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『ちぎれ雲の脳裏に浮かんだ若いおんなのひと』 バーシュウレイン視点。

 ガウチは、ふかいため息をついた。

 味覚テストによって、記憶の謎が解ける。少なくとも、それにつながる糸口が見つかる。そんな自信が、というより確信があった。しかし謎は、さらに深まっただけ。

 バクダン梅には、なんの反応もみせない。なのに、それ以外の味覚は実に繊細。

 ハーブティを見分ける力は、資格者の私より数段上。かと思えば、マーマレードに顔を歪める。わからない、わからない。マーマレードのどこが怖いのだろう。猛獣か、蛇にでも見えているのだろうか。どう考えてみても、生まれつきではない。なにか原因があったはず。きっかけは何? 

 疑問だけが、ガウチの頭で渦を巻いていた。

「ねぇ、ここいらで、お茶にしようか」

 場を和ませるカモシンの声で、我に返ったガウチは、急に喉の渇きを覚えた。

 目の前には、ハーブティがずらりと並んでいる。でも、目隠しテストで負けた今、こんなもの見たくもない。

「あなたにまかせる」

 といったところで、脳裏に浮かんできたものがあった。

『迎え酒』

 ん?

 ガウチは首をひねった。どうしてこんなときに? ここ数か月、食前食後のワインすら飲んだこともないのに。

 その直後、あることわざを思い出したガウチは、苦笑いした。なるほどそうか、毒を以て毒を制すってことか。ガウチの舌先には、バクダン梅による痺れがまだ残っていたのだ。わたしのからだが要求していたのね。

 部屋を出ていこうとするカモシンの背中に、大きな声で呼びかけた。

「梅昆布茶、あったわよね」

 ドアに手をかけていたカモシンが、にこっと笑って、両手で大きな丸をつくってから、いった。

「気が合うみたいね、わたしたち」


 ガウチが梅昆布茶を選んだのは、自分のためだった。でもカモシンの場合、別の意味も含んでいたらしい。

「飲んだこと、ありますか?」

 カモシンは、コーラを飲んでいるちぎれ雲の前に、さりげなく湯飲みを置いたのだ。

「いえ」

ちぎれ雲は半分ほど飲んだコーラをテーブルに戻すと、湯飲みに顔を近づけた。

「いい香りがするんですねぇ、これ」

 そのときカモシンにかすかな笑みが浮かんだのを、ガウチは見逃さなかった。

「でも、ちぎれ雲さんにしたら、何の味もしない飲み物でしょうから……」

 そこで言葉を切ったカモシンは、からだを少し斜めにした。それからゆっくりとした声でつけくわえた。

「試しに、ひと口、いかがですか」

 まさかと思っていたことが起きた。

 湯呑みに唇が触れた瞬間、ちぎれ雲が激しくむせたのだ。

 一口でもすすっていたら、梅味の昆布茶のしぶきが、カモシンの顔を直撃したにちがいない。

「みなさん、よく飲めますね。こんな激辛を」

 顔をひきつらせたちぎれ雲が、そういったとき、ガウチは思った。

 切り替わったのは、一部の味覚だけなのだろうか。ほかのものは、どうなのだろう。音とか、色は……

 鳥肌が立った。信号の色は、どんなふうに見えるのだろう。

 気が付いたら言っていた。

「車の免許は、持っているんですか?」

 他のふたりも、その言葉の裏にあるものを察したらしく、飲みかけの湯飲みを、胸のあたりで握りしめた。

「いえ、運転した覚えもありません」

 またしても、ガウチの口が勝手に動いた。

「でも、携帯電話は、お持ちですよね」

 口直しのコーラを飲んでいたちぎれ雲には、質問の意味が理解できなかったようだ。しかし、しばらくすると、ゆっくりとした口調で質問してきた。

「携帯電話と、車の免許の間には、どんな関係が、あるんですか?」

 反撃の口調ではなかった。素朴な質問。そんなニュアンスだった。それだけにガウチは言葉に詰まってしまった。相手に失礼にならない言葉を探したが、出てこなかった。

ガウチは、カモシンとベッキーを交互に見た。

 ねえ、どう返せばいいの? 

