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理解不能な位置関係   管理人視点

 本人を目の前にして、どうしてこんなむごい話を、笑いながら言えるのだろう。

 カロンの突然の変貌ぶりに、ショックを受けた僕の体は、ひとりでに固まった。

 しかしカロンは、お構いなしに話をつづけた。

「そいつの名前が、プースケだって分かった瞬間、わたしの中にいたプースケは、どこかに消えたの」

 そこでカロンは、思い出したように僕に顔を近づけると、ささやくような声で「でも、心配しないでね。あなたへの思いは、全然変わらないんだからね」と言った。

 ストーカー。

 反射的に浮かんできた言葉に、僕の心臓はきりりと痛んだ。

 カロンはとても可愛い。そう思うのは僕だけではないはず。彼女に恋心を抱いた男の中に、心の歪んだ奴がいたとしてもおかしくない。

 きみはずっとストーカーの標的に、

 と言おうとして、それを飲み込んだ。ストーカーという言葉は強烈すぎる。事件に結びつくような気がして怖い。カロンに恐怖芯を植え付けるかもしれない。

 そう思った僕は、遠回しにきくことにした。

「つまり、プースケというあだ名の人間が、きみに迷惑行為を繰り返しているってことなんだね」

 その質問をきっかけに、話は暗い方に進んでいくと思ったが、違った。

 カロンはにこっと笑うと「大体において、そうだけど、間違いがふたつあるわ」と言った。「そいつの場合、あだ名じゃないの。れっきとした本名」

「本名? プースケが?」

 僕の声が裏返ったのが、よっぽどおかしかったらしく、カロンは小さく吹き出した。

「そいつは人間じゃないの。犬なの」

「イヌ?」

 想定外の言葉に、体の力がすこんと抜けた。しかし、何かを犬と聞き間違えた可能性がある。僕は笑顔を作ってから、確認した。

「そのイヌって、ワンワンと吠える、あの動物のこと?」

 それを冗談と受け取ったのか、カロンは明るい声で笑ってくれた。

「これまで数え切れないほどの犬を見てきたけど、あいつだけなの、私に吠えかかるのは」

 プースケが犬だと聞いて、一旦は安心した僕だったが、その直後に脳裏に浮かんだ映像に身震いを覚えた。

 鎖を引きちぎって路上に飛び出す猛犬。その視線の先にあるのは、何も知らずに歩くカロンの後ろ姿。

 犬による殺傷事故の大多数は、飼い主の怠慢が原因。

 事故を未然に防ぐ方法は、早めの通報しかない。こんな場合、どこに連絡すればいいのだろう。警察? 保健所? それとも飼い主に直接?

「その犬、日頃からストレスを抱えているんだよ。犠牲者が出ないうちに、すぐ手を打たなきゃ」

 適切なアドバイスをありがとう、

 そんな言葉を予想したが、カロンは笑顔で首を振った。

「その点は心配いらないわ。そいつは、とても贅沢な暮らしをしているの。だだっ広い犬小屋は冷暖房完備。そいつがいるのは三階建てのビルの屋上。しかも屋根付きで、全面天然芝だから、ストレスなんて感じたことはないみたい、」

「ちょっと、いいかな」僕は話を遮った。「その犬に吠えかかられたのは、道端だよね」

「道端?」カロンは不思議そうな目で僕を見た。「わたしの知る限りでは、あいつは一度も屋上から出たことがないみたい」

 その犬小屋は、歩道のすぐ横にあると思い込んでいた僕の頭の中は混乱した。

 三階建と言えば、高さは十メートルくらい。

ハリー・ポッターや、魔法使いのように、自由に空を飛べるのならともかく、世界中を探しても、そんなに身長の高い人間はいない。第一カロンは、僕よりずっと背は低い。

 どういう状況で、カロンは、その犬に吠えられたのだろう。

 しばらく考えているうちに、謎は解けた。

「なんだ、そうか」

 思わずつぶやきが漏れた。

 屋上に犬小屋のあるビルの近くに、カロンが引っ越しただけ。何の不思議もない。

「どのあたりに引っ越したの?」

 とたんにカロンは怪訝そうな顔になった。

「わたし、ずっと川の畔に住んでいるわよ」

「え?」僕はしばらく考えてから言った。「きみの部屋から、その犬小屋が見えるんだろ。きみの部屋は、犬小屋付きビルに隣接したマンションの三階か、四階じゃないの?」

 カロンの表情が微妙に変わった。

 あ、いけない。口が滑った。何か言い訳を考えなきゃ。そんなふうに見えた。

 しばらく僕を見つめていたカロンは、何度か小さく頷いたあとで口を開いた。

「どうやら、わたしの言い方がまずかったようね。わたしと犬の位置関係がよく伝わらなかったみたいね」

 位置関係という言葉に、違和感を覚えた。専門用語ではないが、日常会話では、ほとんど使われないような気がしたからだ。

「まあね」

 曖昧な相づちを打つと、カロンは「じゃあ、説明してあげる。これが犬だとすると」と言って、かるく握った右手のこぶしを水平方向に伸ばした。そしてそのあと、左手を自分の頭のあたりで止めて「これがわたし」と言った。

 右手が犬。左手がカロン。

 彼女の意図がまったく理解できないまま、高さの違う両手を交互に眺める僕に、カロンは笑いをこらえるような顔で言った。

「たぶんあいつは、わたしだけじゃなくって、飛行機も嫌いなはずよ」

 カロンの話は、冗談を交えた例え話だと思った僕は、冗談で応じた。

「つまり、きみは空を飛べるってことだね」

「わたしの場合、飛べるとは言わないんじゃないかしら」

「でも空を飛べるんだよね。少なくとも三階建てのビルくらいの高さまでは」

「高度は風次第ね。上昇気流に乗ると、とんでもない高さまで行っちゃうことがあるの」

 辻褄の合わない話だったが、カロンは笑顔を浮かべたままだった。このまま話をつづけたかった僕は、中学校の頃仕入れた知識を披露した。

「まさか、太平洋上空32000フィートあたりまで、ってことはないよね」

「なにそれ」

 ちょっと困ったような顔が可愛かったので、つい調子に乗った。

「旅客機の巡航高度だよ。飛行機の高度は、西行きか、東行きかで決まっているんだ。日本の場合、西行きが偶数。東行きは奇数。32000フィートは偶数だから、西行き。東行きは、31000とか、29000フィートを飛ぶように決められて、」

「ねえ、ねえ、ねえ」

 僕の薄ぺらな知識に苛ついたのか、カロンはつまらなさそうに唇を尖らせて話を遮った。

「そんなこと、どうでもいいから、究極のビジネスの話を聞かせてよ」


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