまう。そんな毎日が繰り返されていた。しかし、変化はあるものだ。ある日ミシェル青年は覇気のある顔をしてランドに話しかけた。
「ランド副長官。あの、以前助言頂いたあの講義なんですが、なんかうまく聞いてくれていて、ありがとうございました」
メモを終えたミシェル青年が、やっとほっとしてランドの顔を見ていた。
「それは何よりです。それから、」
「はい。これを三二部刷って、各部門へ持って行けばいいですか?」
「よろしくお願いします」
ランドはおかしくなって笑ってしまった。こんなに仕事を覚えるのに、どうして副長官という間違いは訂正されないのだろう。それをミシェル青年は何か失敗でも犯したかとメモを探り、「すみません、何か…」と口をもごもごさせた。
「いいえ。研究生にしておくのがもったいないな、と思いましてね」
「副長官。あの、人事の事なんですけど、どうもランネル長官がラルー長官を推していたらしく、後のことはラルー長官とマリア秘書官でお決めになられたと聞いております」
おそらくマリアに訊いたのだろう。この類の質問をミシェルにしてはいけないという危険をランドは察知した。それはこの危ういほどに真っ直ぐな青年の進路を捻じ曲げてしまうかもしれないものだ。出来れば、もう少し自分で何かを考えられるようになるくらいまでは、公平な立場でいた方がいい。
「そうですか、ありがとう」
「いえ、でも、どうして僕が優秀なマリア秘書の後釜なんでしょう? 恐れ多くて」
「それは君が優秀だからですよ」
「いいえ。全くそんなことありません。わっ、あの、すみません。そろそろ」
髪の毛の先まで嬉しい緊張を走らせたミシェル青年は、背筋を伸ばして慌てていた。
「そうですね、そろそろ私も研究室周りへ行かなければ会議に間に合いませんね」
そう言って、ランドはミシェル青年と別れた。
研究室回りをしていてもランドに対する風当たりは結構強いものだった。まともに話をしてくれるのは、ガントの研究室くらいで、「そろそろあの計画書通してくれてもいいんじゃないかな」という声に対して「もう少しこの辺りの内容を突き詰めてくれれば長官にも押しやすくなりますよ」と答えることも出来た。
「まともに研究を追求出来るのはここの部屋だけですよ」
「君が愚痴を言うのはめずらしいね」
「そうでもないですよ」
「そうかなぁ」
ガントの笑顔はほのぼのとしていた。
「その眼鏡板についてきたね。そうだ、長官秘書には会ったかい?」
「いいえ。会ってませんよ」
ランドの脳裏にカリカリしているマリアの顔がありありと浮かんだ。
「きっともうすぐ会うと思うよ。ほら、会議があるだろう? 重役会議みたいな」
そう言うと、ガントは仕事に戻った。ランドは声をかけて研究室を出て行った。