 それをいう前に、カモシンが口を開いた。

「今が、そのときでしょ」

 それにあわせるように、ベッキーが、こくんとうなづいた。


わたしたちとちぎれ雲さんは、深い絆で結ばれている。

 ガウチは固く信じている。だが、時として弱気になることもあった。ひょっとすると、自分一人の一方的な思い込みかもしれない。こんな気持ちになるのがわかっていたら、最初に訊くべきことを訊けばよかった。でも、遅い。今さら訊けない。怖くて訊けない。訊けば、誤解を与える可能性がある。わたしたちとの関係が、違う方向に進んでいく。

 ガウチの胸の中には、そんな思いもあった。

 しかし、いまのカモシンとベッキーの反応で、踏ん切りがついた。みんなそう思っていた。わたしだけじゃなかった。

 ガウチは腹をくくった。いかなる結果が出ても、わたしひとりで責任を取る。

 初歩的な質問で関係が壊れるくらいなら、その程度の結びつきでしかなかった証拠。壊れるなら壊れてしまえ、木っ端みじんに。

深呼吸一回。ガウチは、切り出した。

「これからお伺いするほとんどは、プライバシーに関することです。もし、それが嫌なら嫌と、はっきりおっしゃってください」

 さあ、賽は投げられた。あとは相手次第。ガウチは、ちぎれ雲の口元を睨んだ。するとちぎれ雲は意外なことをいった。

「僕のほうから、お願いしようと思っていたところなんです」

 かしこまった表情だったが、主語が抜けている。ガウチは、少し考えてから訊いた。

「お願いって,なんのことですか?」

 ちぎれ雲はガウチを正面から見据えた。

「先ほどもいいましたが」

 何をいおうとしているのかわかった。でも、あえて言葉をはさんだ。

「先ほどのこと?」

「ええ、そうです」ちぎれ雲は背筋を伸ばした。「繰り返します。むかしの自分に興味がわいてきたんです」

 たしかに聞いた。しかし、違いがあった。今の声には真剣味があった。表情も違う。目力がある。

 いい傾向だ。しかし、すんなり飲み込めないものがあった。ガウチは感じたことをそのまま言葉にしようとしたが、うまくいえそうもなかったので「先ほどとは、なにか、状況が違うのではありませんか?」といって様子を見ることにした。

 ちぎれ雲は大きくうなずいた。

「手助けを、お願いしたいんです。なんでも訊いてください」それからしばらく間をおいて「実をいうと、ですね」とだけいって、急にうつむいた。

 しかしガウチはあわてなかった。

 短いセリフの中に、恥じらいの響きがあったような気がしたからだ。ガウチは、カモシンとベッキーをチラ見した。

思った通りだった。二人の目にも好奇の色が浮かんでいた。

 自信を深めたガウチは、足元に視線を置いたままのちぎれ雲に視線を戻した。

 しばらくその横顔を眺めていたガウチの表情が、ふっと緩んだ。

 ちぎれ雲は、ときどき目を瞬いている。でも、涙をこらえているわけではなさそうだ。よくみると頬がかすかに赤らんでいる。

 あららら,そうなの。そうだったの。

 ガウチは、笑いたくなるのをこらえた。

 ガウチは経験上知っていた。これは黙秘ではない。恋する人の顔。そのことをしゃべりたくてうずうずしている顔。催促されるのを待っている顔。

 となれば即実行。ガウチは、意識して口調を変えることにした。

「実をいうとのあとは、何なの? 言いにくいことなの? それだったら、おしまいにするわよ」

 上から目線の効果は、てきめんだった。

「いいます。いいます」

 ちぎれ雲は、慌てたように手を振りながら顔をあげた。

「さっき、女のひとの顔が見えたような気がしたんです」

 やった!

