23・59・53事変から二年数ヶ月後 バーシュウレイン視点
今では手放せない、老眼入りのサングラス。
一段と濃くなって室内では不便を感じることの方が多いが、こんな時はありがたい。刻々と色を変えていく太陽を、じっくり観察することができる。
毎日毎日西空を見ているうちに気づいたことがある。
太陽の沈む位置は一定ではない。春分の日、秋分の日は、あのアパートの真上に消え、半年ごとに左右が入れ替わり、梅雨明け間近のこの時期は、三十度ほど北側にあるマンションの横に沈む。
でも、周囲を高層マンションに囲まれたあのアパートに、西日が直接当たることはない。
ところで今ごろ、ベッキーとどんな話をしているのだろう。
「なに考えてるの?」
いきなり声をかけられたが、カモシンに驚きはなかった。
バルコニーに天然芝を敷き詰めた当初は、足音に気づかず、そのたびにビクついていた。でも、いつのまにか体の方がそれに慣れてしまったらしい。
カモシンはバルコニーの柵に頬杖をついたまま、振り向かずに答えた。
「決まっているでしょ」
それだけでガウチには伝わったようだ。
「基本的に、ばかなのよね、わたし」
自虐的なセリフを吐いたガウチは、一メートルほど離れた柵に体を預けたあと、自分に言い聞かせるように付けくわえた。
「そうよね、それしかないもんね」
ガウチにしては、珍しく弱々しい声に、カモシンは驚いた。彼女が唯一自慢するのは、わたし絶対に弱音を吐かないの、だった。言葉を変えると、自分に厳しく、他人に優しい。それにシャイ。
沈む夕日を見据えたままカモシンは、明るい声で応じた。
「まだ、三年たってないのよ。大丈夫よ、大丈夫」
「でもね……」ガウチは、赤みを増しはじめた空を見上げた。「わたしだったら、今すぐにでも診てもらう。民間療法なんて絶対に信じない……」
語尾を濁したガウチに言いたかった。
気持ちはわかる。たしかに、医学的検査は受けていない。MRIもCTもレントゲンも。でもあなたも知っているでしょ。本人がそれを望まない以上、強制的に連れていけないことぐらいのことは。
カモシンはしばらく考えてから、諭すような声でいった。
「焦りは禁物だと思うの。私たちが、ばたばたしたら、逆効果なんじゃないかしら? 指名手配写真にも、行方不明者リストにも載ってなかったでしょ。だいいちちぎれ雲さん自身が、別にかまわないっていっているんだから、もっと、長い目で、」
カモシンがそこまでいったとき、ガウチがびっくりしたような声で「えっ?」といった。
以前、芝生の中から鉛筆ほどの太さのミミズが顔を出して、大騒ぎになったことを思い出したカモシンは、首を傾げた状態で固まっているガウチを覗きこんだ。
「何か、いたの?」
「いま、さ」そこで息を吸ったガウチは、何か思い出そうとするように、右手を自分の額に当てながら口を開いた。
「いま、ちぎれ雲さんていったわよね」
何ごともなかったことに安心したカモシンの声は、弾みで大きくなった。
「あったり前でしょ。それ以外に、」
といったところで、カモシンは自分の勘違いに気づいた。ガウチが心を痛めている相手は、ちぎれ雲さんではない。と同時に、ガウチの思い込みの強さに呆れた。
なんだ、なんだ、なんだ。そんなことを心配していたの。ばかじゃないの、あなたって!
でもそれは溢れる優しさ、あってのこと。だったら、その誤解を、今すぐ解いてあげましょう。
「ねえ」ニヤリと笑ったカモシンは、ガウチに体を向けると、目の前でパチンと両手を打ち鳴らした。
「よーく目を開けて、わたしを見て欲しいんだけど」
「なによ、急に」
振り向いたガウチに、夕日がまともに当たったとき、あのことを白状しようとしたカモシンの思考が乱れた。
眩しそうに目を細めた黄金色の顔が、違う人に見えたのだ。
誰だったっけ。 いつ、どこで見たんだっけ?
思い出そうとしたが、何も浮かんでこなかった。
「はいはい、見ました、見ましたよ。何か御用ですか、カモシン様」
すっかり開き直ったガウチの声で我に返ったカモシンの脳裏に、もうひとりの顔が浮かんできた。カモシンは自分の胸の奥に熱いものを感じた。
私たち三人、常に助け合ってきた。補い合ってきた。一本の矢は簡単に折れる。でも、三本まとまると強い。絶対に折れない。
となれば、確認してからでも遅くはない。
落ち着きを取り戻したカモシンは、先週買い換えたばかりの、サングラスを指で叩いた。
「ベッキーとも話をしたことがあるの? この件について」
「ええ、まあ……」
曖昧に答えたガウチは、母親に叱られた子どものように首をすくめると、再び自分の足もとに力のない視線を落とした。




