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ラルーに長い髪を梳かされながらワカバはラルーの手鏡を眺めていた。ワカバはこの時間が大好きだった。鏡に映るラルーは優しく微笑み、ワカバにそっと話しかける。ワカバは少しずつ安らいでくる自分の気持ちを受け入れることが出来るようになってくる。
「ラルー?」
「どうしましたの?」
「金魚ちゃんね、大きくなった?」
「そうね、ちゃんとご飯をあげて、お水を足してあげてますものね」
ワカバは鏡の向こうのラルーが微笑むのを見た。ワカバは少し大きくなった。足も伸びて、腕も伸びて、嵩が高くなった。ワカバ自身はそれをあまり嬉しいとは思っていない。多分、ラルーも同じなのだろう。それでもランドのくれた金魚が少し大きくなったと思えた時、どうしてか嬉しいと思った。金魚はワカバがご飯をあげると水面まで泳いできて、大きく口を開ける。たくさんご飯を食べる。ワカバはそれをかわいいと感じる。
「水槽を大きくするともっと大きくなるでしょうね」
「そうなの?」
「えぇ。生きる場所が大きくなりますもの」
綺麗に編み込んでもらった髪をワカバは指でそっと撫でて、ラルーを見上げた。
「ラルー? わたしもこんなの出来るようになる?」
ワカバの前にしゃがんだラルーがワカバを見上げて嬉しそうに言った。
「じゃあ、練習しましょうね」
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何の実験なのかは大体想像がついたが、人間としては出来れば辞退したいものだった。いつ作ったのか分からないガラス張りの一室が、魔女の実験室だった。ランドがついた時には既にガントもラルーもそこにいた。事務机に座ったガントは手元の資料をペンで指しながら、傍にいる研究員に落ち着きなく指示を出していて、ラルーは一人でガラスの向こうを静観していた。魔女がおそらくランネル崇拝者だろう研究員二人に連れられてガラスの向こうを歩いてきた。白色のロングワンピースの裾からは白い踝が出ていて、その両方を黒い枷が繋いでいた。彼らは静かに魔女の手首に手枷を付けて、それを壁に固定されている鎖へと繋げた。
やはり小柄な女の子だった。ワカバは幼い女の子というよりも少女という雰囲気になっていて、背が伸びていた。そして、その胸には綺麗に編まれた茶色の髪が二つ真っ直ぐに腰まで伸びていた。彼女の目はまるで全てをその瞳に収めなければならないかのように落ち着かなく周りを見回していた。再び研究員がやってきて、彼女の手首と頭部に計器の入ったバンドが巻かれた。その袖の下からはまだ取れない包帯が見えていた。
ランドは時間を持て余し始めたガントの傍に立ち、実験内容を確認した。ガントは丁寧に教えてくれ、三年前に特殊強化ガラスで作った実験室の説明までしてくれた。
「五年のうちに色々変わったんですね」
「そうだよ」
ガントの声が強張ってきていた。ワカバは自分の三つ編みを手綱でも持つように、手に取り、採血用の注射器と先程の薬用の注射を持った研究員が入ってきた扉に目を向けた。彼は三つ編みを持っていた手を物でも伸ばすようにして伸ばすと、手早く採血の準備に取り掛かった。以前に比べれば入りやすくなっているだろう細い腕に研究員が注射針を刺した。魔女はその針の先から目を逸らす。ランドがいた時とは全く違う反応だった。ランドはラルーを見遣った。ラルーは変わらず実験室の隅で全く動かず、ワカバを見つめている。
「副長官はこの実験に反対ですね」
「そうだよ。だけどこの実験の日時を決めたのは副長官だった」
ガントはランドを見ずに囁いた。そして、静かに呟いた。それは最後の希望をみるかのようだ。副長官でさえこの流れを止められない。誰か、助けて、というような。
「先日亡くなった、アーシュレイ王も反対してた」
そうでしたよね、ランドは亡きアーシュレイ王を偲び、ガラスの向こうを見つめた。
全てが整うとランネルが厳かに入ってきた。実験室に集まった各人がそれを確認したことを見計らい、ガントが端を切った。その様子は先の会議の様子と全く違い、全ての者がガントの声を聞き漏らさなかった。
「今回は今までとは違い人肉を好む魔獣を嗾けます。性格は凶暴というよりも残虐に近いものがあり、過去にゴルザムの衛兵五人を食い散らかし、三人に重症を負わせたものに類似します。もし、失敗となれば、その、どうなるか分かりません。あの三匹を大人しくさせる方法は、あの、殺してしまうくらいしかありません。それも、この部屋いっぱいにあれに効果がある毒ガスを充満させさせるというもので。それでも予定通りでよろしいでしょうか?」
ランドの立っている左手にはワカバの心拍と脳波計のモニターがあって、正常に動いていた。ワカバは時々右を向いたり、左を向いたりして最後に自分の手を見つめた。
