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会議が終わり真っ先に部屋を後にしたランドは久し振りに研究所の中庭へと足を向けた。その途中でガントがランドを追い駆けて来た。
「僕も一緒に行くよ」
「えぇ、構いませんが…」
「その眼鏡、びっくりしたよ」
「君が一番分かりやすく驚いてました」
中庭にくつろぎを求めるのはおそらくランドとガントくらいだろう。懐かしいはずなのに、二人はどちらも口を開かずに廊下を進んでいた。
手摺りを乗り越えた中庭には夏の木漏れ日がきらきらと輝いていた。木陰にはベンチがあり、読書用だろうテーブルもある。誰も使用しないために風化していて、ささくれ立ってしまっている。ランドはそのベンチとテーブルに並ぶようにして芝生に座り込み、外との境界になる背の高いコンクリートの壁にもたれかかった。厚さ何メートルか向こうの通りを越えると人々が暮らす町がある。ガントもその横に座った。
「あの初老の方、見覚えがあるんですが、あれって誰でした?」
ランドは気になっていた顔をガントに尋ねた。ガントは首を捻りながら、「あぁ」と言って微笑んだ。
「あの最後の質問者ね。あの人は前所長だったパタ博士だよ。忘れたら可哀想だよ」
「あぁ。忘れてました」
ランドはへらへら笑い、頭を掻いた。あの博士はいい。ランドはラルーのことを嫌ってはいないが、パタはどんな圧力にも屈せず、ラルーをここに入れることを拒んだ一人だ。そして、魔女排斥の一人者。ただ、ランネルとは違いこのむごいだけの実験にはワカバがここに来る以前から反対の立場を取っている。さっき語彙を荒げたのは本当にランドの格好に呆れていたに尽きるのかもしれない。少しだけマリアの言い分が当たってしまった。
「忘れてはいけない人ですね」
「そうだよ」
そう相槌しながらガントは胸ポケットから煙草のケースを取り出した。
「あれ、そんなの吸いましたっけ?」
「あぁ、これは」
ガントはどこか恥ずかしそうにして、ポケットにそれをしまおうとした。
「吸って下さいよ。別に咎めたりしませんから」
「うん…君もいる?」
しまいかけた煙草ケースから一本取り出して、ガントはランドを見つめた。
「いいえ、学生を終えた時点から禁煙中なんです」
「どうして? 変わってるね」
「遺伝的にそんなに強くないでしょうし」
ランドは少し茶化しながら笑ってみた。それを見てガントも鼻を触りながらへへへと消極的に笑った。
「そうかなぁ」
ガントの懐かしい返答だった。
「えぇ。だって、実際に私はお酒を一滴も飲めません」
「それは違う話だよ?」
ガントは唇に微笑みを乗せて、空に伸びる自分の煙を見つめていた。
「あの魔女、ワカバっていう名前らしいね」
「知ってるんですか?」
「長官が一度教えてくれたんだ」
その響きがとても悲しいものに聞こえた。ランドはその響きと同じトーンで呟いた。
「ワカバさん、ちゃんとご飯食べてますか?」
「あんまり食べてないけど、夜にね、副長官が来てるから大丈夫だよ、きっと。だから、君がいた時とそんなに変わらないかもしれない」
ガントは一度灰を落とし、そのまま指に挟んで時間を止めていた。まるで石像のように動かない。その視線の先には空があった。薄い雲がゆっくりと太陽を拭っていった。そして、ベールを脱いだ太陽は再び木々を輝かせ、緑を若草色に染めあげた。ランドは空に飛んで行った赤い天道虫を目で追いかけて、それを見失った後、腕時計をちらり見た。ガントの視線はまだ空にあった。
「僕ね、あの魔女をワカバって呼べないんだ。どんな時でもあの魔女、としか言えない。十四年生きている魔女としか思えないんだ」
「別にいいんじゃないですか?」
ランドは本当にそう思っていた。そして、どうしてガントがそんなことを考えるのかが不思議だった。
「君みたいに、ワカバって名前の十四歳になる女の子、なんて思えないんだ」
「それは、君が優しいから思えないんですよ」
ランドはガントの銜える煙草の灰が彼の白い白衣の上にポロリと落ちていくのを見つけ、目で追っていた。灰は上手に転がり、芝生の中へ消えていった。そして、すぐに「そんなことない」という呟きが聞こえた。ガントは腕時計を見て、にこりと笑った。
「行かなくちゃいけない時間だよ」
「おや、本当にそろそろマリアさんがうるさい時間でした」
ランドも腕時計を見てから、立ち上がった。
「申し訳ないです」
「いいよ。君はいつもそうだ」
ランドはハハハと笑い、「じゃあ、また」と手をあげた。マリアはやはりカリカリしながら、ランドの姿を見るや否や、金切り声を上げた。
「一体何分無駄にしたと思っているんですか?」
「そうですね、おそらく五分弱でしょう」
ランドは腕時計をわざと見た。
「えぇ。よくお分かりで」
言葉を吐き捨てたマリアが息を吸った。
「長官がお呼びです。長官室にある午後からの計画書をご覧になってから、実験に参加するようにおっしゃってました」
一気に言葉を吐いたマリアは息を吸い、さらに「以上で本日の私の仕事は終了ですので」と吐き捨てて、ランドを置いて歩き始めた。ランドはそれを追いかけるようにして、叫んだ。
「じゃあ、また明日。今日もありがとうございました」
マリアは答えず、つかつかと歩いて行ったが、ランドは遠退いていくその背中に向かい軽く頭を下げて、言われた通り長官室へと向かった。
長官室にはランネルの研究している資料や、文献などがたくさん並んでいるだけで、全く人気のない場所だった。人気がないというよりも、人が使っている形跡がないような閑散とした感じだった。それは副長官室とはまた違った雰囲気だった。
ランドへ向けた計画書らしき文書は重厚な漆塗りの机の上に機械的に載せられてあった。ランドが手にとって、やっとその文書は紙束から文書に変わった、と思うくらいに無機質に載せられてあり、ランドが紙を捲る音がその部屋にこだましているようにうるさく聞こえた。実験内容は今までと変わらない。さっきの会議に出されていた内容だった。しかし、心理作用という面で、ランドが加わっていることに少し興味を覚えた。
普段いない顔で、しかもある程度知っている顔。よりよく言えば、信頼している者がいれば結果は変わるのか。
最後の信頼の面には全く自信がなかったが、もしも、ランドがいることによってワカバが何か作用されるのならば、魔女の力は気持ちに大きく作用されるものかもしれない。
実験開始まで小一時間ある。ランドは少しだけ外に出ようと思った。壁の外の世界では、リディアスが後押しまでしていた魔力缶詰工場が倒産、と書かれた瓦版をばら撒く男が、「号外だよ~あの缶詰工場が倒産だって~」と軽々しく声を張っていた。




