ことわざの効用 管理人視点
「はいっ!」
優等生顔負けの返事で立ち上がると、教室が大きくざわついた。
いままで一度も発表したことがない僕の変わりように、全員がびっくりしたらしい。
中には、こんなふうに思った奴がいたかもしれない。
こいつは何か企んでいる。ひょっとすると事件を起こすかもしれない。となると、当然俺は目撃者。明日になれば、ワイドショーのレポーターがやってくる。インタビューを受けるとき、どんなことから話せばいいのだろう。顔を出した方がいいのだろうか。音声加工で、足元だけにしてもらった方がいいのだろうか。
しかし僕は、本質的には植物系の人間。暴力はふるわない。やれと言われてもできない。
奇妙な緊張感が漂う中、僕は大げさな仕種で両手を腰にぴたりとつけると、背筋をピンと伸ばした。
「すでに終わったことを、いくら後で悔やんでも取り返しがつかないということです。事前に十分注意しなさいという教えです」
祖母から教えてもらったことを、そっくりそのまま棒読みすると、教師は驚いたような顔で「すごい」と言い、女子生徒のあいだで、パラパラとした拍手が起きた。
拍手は、できの悪い生徒に対する心からのものだと判断したから無視できた。しかし、教師の「すごい」には、ムカッとした。
あとから聞いたところによると、その「すごい」には別の意味があったらしい。でも、当時の僕は、単純に馬鹿にされたとしか思わなかった。
最初はここで座るつもりだったが、頭に血が上った僕の体が、それを拒否した。
今の答えのどこがすごいんだ。常識だろうが、これぐらい。
と言い返してやろうと思ったが、そのようなセリフを吐いたら、理由はどうであれ、生徒の負けというくらいの認識はあった。
この場で仕返しするのなら、合法的にやらなければならない。
冷静になったからだろう。次に言うべきセリフが浮かんできた。
拍手が止んでもまだ突っ立っている僕に、教師は事務的な声で「はい、もう座っていいです」と言った。
待っていたセリフが、すぐきたことに嬉しくなった。
「どうしてですか?」
感情を押さえた声で言うと、教師は怪訝そうな表情を浮かべた。
「今の答で十分です。完璧でした」
完璧という言葉に、また苛ついたが、更に落ちついた声で応じた。
「でも、まだ終わっていません」
教師は一瞬、身構えるような仕種をしたが、しばらくしてから尖った声で、
「ダソクという言葉を知っていますか?」
と言った。
急に相手の顔が、別のものに見えてきた。
丸腰の市民を、武力で押さえ込もうとする完全装備の女兵士。
昔から僕は、力による押さえ込みには、即反発してきた。
しかし、何か言い返そうと思ったが、何も浮かんでこなかった。だいいち、祖母から教わったことわざの中に「ダソク」なんてものはなかった。
しかしみんなの注目の中、こんな状態で座るわけにはいかない。一生の笑いものになる。尻切れトンボで終わらすわけにはいかない。
「一度も聞いたことがありません。どんな字なのかも知りません」
とりあえず思ったことを、そのまま口にすると、教師はすこし勝ち誇ったような表情を浮かべて黒板を向いた。
「蛇足」
音の響き同様、それには美しさに通じるようなものは、何ひとつなかった。
値踏みするような目で、僕を眺めていた教師が言った。
「この意味がわかりますか?」
そんな気色悪いもの、知りたくもない。
心の中でそう言ってから、低い声で言った。
「すみません。勉強不足なもので」
その直後、誰かがつぶやいた。
「ヤレ」
教師の視線が、わずかにぶれた。
「誰? 今言った人」
僕から目を離した教師は、きつい視線で教室を見まわした。
誰も手をあげなかった。何も言わなかった。でも僕には、今みんなの頭の中に、どのような映像が浮かんでいるのか想像することができた。
これと同じセリフを吐いた後、数学教師と小競り合いになり、職員室に引っぱられた日の、どこかのシーンだ。
僕が見物側だったら、ためらうことなく、心の中で、こんなふうにけしかける。
授業なんてどうでもいい。何人かの教師がすっ飛んでくるまで、ハデハデにやってくれ。頼むぜ、おい。
でも僕にはその期待に応えるつもりはなかった。
なにしろ相手は女教師。それにきっかけが、あまりにもつまらなさすぎた。こんなヤワなことで、二回目の職員室は勘弁してほしい。
もう一度、生徒を裏切ることにした僕は、はっきりとした声で「先生」と言ってから続けた。
「蛇足の意味を教えて頂く前に、僕の続きを聞いていただけませんか」
声からトゲが消えたのを感じたのか、教師は戸惑ったような表情を浮かべた。
「後悔先に立たずについて、ですか?」
僕は小さく首を振った。
「実社会では、それとは逆の発想も必要だということについてです」
一瞬教師は考える顔になったあと、確認するように、言葉をひとつひとつ句切りながら言った。
「後悔先に立たずの、逆の、ことわざ、と、いうことですか?」
「いえ」僕はすこしだけ間を置いてから言った。
「ポスト・イットについてです」
ふざけないで、と言われると思ったが、教師の目が急に優しくなった。
「なるほど」
教師の微笑みに戸惑ったのは僕だけではなかった。教室の中に、ホッとしたような、がっかりしたような妙な空気が流れはじめた。
僕を眺めていた教師は、思いだしたように黒板の上の時計に目をやった。
授業時間は十数分残っていた。
教師はゆっくりこちらに顔を向けると、僕に呼びかけるような感じで、
「いいわよ、聞いて上げる。ゆっくりでいいから、話してちょうだい」
と言った。
初めて聞く女教師の仲間言葉。教室は一瞬の静寂に包まれた。
と、そこまで思い出した時、僕はカロンだけでなく、自分自身をも納得させる妙案を思いついた。