濡れ手に粟商法の弊害? 管理人側視点
『濡れ手に粟商法の弊害?』
カロンの話を聞きながら、本気で思った。
ひょっとすると、三万円の稼ぎと引き替えに、僕は自分の中にあったもっともっと大切なものを失ったのかも知れない。
「まるで、由緒正しい家系に伝わる開封式に、わたしひとりだけが招待されたみたいだった。いきなり二礼二拍手一礼から始まったときは、びっくりしたけど、それはそれとして良い思い出になりそうよ。貴重な体験ありがとう」
カロンは嬉しそうな顔でそういったが、哀しいことに僕の記憶の中に、そのようなものは、どこにも見当たらなかった。欠片さえなかった。
僕の脳のどこかで、崖崩れか、雪崩に似たような現象が起きているんじゃないだろうか。世の中そんなに甘くないということを知らしめるための、天罰のようなものなのかもしれないぞ。
弱気な発想がふたつつづいたあと、素朴な疑問がひょっこり顔をのぞかせた。
僕は質問の前に、天井を見上げた。そうすることによって、忘れていたことを思い出すことがあるのだ。
でも無駄だった。僕は視線を蓋が閉まったままのブリキ缶に視線を戻してから、小さめの声で訊ねた。
「ビスケットの開封式が済んだということは、君だけじゃなくって、僕も中身を見たってことだよね」
え?
一瞬ぽかんとした表情を浮かべたカロンは、しばらくしてから「もしかして……」といいながら、僕の顔を覗きこんだ。
「まさか、覚えていないっていうんじゃないでしょうね、開封の儀式」
返事する気力さえなくなった僕は、視線を足元に落として、深いため息をついた。するとカロンは、感情の感じられない声で「でしょうね」といった。「いつものあなたじゃなかったもの」
大丈夫なの? すぐ病院に行きましょうよ、
そんなセリフで、僕の身を案じてくれると思っていたのに、あまりにもすんなり受け入れられたせいで、僕は拍子抜けしてしまった。
「どんなふうに違っていたの?」
といってから、ちらりとカロンを見た。
ぎひひ、わざとらしく笑ったカロンは、こんどは夢見るような目をしていった。
「一言で言えば、気品。気品に満ちあふれていた」
彼女の口から、そんな種類の言葉がでてくるとは思ってもいなかった。それも短いセリフの中に二度も。もちろん信じられない。このあと、どんでん返しのギャグか何かが待っているはず。
「気品? この僕に、気品が?」
僕は気品を二回使って、確認してみた。
しかし返ってきたのは真面目な声。表情も真顔。
「そう、凜とした雰囲気。あなたに圧倒されっぱなし。息もできなかった」
何か返そうと思ったが、言葉がみつからなかった。たぶん、まさかそんなという気持ちと、自分の本質はそっちかも知れないという気持ちが、せめぎ合っていたのだろう。
「あ、そうそう」
カロンが何かを思い出したように、すっくと立ち上がった。そして、両手をテーブルについて、僕の方に身を乗り出した、そして僕を見据えると、一言一言に力を入れてこういった。
「絶対に、勘違いしないでね。今回の件は、わたしとは、無関係なんだからね、いい?」
「もちろんだよ。君とはなにも関係ない。僕個人の問題」
気迫に押されたわけではないが、気づいたときには、オウム返しにいっていた。 あとから考えてみると、そのときのカロンのセリフの中には、とても重要なことが隠されていた。
「ねえ」僕の反応のはやさに安心したのか、カロンの声が優しい響きに変わった。「どこまで覚えているの? 開封の儀式」
「えっとねー」僕は肩を二、三回ぐるぐる回した。気持ちをリラックスさせようと思ったのだ。
