『ちぎれの雲運命を変えるのか、ひらがな四文字』 バーシュウレイン視点
ちぎれ雲の動きがとまったように見えた。
口は半開き。どこか遠くを見つめる目。しかし意識はしっかりしているようだ。瞳の奥に小さな光がある。
息を殺してちぎれ雲を見つめているガウチは確信した。
今記憶の扉が開きかけている。扉の隙間から、何かが顔をのぞかせている。
何が見えているのだろう。何を見ているのだろう。できることなら見てみたい。今彼が見ているものを。この目でしっかり。
その望みは、十数秒後に叶った。
ちぎれ雲は突然目を見開くと、テーブルの隅に置いてあったポストイットに手を伸ばした。
「これには、どんな意味があるんですか?」
ボールペンを置いたちぎれ雲は、ポストイットを三人に向けた。
ぐいと身を乗り出すガウチ、カモシン、ベッキー。
そこにあったのは、ひらがな四つ。
走り書きだったからだろう、文字は乱れている。でも、しっかり読むことができた。それが、何なのかも理解できた。
だが三人は、訳が分からないといったような表情で、互いに顔を見合わせた。
「……うめぼし?」
ベッキーがそれを口にした途端、本人はもちろん、ガウチもカモシンも同じ表情になった。すっぱいものが大の苦手のガウチは、さらに顔をしかめて、口をすぼめた。
知らない人が見たら、対応に苦慮して、右往左往しているように見えるかもしれない。
ガウチはそのままの顔で、ちぎれ雲に確認した。
「うめぼし……ですよね」それからポストイットに視線を移した。「ここに書かれているのは」
しかし、返事はなかった。なぜかちぎれ雲は、顔を真っ赤にして恥ずかしそうにうつむいてしまったのだ。
え?
ガウチは状況の変化に戸惑った。
わたしたち、あなたに協力しているつもりなんですけど……
そこでガウチは気がついた。我々三人の反応を、何かと勘違いしているらしい。
それって、何?
自分に問いかけた瞬間、答えを見つけたような気がした。
いわゆる放送禁止用語。
それを一番先に思いついた自分に、吹き出しそうになったが、ガウチは心を引き締めた。
そんなことはどうでもいい。まずは、現物を見てもらおう。
と立ち上がろうとしたとき、ベッキーが目で合図した。
それは、私に任せて。あなたは、ちぎれ雲さんをフォローしてちょうだい。
了解。
ガウチも目で応えた。
ベッキーは二分もせずに戻ってくると、手際よくそれを小皿に取り分け、ちぎれ雲の前に、そっと置いた。
しそ漬け。かつお梅。はちみつ漬け。それに、むかしながらの塩梅干し。
ほっとしたような顔で、それらをしばらく眺めていたちぎれ雲が、おそるおそるといったような声で訊いた。
「四種類とも、うめぼしというんですか?」
ガウチは口の中にわきでるすっぱい唾を飲み込みながら、おおきくうなづいた。するとちぎれ雲は、:小皿の前に置かれている割りばしとつまようじに目をやった。
「食べられるんですか? これ……」
「もちろんです」
ガウチは笑顔で答えたが、心は別のところにあった。身震いしそうになる体を、必死で押さえこんでいたのだ。
といっても、見るのも嫌な塩漬け梅干しが目の前にあるからではない。
もうすぐ歴史的瞬間が訪れる。それを目の前で見ることができる。
アパートの管理人になる前の彼の記憶が、この梅干しを口にいれた瞬間、よみがえる。 ちぎれ雲さんが、我々の前に現れた理由。遠い昔に死んだはずのアパートのオーナー。カロンの正体。あのアパートにまつわる謎のすべてが、明らかになるかもしれない。
そんな予感に、神経を高ぶらせていたのだ。
「味は、それぞれ違うんですか?」
ガウチの梅干しの味に関する表現は、すっぱいしかない。でも彼女は思いつきを口にした。
「人によって、ずいぶん違うようです。おふくろを思い出す。まろやか。脳天に突き刺さる。これがなければ生きていけない。人それぞれです」
ガウチの極端な言い方に興味をそそられたのか,ちぎれ雲はテーブルの小皿に目を近づけると、においを嗅ぐように鼻をくんくんさせた。
そんなちぎれ雲を見ながら、ガウチは自分に言い聞かせた。
いまちぎれ雲さんは、人生の分岐点に差し掛かっている。対応を間違うと、彼の人生が変わる恐れがある。ここは慎重に、慎重に。
「ちぎれ雲さんは……」ガウチは、彼の目が、自分に向けられたのを確認してから、つづけた。
「初めてですか。梅干しを召し上がるのは」
「ええ 」即座に返事が返ってきた。「見るのも初めてです」
え?
またしても無意識にこぼれ出る驚きの声。
信じられないといったように小首をかしげるカモシンとベッキーを横目に、ガウチはにこっと笑った。
「どうぞ、お好きなものから召し上がりください」
それから心の中で、強く念じた。
どうか、塩漬けを選びますように。
それはベッキーの手作り。市販のどの梅干しよりも、すっぱい。梅干し好きの人間でも頭の中をかき回された気分になるほどの強力な梅干し。
ベッキーにいわせると、保存状態さえしっかりしておけば、二百年後でも食べられるらしい。
減塩もいいけど、たまには、伝統的なものを食べてみたらどう?
サラリとした口調で言われ、それもそうね。と気楽に応じ、口に入れた瞬間、吐き出していたという代物なのだ。
ガウチの思いは、呆気ないほど簡単に通じた。
「じゃあ、これから」
ちぎれ雲が真っ先に箸をつけたのは、薄桃色の梅干しだった。




