プースケからの卒業 管理人側視点
僕は色々なことを祖母から教わった。
そのほとんどは、記憶に留まることもなく、どこかに消えてしまったが、脳裏に刻み込まれているものもある。
失敗は成功の元。
小学三年のとき聞いたそれも、そのひとつだ。
「ということは、僕みたいに失敗が多い人間ほど、成功するってことなんだね」
その反応に、祖母は目を細めて笑った。
「そういうこと。失敗は成功の元は、あなたのためにあることわざなの。ついでに覚えておくといいわ。失敗が続く時は、やり方を変えなさいという神様からのメッセージ。そう考えると、とても楽に生きることができるわよ」
そのあとに話してくれたのが、ポスト・イットの発明秘話だった。
「失敗の山の中に、とんでもない宝物が隠れていることがあるらしいの」
そう前置きしてから祖母は、強力接着剤の発明の過程で偶然生まれた非常に弱い接着剤が、どのような経緯を経て世界的発明品となっていったかを、分かりやすく話してくれた。
「でもおばあちゃんは、ずっとポスト・イットとは逆のことをしてきたんだよね」
話を聞き終えた僕が、そんな感想を口にすると、祖母は明るい声で笑った。
「そうよ、おばあちゃんは、後ろは一切振り向かない。済んだことは無条件で諦める。私の座右の銘は、後悔先に立たず」
その時、なぜか僕はこう思った。
この話は自分にとって、とても重要な意味を含んでいる。しっかり覚えておこう。
小学三年の僕が、一連の話を頭の中で復唱しているあいだ、祖母は熱いお茶をすすりながら、どこか遠くを眺めていた。
「つまり僕は、おばあちゃんや、お母さんとは違った生き方をした方が良いってこと?」
すると祖母は、今まで見たことがないような嬉しそうな顔をして言った。
「いい頭をしているわね」
僕の頭の中は混乱してしまった。
そんな褒め言葉は、自分とは無関係だと思っていたし、祖母との会話の中に、国語、算数、理科、社会に関する問題は、なにひとつ出ていなかったと思っていたからだ。
「頭がいいって、どこが?」
学校の成績を知っている祖母は、ちょっとだけ苦笑いを浮かべた。
「おばあちゃんが、言いたかったことを、ピタリと当てたからよ」
テーブルに並んでいるのは、ご飯と味噌汁、納豆に味付け海苔。
カロンの料理は、いつもシンプル。
今朝の味噌汁の具は、大根と豆腐。それに細かく刻んだネギと三つ葉が、色を添えている。
答は決まっているが、箸をつける前に、いつもの質問をした。
「今日も僕だけ?」
「そうよ」カロンは笑って答えた。「わたし、お腹いっぱいなの」
その返事にすこし安心した。大抵の人は、満腹になると機嫌も良くなるらしい。
「ところで、僕の仕事の件だけど……」
あのことを恐る恐る切り出したのは、食後の片付けが終わり、テーブルの上に何もなくなったのを見届けてからだった。
「仕事?」カロンは、急に考える顔になった。「仕事って、何のこと?」
びっくりしたような声に、こっちが驚いた。僕はしばらく考えてから、断定口調で言った。
「先週の、あの話のことで、やって来たんだよね」
再び彼女は怪訝そうな表情を浮かべた。
「あの話?」
しらばっくれているようではなかった。
「ほら」僕は口を尖らせた。「あれだよ、あれ。面白いビジネスのアイデアが閃いたって言っただろ。究極のビジネスモデルの話。あれだよ」
「いつ、言ったの?」
何かバカにされているような気がしてきた。
「だから、先週だよ、先週。きみが求人誌の話を持ち出したときだよ。もう準備はできている。名刺も用意してあるって言っただろう」
カロンは、ぽかんとしたような表情で僕を見た。
「覚えていないなぁ、わたし」
間延びした声に、カッとなった。
「どうしてそんな無責任なことを言うんだ。あのとき、きみはこんな忠告しただろう。事業を起こすには若すぎる。もう少し考えろって」
喋るに従って語気が荒くなっていく僕を、カロンは落ち着いた声で制した。
「何か飲む?」
コーラと言いたかったが、カロンといるときは温かいものと決めていた。
「こんな話は、聞きたくないかもしれないけど」カロンは、自分用のティーカップを両手で包み込みながらつづけた。「時々だけど、あなたはわけの分からないことを言うことがあるの」
そのような話は、祖母や母親からも聞いたことがある。
「つまり僕には、夢と現実の区別がつかなくなることがある、っていうことなんだね」
否定の言葉を期待したが、カロンは、にこっと笑ってうなずいた。
「まあ、そんなところかな」
僕はまだ熱くて飲めない紅茶をスプーンでかき回しながら、質問した。
「じゃあ、僕の新しい呼び名の件も、夢だったんだね。僕は今まで通り、プースケでいいんだね」
するとカロンは首を振った。
「あれは夢じゃないわ。わたし決めたの。金輪際、あなたのことをプースケとは呼ばないって」
わけが分からなくなった。
カロンが僕を「プースケ」と呼ぶのは、僕がプー太郎だから。つまり無職だからと思い込んでいたからだ。
「プースケを卒業するのは、僕が会社を立ち上げるような話をしたからじゃなかったの?」
何が可笑しいのか、カロンはクスクス笑った。
「今のわたしにとって、一番聞きたくない名前が、プースケなの」