「ガムテープを剥がそうとしたところまでは、はっきり覚えている……でもそのあとが……」
カロンは小さくうなずいた。
「だとすると、あなたの中で何かが切り替わったのは、二礼二拍手一礼の直前ということになるわね」
カロンが記憶という言葉を使わなかったことに、違和感のようなものを覚えた。
カロンは十秒ほどの間を置いてから、僕の目の前に置いてあるボトルに視線を移した。
「このコーラを買いに行ったのは、覚えているわよね」
立ち直りの気配がみえた僕の気持ちが、カクンと折れた。
アパートから一番近い自販機は大通りの信号機の横。早足でも、往復十分。それから計算すると、二十分前後の記憶が、僕の頭の中から消えたらしい。
「ざんねんながら」僕は力なく首を振った。「僕にはそのコーラは、空中から現れたように見えた」
黙ったまま何度もちいさくうなずいたカロンは、テーブルの一点を十秒ほど見つめてから、僕に向きなおった。
「ということは、記憶が戻ってきたのは、コーラをテーブルに置いたあたりってことよね。この部屋に戻ってから、一分くらいあと」
「はっきりしたことはわからないけど、たぶん、そうだと思う」
といったところで僕は、いの一番にすべき質問を忘れていることに気がついた。
「その前に、教えて欲しいことがあるんだけど」
「なに?」
僕はおいしそうなビスケットの写真が印刷してあるブリキ製の缶に視線を移した。
「何が入っていたわけ? この中に」
「あのさあ」カロンは、呆れたような、がっかりしたような表情になった。
「わたしに訊くより、自分の目で確かめた方が、はやいと思わない?」
自分のアホさ加減に、僕の口は自動的に半開きになった。
「だね、確かに、君のいうとおり」
あわてて椅子からおり、ビスケット缶に手を伸ばそうとした僕に、カロンは諭すような声で「あわてると、ろくなことはないわよ」といった。
「せっかく買ってきたんでしょ。一口飲んでからにしたらどう? あなたにとって、スタミナドリンク以上のものなんでしょ。それ」
彼女の視線の先にあったのは、ボトルまわりの水滴のほとんどが消えてしまったコーラ。
コーラは炭酸が命。生ぬるいコーラと醤油を出されたら、迷わず僕は醤油を選ぶ、てことはぜったいにない。
僕はどうでもいいようなことを考えながら、カロンの意見にありがたく従った。 カロンの話を聞きながら、本気で思った。
ひょっとすると、三万円の稼ぎと引き替えに、僕は自分の中にあったもっともっと大切なものを失ったのかも知れない。
「まるで、由緒正しい家系に伝わる開封式に、わたしひとりだけが招待されたみたいだった。いきなり二礼二拍手一礼から始まったときは、びっくりしたけど、それはそれとして良い思い出になりそうよ。貴重な体験ありがとう」
カロンは嬉しそうな顔でそういったが、哀しいことに僕の記憶の中に、そのようなものは、どこにも見当たらなかった。欠片さえなかった。
僕の脳のどこかで、崖崩れか、雪崩に似たような現象が起きているんじゃないだろうか。世の中そんなに甘くないということを知らしめるための、天罰のようなものなのかもしれないぞ。
弱気な発想がふたつつづいたあと、素朴な疑問がひょっこり顔をのぞかせた。
僕は質問の前に、天井を見上げた。そうすることによって、忘れていたことを思い出すことがあるのだ。
でも無駄だった。僕は視線を蓋が閉まったままのブリキ缶に視線を戻してから、小さめの声で訊ねた。
「ビスケットの開封式が済んだということは、君だけじゃなくって、僕も中身を見たってことだよね」
え?