誰も何も言わないのは気持ちが悪いので、ランドが手をあげた。
「もし、失敗ということが、魔女があれを消すことが出来なかったということを指すのならば、魔女は死ぬということですか?」
「えぇ。どうすることも出来ません」
ガントはそれをどうにかしたいのだろう。しかし、どうすることも出来ない。権限というものは、時に大変必要とされる。
「では、これは何の実験になるのでしょう?」
誰も答えなかった中、ランネルが口を開いた。
「もしあの魔女がトーラではないのならここで死ぬということだけだ。それ以外に何を求めるというのだ?」
それはとても高圧的で、全ての人を串刺しにして動けなくさせる力があった。魔女の疑いがかけられた者は、囚われた時点で死んでも構わない存在になる。ワカバが生きているのは、『トーラ』を持つかもしれない特別な魔女だからだ。それはリディアスにとって有益な『物』かもしれないからだ。リディアスにとってワカバは臨床試験で用意されるマウスとなんら変わらない存在だ。ここではランネルの意見の方が正しい。ラルーはどうしてこんな場所にワカバを置いておくのだろう。ランドの視線の先には腕を抱えたまま針に糸を刺すように一点を見つめるラルーの姿があった。その視線の先にはワカバがいる。
ランネルの言葉で、ガラスの向こうに木箱が入れられた。ランドは言葉を呑んでガラスの向こうを見た。ワカバが助けを求めるように壁に身を添わせたのが見えた。そして、こちら側を確かめるように見渡していた。ラルーが僅かに頷いたように見えた。研究員が外に出ると、タイマー式の箱の鍵が開いた。ワカバと箱の距離は二メートルくらいだろうか。箱の中から黒い影がワカバを目指して飛び出した。明らかにワカバを餌として認識したらしい。それなのに、それらはワカバの傍でぐったりと、まるで、着ぐるみの中身が急にいなくなったかのようにぐったりと、地にへばりついた。ワカバは全く動かず、壁を背に、手で口元を押さえて、その横たわる生き物を震えながら見つめていた。そして、それにゆっくりと手を伸ばす。その両目から涙が流れ、発作的にその屍に抱きつき、気を失った。
「長官」
誰かが叫んだ。
「すぐに準備」
静かだった場所が医療器具を載せた台車の車輪の音で騒々しくなった。ランネルと共にガントも慌しく中へ入っていき、魔獣の状態を確かめていた。ランドはその中に参加しているようで、全く参加などしていなかった。
ランネルの指示で、動かなくなった魔女は台車に乗せられ、まるで急患で運ばれていくように急いで目の前からいなくなってしまった。力なく垂れ下がっている細く白い手が台車からこぼれてしまいそうに振れている。ランドはしばらくそのまま彼らの去った後の実験室を見まわしながら、何か思い出せそうで思い出せないという気持ち悪さを感じた。
「御無沙汰しています」
ラルーの声は疲れ果てていた。
「あの子、あなたに頂いた金魚をとても大切にしていますわ。毎日大きくなった?って訊いて嬉しそうにして」
金魚のことなんて思い出すこともなかったのに、まるで昨日のことのようにあの金魚をあげたことを思い出した。そして、その世間話の答えを返すことで、ランドは大切なことを聞きそびれた。
「そうですか。あっ、そうですね、ワカバさんも大きくなりましたね。あんなに小さかったのに」
「えぇ」
ランドは喜ばしいこととして伝えたつもりだったのだが、どうしてか、その時のラルーが今まで見てきた中で一番苦しく辛そうな表情を見せた。
「主任としての務めは慣れてこられましたか?」
「いえ、あんまりです。主任というだけでもこんなに気疲れするのに、副長官ともなるとさぞご苦労も多いことでしょう」
ラルーは笑っていた。ランドも空笑いをしてラルーを見送るつもりだった。しかし、その背中に向けて叫んでいた。
「あの魔獣はワカバさんが殺したんですか?」
ラルーは振り返り、微笑んだ。あんなことが起こらなければ、ランドは別の質問を真っ先に投げかけていた。
「あの子にそんな力ありませんわ」
「はい?」
どうしてかラルーがくすりと笑ってから続けた。
「あら、見世物みたいにたくさんの血が噴き出す方がよかったのかしら」
そして、ラルーが笑う理由の心当たりを思い出した。ラルーの肩書は副長官である前に魔女だ。ラルーがランドの顔を見ながら満足そうに微笑んだ。
「えっ?まさか。どんな仕掛けが? …いえ、あれで火がついてしまっては、ワカバさんが可哀そうです」
何が言いたいのか全く軸のない言葉だったが、ランドの脳裏に浮かぶ全ての言葉だった。
「あなたがここにいれば大丈夫でしょう」
真っ直ぐ見つめたラルーが微笑んだ。そして、ラルーはワカバを追いかけるようにして、歩き始めた。




