妥協の副産物 管理人側視点
気に入らないことがあると、ぷいといなくなる。そんなことは何度もあった。
しかし、いつもの消え方とは明らかに違っていた。
文字どおりの消滅。
でも、いくら何でも、僕の頭の中にもぐり込んだとは思わなかった。
頭の中が重くなったわけではないし、痛くなったわけでもない。だいいち、そんなことを真面目に考える方がおかしい。それにいまの僕に、カロンの気まぐれに付き合っている暇はない。
現金が残っているところを見ると、僕はあの三人に言い負かされたらしい。でも絶対に受け取るわけにはいかない。突き返してやる。
時刻を確認すると、午前四時半を少し回ったところ。
年齢より若く見えるといっても、彼女らは高齢者。年寄りの朝は早いらしい。この時間には、もう目を覚ましているかもしれない。もし寝ていたとしても、かまわない、電話をかけてやる。たたき起こしてやる。
腹立ち紛れにそう思ったが、取り消した。
この時間帯にやってこられたら、僕の方が困る。人通りのない路地裏といっても、大通りからここまでの間に、何棟もの高層マンションが立ち並んでいる。
マンションの住民の中に、趣味は、夜明け前の彗星探し、という人がいるかもしれない。肉眼では見えない彗星探しに、双眼鏡は欠かせない。高性能双眼鏡の持ち主が、天体だけを見ているとは限らない。たまには筒先を、人間世界に向けることもあるかもしれない。
ま、いずれにしても、かねては人ひとり通らない時間帯の闇に紛れて歩く三人連れは、間違いなく不審者扱い。新聞配達、牛乳配達。朝早い仕事に従事する人の目にとまった場合、顔なじみの町内会長、あるいは直接警察に電話。通報を受けた警察官が、確認の為にやってくる。
ったく、もう。
負の連想を打ち切った僕は、部屋の灯りを消して、ベッドに戻った。しかし何時間たっても、ベッドの下の現金が頭にちらついて眠れなかった。
僕とバーシュウレインの三人に、共通点などないと思っていた。しかし、妙なところが似ていた。
「あの料金は、完全な誤記です。迷惑をかけたお詫びとして、この三千万円はそのままお返しします。すぐ取りに来て下さい、お願いします」
言葉を選びながら言ったのだが、受話器から聞こえてきたのは、完全拒否。
「私どもは、料金を確認した上で、依頼したのです。受け取れません」
でも、ここで引っ込むわけにはいかない。
「あなた方にとっては小遣いかもしれません。でも僕にとっては、とてつもない金額なんです。数千円の金のために犯罪を犯す人間がうじゃうじゃいる時代に、こんな大金を手元に置いとくなんて物騒すぎます。絶対僕は何者かに命を狙われます。このままじゃ、外出はおろか、アパート周りの掃除もできません」
すると、三十分後に、三人が駆けつけてきた。しかし、引き取りにきたわけではなかった。僕のやるべき仕事のすべてを代行してくれたのだ。
そしてそのあと「お口に合うかどうかわかりませんが」といって差し出したのは、三段重ねのお重。おせち料理を思わせる豪華な料理。
「いま他のスタッフが、警備会社と契約を交わしています。昼過ぎから、四人体勢の二十四時間警護が始まります」
バカじゃないかと思った。
「何考えているんですか、そんなことをすると、ここにお宝があるということを宣伝しているようなものです」
しかし頑として受け付けなかった。
「一度支払ったものは、私どもとは無関係です」
三時間ほど続いた膠着状態が動き出したのは、僕が苦し紛れに放ったギャグのようなセリフだった。
「今日中に受け取ってもらえないのなら、テレビ局に電話しますよ」
これが劇的な効果をもたらした。確かに、この手の話題は民放各社はほっとかないだろう。いわゆる突っ込みどころ満載ってやつだ。
三千万円の現金を巡るオンボロアパートの管理人対セレブな高齢者の意地の張り合い。
しかも、原点が、世間にほとんど知られていない聞き屋ビジネス。一時間当たりの料金三千万円。飛び出した目玉が、月まで届きそうな超高額料金。それを平気で支払う人種が存在する事実。
ひょっとすると、どこかのテレビ局が、僕の記憶が失われていることを嗅ぎつけるかも知れない。ひとつの局が取り上げると、他の局もそれに追従するのが、いまのテレビ業界。でも僕は取材拒否。しかしあのカロンが、しゃしゃり出てくる恐れがある。
「わたし、あの人の頭の中を覗いたことがあるんです。特殊なんですよ。あの人の頭の中」
普通、こういった荒唐無稽な話は、誰も信用しない。そういった話をする人間のコメントを取り上げると、放送事故につながることを知っているテレビ局は、逃げ出す。
でもカロンには、それを踏みとどまらせるだけの何かがある。少なくとも「その話、ほんとにほんとなんでしょうね?」と相手に言わせるだけのオーラを持っている。
きっと視聴率は高い。誰もプロダクションに所属していないから、その方面からのクレームの心配はいらない。数年後、ネタがないとき、あの人は今、的な番組でも使える。
ということは、僕達は、この件に関して、十数年にわたって世間の注目を集めることになる。僕達が芸能人だったらおいしいネタ。でも、一般人としては、相当辛い。
たぶん、僕と同じようなことをバーシュウレインの三人も想像したのだろう。態度は急変した。
「ちぎれ雲の立場は、よくわかりました。ほんとうに申し訳ありませんでした」
テーブルに並べた三千万円を挟んで三人が頭を下げたとき、これで解決と思ったが、相手はしたたかだった。
「お互いに、意見をぶつけましょう。双方が納得するまで」
冗談じゃない。僕にその気はない。
「受け取ってもらうだけで、すべてが丸く収まるはずです」
しかし、のらりくらりと逃げられた。そして四時間あまりたってから、次のような取り決めが成立した。
三千万円は預かる。ただし、所有者は、聞き屋・ちぎれ雲のまま。
保管場所は、お石様の棚の中。
これを機に、聞き屋・ちぎれ雲はバーシュウレイン専属となる。
専属料は、月十二万円。ただし、僕が必要とするものすべては本部持ち。
専属料だけを見れば、一般サラリーマンの平均給与を下回る。しかし、実質的にはかなりの高給取り。
なにしろ僕が望めばパリだろうがニューヨークだろうが、ファーストクラスでひとっ飛び。しかも最上級のホテル。有名シェフの料理も食べ放題。欲しいものがあれば、たいていのものは、すぐにでも手にいれることができるのだ。
僕だけが有利になる理由も追及することなく、それを受け入れたのは、たぶん睡眠不足がたたって、最後の方は、思考回路がほとんど働かなくなってしまったからだろう。