一瞬ぽかんとした表情を浮かべたカロンは、しばらくしてから「もしかして……」といいながら、僕の顔を覗きこんだ。
「まさか、覚えていないっていうんじゃないでしょうね、開封の儀式」
返事する気力さえなくなった僕は、視線を足元に落として、深いため息をついた。するとカロンは、感情の感じられない声で「でしょうね」といった。「いつものあなたじゃなかったもの」
大丈夫なの? すぐ病院に行きましょうよ、
そんなセリフで、僕の身を案じてくれると思っていたのに、あまりにもすんなり受け入れられたせいで、僕は拍子抜けしてしまった。
「どんなふうに違っていたの?」
といってから、ちらりとカロンを見た。
ぎひひ、わざとらしく笑ったカロンは、こんどは夢見るような目をしていった。
「一言で言えば、気品。気品に満ちあふれていた」
彼女の口から、そんな種類の言葉がでてくるとは思ってもいなかった。それも短いセリフの中に二度も。もちろん信じられない。このあと、どんでん返しのギャグか何かが待っているはず。
「気品? この僕に、気品が?」
僕は気品を二回使って、確認してみた。
しかし返ってきたのは真面目な声。表情も真顔。
「そう、凜とした雰囲気。あなたに圧倒されっぱなし。息もできなかった」
何か返そうと思ったが、言葉がみつからなかった。たぶん、まさかそんなという気持ちと、自分の本質はそっちかも知れないという気持ちが、せめぎ合っていたのだろう。
「あ、そうそう」
カロンが何かを思い出したように、すっくと立ち上がった。そして、両手をテーブルについて、僕の方に身を乗り出した、そして僕を見据えると、一言一言に力を入れてこういった。
「絶対に、勘違いしないでね。今回の件は、わたしとは、無関係なんだからね、いい?」
「もちろんだよ。君とはなにも関係ない。僕個人の問題」
気迫に押されたわけではないが、気づいたときには、オウム返しにいっていた。 あとから考えてみると、そのときのカロンのセリフの中には、とても重要なことが隠されていた。
「ねえ」僕の反応のはやさに安心したのか、カロンの声が優しい響きに変わった。「どこまで覚えているの? 開封の儀式」
「えっとねー」僕は肩を二、三回ぐるぐる回した。気持ちをリラックスさせようと思ったのだ。
「ガムテープを剥がそうとしたところまでは、はっきり覚えている……でもそのあとが……」
カロンは小さくうなずいた。
「だとすると、あなたの中で何かが切り替わったのは、二礼二拍手一礼の直前ということになるわね」
カロンが記憶という言葉を使わなかったことに、違和感のようなものを覚えた。
カロンは十秒ほどの間を置いてから、僕の目の前に置いてあるボトルに視線を移した。
「このコーラを買いに行ったのは、覚えているわよね」
立ち直りの気配がみえた僕の気持ちが、カクンと折れた。
アパートから一番近い自販機は大通りの信号機の横。早足でも、往復十分。それから計算すると、二十分前後の記憶が、僕の頭の中から消えたらしい。
「ざんねんながら」僕は力なく首を振った。「僕にはそのコーラは、空中から現れたように見えた」
黙ったまま何度もちいさくうなずいたカロンは、テーブルの一点を十秒ほど見つめてから、僕に向きなおった。
「ということは、記憶が戻ってきたのは、コーラをテーブルに置いたあたりってことよね。この部屋に戻ってから、一分くらいあと」
「はっきりしたことはわからないけど、たぶん、そうだと思う」
といったところで僕は、いの一番にすべき質問を忘れていることに気がついた。
「その前に、教えて欲しいことがあるんだけど」
「なに?」
僕はおいしそうなビスケットの写真が印刷してあるブリキ製の缶に視線を移した。
「何が入っていたわけ? この中に」
「あのさあ」カロンは、呆れたような、がっかりしたような表情になった。
「わたしに訊くより、自分の目で確かめた方が、はやいと思わない?」
自分のアホさ加減に、僕の口は自動的に半開きになった。
「だね、確かに、君のいうとおり」
あわてて椅子からおり、ビスケット缶に手を伸ばそうとした僕に、カロンは諭すような声で「あわてると、ろくなことはないわよ」といった。
「せっかく買ってきたんでしょ。一口飲んでからにしたらどう? あなたにとって、スタミナドリンク以上のものなんでしょ。それ」
彼女の視線の先にあったのは、ボトルまわりの水滴のほとんどが消えてしまったコーラ。
コーラは炭酸が命。生ぬるいコーラと醤油を出されたら、迷わず僕は醤油を選ぶ、てことはぜったいにない。
僕はどうでもいいようなことを考えながら、カロンの意見にありがたく従った。