 ガウチは心の中で、ガッツポーズをした。

 彼の中で、何かが動きはじめている。我々の真剣さが、芯の部分を突いたらしい。 

「いつ、見えたの?」

「携帯電話の、あのあたりでした」

 ガウチの胸が震えた。反射的に、三人の候補者が浮かんできたからだ。

 最有力者は、カロン。どこかに消えたカロン。謎の女カロンの手がかりが掴めそうだ。

 善は急げ。一気に攻めよう。

 しかしガウチは自分を戒めた。あわてるな。ことわざには、逆パターンもある。急いては事を仕損じる。ガウチは後者を選んだ。焦りは禁物。話の流れを阻害する。重要な部分こそ時間をかけて遠回り。

 ガウチは、順位の低いほうからいうことにした。

「その女のひとって、ちぎれ雲さんの、おばあさま?」

 彼は首を振った。それから何かを思いだそうとするように、静かに目を閉じながら、ぽつりといった。

「若いひとでした」

 予想どおりの展開に、ガウチの胸はどきんと鳴った。

「ということは、あれよね、顔を見たっていうことになるわよね?」

 さり気なく誘導すると、ちぎれ雲は、すこし悔しそうな表情を見せた。

「……後ろ姿でした」

 てっきり真正面からだと思っていた。それも唇が触れるほどの近さで。ガウチはがっかりしたが、すぐに納得した。

 たしかに後ろ姿だけでも、だいたいの年齢はわかる。でも、彼にとって若いおんなとは、何歳から何歳までをいうのだろう。

 シルエットだけなら、二十歳前後の娘に負けない熟年女性はいくらでもいる。違いがあるとすれば、肌つやだろうか、それとも、はつらつとした動き?

 ガウチはそこで想像をやめた。いずれ明らかになる。

 二番目の候補は、母親だった。男の子にとって、初恋の相手が母親というパターンもあるらしい。彼が幼稚園に通う頃の母親は、ずいぶん若かったはず。

 しかし、やめた。彼の口から、母親に関する話が出たことは一度もない。

親子の確執。親子断絶。そんな場合。母親ということばひとつで、開きかけた記憶の扉が音を立てて閉まる恐れがある。

 ガウチは大本命を口にすることにした。これがハズレなら、若いころの母親だった可能性が高い。一石二鳥。

 ガウチは、冗談めかした口調で訊いた。もちろん、カロンの名は出さなかった。

「ひょっとして、そのひと、むかしの彼女だったんじゃないの?」

「たぶん、そうだと思います」

 ちぎれ雲は目を閉じたまま、何度かうなずいた。

 ガウチは胸をなでおろした。予想が当たったこともあったが、これまで受けた相談事のほとんどが、幸せに背を向けるような内容だったからだ。身近な物語は、ハッピーエンドに限る。

 と、ちぎれ雲の横顔に、怪訝の色が浮かんだ。

 ガウチは、あ、しまったと思った。後ろ姿のおんなの構図を、別離のシーンでよく見かけるからだ。

 しかしそれは考え過ぎだった。

 ゆっくりと顔を上げたちぎれ雲の顔には、嬉しさを押し隠すような表情があった。

 しかし、どういうわけか、彼は目を閉じたままだった。その上、何もしゃべらなかった。

 不安になったガウチは、元の口調で呼びかけた。

「どうしたんですか? ちぎれ雲さん」

 すると、耳を疑うようなセリフが返ってきた。

「いままた現れたんです」それからゆっくりと目を開けた。「それだけじゃありません。振り向いてくれたんです」

 息をするのも忘れて次の言葉を待っているバーシュウレインの三人は、同じようなことを感じた。

今の言葉の裏には、何かが隠されている。

 そのとおりだった。三人を交互に眺めていたちぎれ雲が、こんなことを口にしたのだ。

「残っていますか? 皆さんの若いころの写真」


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